聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 4:39〜42

2020-02-16 19:40:03 | 聖書
2020年2月16日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:39〜42(新共同訳)


 昨年の9月からこの 4:1 から始まるサマリアのシカルで名も知られぬ女性とイエスが出会われた話を聞いてきました。きょうはその物語の最後の場面です。

 イエスの一行はガリラヤへと行く途中、サマリアのシカルという町に立ち寄りました。このシカルという町にはヤコブの井戸と呼ばれる井戸があって、イエスはその井戸の傍らに、疲れと空腹のため座り込んでいました。そこで一人の女性と出会います。この女性とイエスの不思議な対話が始まります。この対話の中で、イエスはこの女性に自らのことを明らかにします。
 彼女は言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」するとイエスははっきりとお答えになります。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
 イエスが特別な人であることは、この対話を通して彼女にもよく分かりました。彼女は、水を汲むために井戸に来たのですが、水がめを置いたまま町へと駆け出し、出会う人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言って回りました。

 町の多くの人たちは、彼女の言葉を信じました。町の人たちにとって、彼女は運のない女、5人の夫がいたが、連れ添うことのできなかった女、今では傷つくことを恐れて結婚せずに男と暮らしている女。
 町の人たちはどうして彼女の言葉を信じたのでしょう。
 それは彼女が「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と言ったからです。町の人たちは、彼女の行ったことを知っていました。そして彼女がそれに触れられたくないことも知っていました。顔を合わせるのを避けて、昼日の中、井戸に水を組みに来ることも知っていました。その彼女が「わたしの行ったことをすべて言い当てた人がいる」と言い、さらには「この方がメシアかもしれません」と言って回って語るのを止めないのです。

 福音書は彼女の言葉を「証言」と言っています。元になる言葉「マルトュレオー」は「証しする」という意味で、「殉教、殉教者」という言葉にもつながっていく言葉です。彼女は自分自身をかけて伝えました。町の人たちにもそれが分かりました。顔を合わせたくない自分たちのところへ飛びこんで来て「わたしの行ったことをすべて言い当てた人がいる」と言って止めないのです。彼女はまさしくイエスを証言し、証ししたのです。
 彼女の証言は、彼女の人生がかかったものでした。しかし内容は、旧約の引用もなく、メシアつまり救い主がどういう存在なのかの説明もありません。けれど「この方です」とイエスを指し示すには、知識が必要なのではありません。「このわたしを知っていて」くださり「このわたしのために来てくださった」イエス キリストと出会ったかどうかだけなのです。

 町の人たちは「イエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるように」と頼みました。ガダラ人の地で悪霊に憑かれた人を癒やしたとき、豚が湖に飛び込むということがあって、町の人たちがイエスに「出て行ってもらいたい」(マタイ 6:34)と言ったのとは対照的です。

 そしてイエスは、二日間そこに滞在されました。たった二日間です。しかし、おそらく今回の出来事を通して、イエスの弟子たちとサマリアには繋がりができました。使徒言行録8章にはサマリアに再度福音が伝えられたことが記されています。
 「エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って」(使徒 8:1)行きました。フィリポも「サマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝え」(使徒 8:5)ました。「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせ」ました。「二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈」(使徒8:14,15)りました。「ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った」(使徒 8:25)のです。

 彼女がイエスと過ごした時間は1時間にも満たない時間だったかもしれません。イエスがシカルの町に滞在されたのは、二日間だけでした。しかし「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道 3:11 口語訳)のです。「そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じ」ました。

 町の人たちは彼女に言います。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからでは」ありません。「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 聖書は「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ 10:17)と言います。わたしたちは、キリストを指し示すことはできます。証しすることはできます。しかし信仰を与えることはできません。信仰は、一人ひとりがキリストと出会い、キリストご自身の言葉を聞くことによって与えられるのです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)御言葉(聖書)と聖霊によりキリストと出会い、信仰が与えられ、信仰が与えられて、キリストにおいて現された神の真理、愛故に罪人を救うという神の真理を知るのです。

 教会は、信仰の要であるイエス キリストと出会うために建てられました。だからキリストの言葉を語り、神の御心を取り次ぎます。この教会に集う一人ひとりが「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった」と告白するためです。
 ある人(カール バルト)は「一人のキリスト者が生まれるということは、天地創造に匹敵する奇跡である」と言ったそうですが、わたしもその奇跡を神が起こしてくださると信じて説教するのです。

 サマリアの教会の最初の礎は、名も知られぬ一人の女性でした。敢えて人間的な表現をするなら取るに足らぬ一人の女性でした。しかし、神の御業は人の目には見えぬところ、人の思いの届かぬところにまで及びます。イエスご自身が譬えられたようにいなくなった一匹の羊(ルカ 15:1~7)、たった一人の女性をイエスは尋ね求められるのです。

 キリスト教会の2000年の歴史から見れば、わたしも皆さんも名も知れぬ者でしょう。しかし「名も知れぬ」は神にとって問題ではありません。神にとって問題なのは、キリストと出会ったかどうか、キリストがあなたを求めている救い主であると知ったかどうか、信じたかどうかなのです。
 どうかこの教会が、キリストと出会える教会でありますように。集う一人ひとりがキリストの恵みに与れる教会でありますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは愛をもって造られた一人ひとりをお忘れになりません。どこまでも捜し求めて、あなたの許に連れ帰ってくださいます。そして用いてくださいます。どうかこの教会に集う一人ひとりもあなたが捉え、導いてくださいますように。どうかこの教会に集う者たちが、キリストと出会い、救いに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン