2020年1月8日(水) 祈り会
聖書:ローマ 5:9〜11(新共同訳)
「今や、わたしたちはキリストの血によって義とされた」とパウロは言います。
義とは、正しい関係を表します。聖書では、神と正しい関係にあることを表します。義とされた、正しい関係になったということは、それ以前は正しい関係ではなかったということです。
わたしたちと神との関係は、罪によって壊れてしまいました。罪によって、神を信頼して、神と共に生きるということができなくなってしまいました。聖書はそのことを創世記のエデンの園の出来事として記しています。
神との関係が壊れることによって、人は不安の中に閉じ込められてしまいました。神がこのわたしを祝福していてくださることを信じられません。お祓いをしたり、お守りを持たないと不安です。神がこのわたしを神の国へと導いてくださることも信じられません。風水や占いで示されたラッキーカラーやラッキーアイテムを必要なものと考えます。不安だからこそ、自分が欲するものを与えてくれる偶像を求めます。
ですから、神との関係の回復、そして神と共に生きることは、人間にとって必須の課題です。それがキリストの血によって、つまりキリストの十字架によって回復された、と聖書は告げます。このことから、神との関係の回復は人間の業によってできるものではないことが分かります。救いは人間の業で得られるものではありません。救いはキリストの業です。恵みによって与えられるものです。
イエス キリストは、罪人の罪を負って十字架にかかりました。罪人に代わって神に裁かれました。罪の裁きがキリストの十字架においてなされました。神との関係が壊れた原因である罪が、裁かれました。これによって神との関係を妨げるものがなくなりました。神との関係はイエス キリストにより正しいものとなりましたので、もはや神の怒りはなくなりました。ですからわたしたちは、安心して神の御前に集うことができるようになりました。
8節にあるように「まだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示され」たのです。ですから「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさら」なのだとパウロは言います。
もはや罪による神との敵対関係は、取り除かれたのです。わたしたちは神の招きを受けて、安心して喜んで神の御前に進み出ることができるようになったのです。
和解は、聖書の大切なメッセージです。和解というのは、仲直りです。神と仲直りできるように、神が整えてくださいました。神が与えてくださるものは、人間が生きる上で欠かせない大切なものです。もし、仲直りができないとするならば、わたしたちの人間関係は壊れる一方です。人はただひたすらに孤独になるより他はありません。
わたしたちは、神が与えてくださるものによって、生きる道が示され、命の道を歩んでいくのです。神に赦されて、わたしたちも赦すのです。神に愛されて、わたしたちも愛するのです。同じように、神に和解へと招かれて、わたしたちも和解へと招くように導かれるのです。それは、主の祈りにおいて「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と常に示され教えられています。
聖書は、人は神のかたちである、神にかたどって造られたと告げます。ですからわたしたちが、なぜこのように生きなければならないか、その根源には神がそのようになさるから、ということがあるのです。神ご自身に、わたしたちの根本的な理由があるのです。なぜ赦さなければならないのか、なぜ愛さなければならないのか、なぜ和解しなければならないか、それは神がわたしたちに対してそうしてくださり、神のかたちであるわたしたちを導き、恵みに与らせようとしていてくださるからに他なりません。
キリストの救いの御業には、人が生きていくための招きと導きがあるのです。
そればかりではないのです。神との和解を得させてくださったわたしたちの主イエス キリストによって、神を誇りとすることができるのです。誇りは人の存在を支えるものです。神がこのわたしの存在を支える誇りとなってくださるのです。
わたしたちを創造し、わたしたちを救われる神を誇りとするということは、自分の存在を肯定し、生きることを喜べるということです。わたしをお造りくださった神を喜べる。わたしの人生を導かれる神を喜べるということです。自分自身に対する確かな肯定が神の許にあるのです。神を信じられない不安の中を生きるのではなく、神を誇りとし、神の許にある平安と希望に生きるのです。神は、イエス キリストによって、わたしの神となってくださったのです。
ですから、神を知る者は、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知っています。運命に翻弄されるのではなく、神が御子の命をもってこのわたしが、神の国に確かに入ることができるように、救いに与ることができるように、導いていてくださっていることを信じることができます。神はわたしの神となってくださった。そのことを信じて、神が与えてくださる確かさの中で、わたしたちは喜び生きる者とされているのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたの似姿に造られたわたしたちに、必要なすべての業を自らなしてくださり、明らかにしてくださったことを感謝します。またわたしたちの誇りとなってくださり、わたしたちを常に支えていてくださることを感謝します。わたしたちの源であるあなたを仰ぐとき、わたしたちは神の国に至る救いの道を歩むことができます。どうぞ聖霊によってわたしたちを照らし、あなたを仰ぎ見つつ歩む、あなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ローマ 5:9〜11(新共同訳)
「今や、わたしたちはキリストの血によって義とされた」とパウロは言います。
義とは、正しい関係を表します。聖書では、神と正しい関係にあることを表します。義とされた、正しい関係になったということは、それ以前は正しい関係ではなかったということです。
わたしたちと神との関係は、罪によって壊れてしまいました。罪によって、神を信頼して、神と共に生きるということができなくなってしまいました。聖書はそのことを創世記のエデンの園の出来事として記しています。
神との関係が壊れることによって、人は不安の中に閉じ込められてしまいました。神がこのわたしを祝福していてくださることを信じられません。お祓いをしたり、お守りを持たないと不安です。神がこのわたしを神の国へと導いてくださることも信じられません。風水や占いで示されたラッキーカラーやラッキーアイテムを必要なものと考えます。不安だからこそ、自分が欲するものを与えてくれる偶像を求めます。
ですから、神との関係の回復、そして神と共に生きることは、人間にとって必須の課題です。それがキリストの血によって、つまりキリストの十字架によって回復された、と聖書は告げます。このことから、神との関係の回復は人間の業によってできるものではないことが分かります。救いは人間の業で得られるものではありません。救いはキリストの業です。恵みによって与えられるものです。
イエス キリストは、罪人の罪を負って十字架にかかりました。罪人に代わって神に裁かれました。罪の裁きがキリストの十字架においてなされました。神との関係が壊れた原因である罪が、裁かれました。これによって神との関係を妨げるものがなくなりました。神との関係はイエス キリストにより正しいものとなりましたので、もはや神の怒りはなくなりました。ですからわたしたちは、安心して神の御前に集うことができるようになりました。
8節にあるように「まだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示され」たのです。ですから「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさら」なのだとパウロは言います。
もはや罪による神との敵対関係は、取り除かれたのです。わたしたちは神の招きを受けて、安心して喜んで神の御前に進み出ることができるようになったのです。
和解は、聖書の大切なメッセージです。和解というのは、仲直りです。神と仲直りできるように、神が整えてくださいました。神が与えてくださるものは、人間が生きる上で欠かせない大切なものです。もし、仲直りができないとするならば、わたしたちの人間関係は壊れる一方です。人はただひたすらに孤独になるより他はありません。
わたしたちは、神が与えてくださるものによって、生きる道が示され、命の道を歩んでいくのです。神に赦されて、わたしたちも赦すのです。神に愛されて、わたしたちも愛するのです。同じように、神に和解へと招かれて、わたしたちも和解へと招くように導かれるのです。それは、主の祈りにおいて「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と常に示され教えられています。
聖書は、人は神のかたちである、神にかたどって造られたと告げます。ですからわたしたちが、なぜこのように生きなければならないか、その根源には神がそのようになさるから、ということがあるのです。神ご自身に、わたしたちの根本的な理由があるのです。なぜ赦さなければならないのか、なぜ愛さなければならないのか、なぜ和解しなければならないか、それは神がわたしたちに対してそうしてくださり、神のかたちであるわたしたちを導き、恵みに与らせようとしていてくださるからに他なりません。
キリストの救いの御業には、人が生きていくための招きと導きがあるのです。
そればかりではないのです。神との和解を得させてくださったわたしたちの主イエス キリストによって、神を誇りとすることができるのです。誇りは人の存在を支えるものです。神がこのわたしの存在を支える誇りとなってくださるのです。
わたしたちを創造し、わたしたちを救われる神を誇りとするということは、自分の存在を肯定し、生きることを喜べるということです。わたしをお造りくださった神を喜べる。わたしの人生を導かれる神を喜べるということです。自分自身に対する確かな肯定が神の許にあるのです。神を信じられない不安の中を生きるのではなく、神を誇りとし、神の許にある平安と希望に生きるのです。神は、イエス キリストによって、わたしの神となってくださったのです。
ですから、神を知る者は、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知っています。運命に翻弄されるのではなく、神が御子の命をもってこのわたしが、神の国に確かに入ることができるように、救いに与ることができるように、導いていてくださっていることを信じることができます。神はわたしの神となってくださった。そのことを信じて、神が与えてくださる確かさの中で、わたしたちは喜び生きる者とされているのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたの似姿に造られたわたしたちに、必要なすべての業を自らなしてくださり、明らかにしてくださったことを感謝します。またわたしたちの誇りとなってくださり、わたしたちを常に支えていてくださることを感謝します。わたしたちの源であるあなたを仰ぐとき、わたしたちは神の国に至る救いの道を歩むことができます。どうぞ聖霊によってわたしたちを照らし、あなたを仰ぎ見つつ歩む、あなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン