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ローマの信徒への手紙 10:5〜8

2020-02-02 17:47:18 | 聖書
2020年2月2日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 10:5~8(新共同訳)


 パウロはで「わたしは彼らが救われることを心から願い・・神に祈っています」(10:1)と言います。彼らというのは旧約の民イスラエルのことです。彼らは父祖アブラハム以来の長い歴史の中で、イスラエルと呼ばれ、時にヘブライ人と呼ばれ、そしてユダヤ人と言われてきました。
 パウロがユダヤ人が「熱心に神に仕えている」(10:2)ことを知っていました。ただ彼らの「熱心さは、正しい認識に基づくもの」(10:2)ではありませんでした。ユダヤ人は、神が与えてくださる神の義ではなく、自分で作り出す自分の義を求めてしまいました(10:3)。
 義というのは正しい関係です。神の義は、神が造り出し与えてくださる正しい関係です。神が求めておられるのは、罪から救われることです。罪は神とは違う思いを持つことです。だから罪人は、神の義を受け取るという神の御心ではなく、自分が満足する自分で作り出す自分の義で立とうとするのです。だから神は、神が造り出した神の義を受け入れることを求められるのです。

 「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記して」いるとパウロは言います。レビ記 18:5からの引用です。これ以外にもここには旧約の引用がありますが、パウロは旧約の文脈に沿った引用ではなく、パウロがその言葉からイエス キリストへとつながる意味を感じとってキリストの救いを証しする言葉として用いています。
 訳は「掟を守る人は掟によって生きる」なのですが、「によって」と訳された前置詞は「中に」を意味する言葉が使われています。ですから「掟を守る人は掟によって生きる」というのは「掟を守る人は〈 掟の中で生きる 〉」とも訳せます。そうするとこの意味は「律法を守る人は、律法の世界の中で生きる」という意味も現れてきます。

 「しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません」とパウロは言います。6〜8節に出てくるのは、申命記 30:11〜14からの引用ですが、パウロがここで引用している意味は、先ほども言ったように、イエス キリストへとつながる意味に解釈して使用しています。
 その意味は「律法を完璧に守れるのは誰か」「誰が天に上ることを許されるのか」と言ってはならない。神は既にイエス キリストを天へ引き上げられた。それはキリストを天から引き降ろすことになってしまうから。
 「また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります」と言います。これも「誰が神の怒りを受けて地獄の底なしの淵に下ることになるのだろうか」という意味です。神は既にキリストの十字架において罪を裁かれ、キリストが陰府にまで下り、死者にまで救いをもたらしてくださいました。それをキリストを死者の中から引き上げてしまうことを言ってはならない、と言っているのです。

 パウロは、信仰による義、信仰によって与えられる正しい関係は、イエス キリストによってもたらされたのだと言っているのです。

 ここまでをまとめると、パウロはユダヤ人の救いを願っています。彼らが救われるためには、自分が律法を守ることで作り上げる自分の義への執着を捨てて、神が与えてくださるイエス キリストによる神の義を受け入れることが必要です。だからキリストを無視して、「誰が天に上るか」とか「誰が底なしの淵に下るか」とか考えるのは、神の御心から離れてしまうと言っているのです。

 では、神は何と言っておられるのか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これこそパウロたちが宣べ伝えている信仰の言葉です。

 神は言葉を用いられます。別の手紙のパウロの言葉によれば「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おう」(1コリント 1:21)とお考えになったのです。自分に語りかけられる言葉により、語りかけてくださる神へと向かい、神と向かい合う関係が生まれるからです。罪によってそっぽを向いてしまう、律法も神の御心関係なしに勝手に解釈してしまう。その罪を越えて神と向かい合う関係を、神は言葉によって造り出そうとされているのです。パウロはこのもう少し後でこう言います。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ 10:17)と。
 そして神が御心を伝えるために語られる言葉は、どこか遠くにあるのではなく、何か修行をしないと見出せないのではなく、既にあなたの近くで語られ、あなた自身が信仰告白として、あなたの口で告白し、あなたの心にあるのだと言うのです。

 だからわたしたちの教会は、信仰告白を大事にします。神が語りかけてくださったことに応答することを大切にします。神への応答が空しい言葉にならないように、信仰告白、教理の学びを重んじてきました。これらは語りかけてくださる神とちゃんと向き合うためです。学びは知的関心から行うこともできます。しかしわたしたちの教会が行う学びは、わたしたち自身が神と向き合うためのものです。

 神が求めておられるのは「わたしたち自身」なのです。わたしたちが「神と共に歩むこと」(ミカ 6:8)なのです。神は言われます。「わたしは・・心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。」(イザヤ 57:15)わたしたちは自分で自分の価値を高めるのではありません。わたしたちの価値は、ひとり子を遣わす程にわたしたちを愛してくださる神の愛の中にあります。
 そのことを、わたしたちは神の言葉から、また神の言葉であるイエス キリストから聞くのです。教会は、神の言葉を聞くために、イエス キリストに出会うために、神がお建てくださるものです。わたしたち一人ひとり、そして教会の存在根拠も神の愛の内にあるのです。
 教会において、多くの方が神の愛の内に自らを見出すことができますように。信仰によるキリストの義を受けることができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちと向かい合い、わたしたちと共に生きようとしてくださっていることを感謝します。世の初めにすべてを造ったあなたの言葉、死から命へと呼び出すあなたの言葉がわたしたちに対して語りかけられていることに気づかせてください。あなたの御言葉が信仰を生み出し、わたしたちを命に至らせてくださることを喜び、あなたを讃えるあなたの民、あなたの子であらせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン