2020年4月12日(日)主日礼拝
聖書:マタイによる福音書 28:1~20(新共同訳)
きょうはイエス キリストの復活を記念する復活節です。
復活節は毎年日にちが変わります。春分の日の後、満月の直後の日曜日となっています。今年も数日前にきれいな満月を見ることができました。
キリスト教会は毎週日曜日に礼拝を守りますが、これはキリストが日曜日に復活されたので、それを記念して日曜日に礼拝を守っています。そのキリストの復活の出来事を記したのがきょうの箇所です。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行」きました。
ユダヤ教の安息日は土曜日です。当時ユダヤでは1日を日没から日没までとしていたので、正確には金曜日の夕方の日没から土曜日の夕方の日没までが安息日です。
週の初めの日の明け方というのは、日曜日の朝のことです。
マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。イエスが十字架に掛けられたのが金曜日のことで、息を引き取られたのが午後3時頃のことです。日没が近づいており、日没になると安息日が始まります。安息日にはいかなる仕事もしてはならないという十戒の戒めがありますから(出エジプト 20:8~11)急ぎ葬りの支度をして埋葬しました。ですから丁寧に葬ることができませんでした。そこで女性たちはよい香りのする油を持って、金曜日にできなかったことをするために墓へと向かったのです。遺体は包帯をするように布で包みます。その布によい香りのする油を塗るのです。
墓に行くと、大きな地震が起こりました。当時の墓は、岩肌をくり抜き遺体を安置すると、入口を石で塞ぎました。その入口を塞ぐ石が地震で脇に転がったのでしょう。そこに天使がやって来て、石の上に座りました。それを当時の人は「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」と表現したのではと思います。あるいは、文字どおり天使が降ってきて、石を転がしたのかもしれません。
天使の「姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と言います。
天使は婦人たちに言います。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
彼女たちは死後の葬りをするために墓にやって来たのですが、天使はイエスはもう墓にはいない、復活されたと告げます。
彼女たちは混乱しただろうと思います。二千年も昔の人だから復活を信じられる、というのではありません。復活は信じがたいことなのです。
彼女たちの当惑をよそに、天使は務めを与えます。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
当時、女性の証言は認められていませんでした。しかしイエスの復活の証言は、女性たちに託されました。彼女たちは「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行」きました。恐れよりも喜びが優ったのです。
「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏し」ました。
ヘブライ語の挨拶は、神の祝福を祈り求める言葉です。「おはよう」という言葉は、もちろん普通に挨拶で使われる言葉なのですが、直訳するならば「喜びあれ、喜びがあるように」という言葉です。イエスが救いを成し遂げてくださったので「あなたに喜びがあるように」という日常の挨拶が、単なる挨拶ではなく内実のある意味ある言葉となったのです。
そしてイエスは言われます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
それで「十一人の弟子たちはガリラヤに行き・・イエスに会い、ひれ伏し」ました。
墓に来た女性たちがイエスに出会ったときも、弟子たちが出会ったときも「ひれ伏す」という言葉が使われています。偶像礼拝が禁じられている神の民がひれ伏すのは、神だけです。マタイによる福音書は、十字架を負い、復活されたイエス キリストは、神であることを証ししています。
最後にイエスは言われます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イエスの復活は新しい人生を開きます。死んで終わりではない新しい人生。イエス キリストに仕え、イエスと共に救いの業、命の業をなす新しい人生です。
この新しい人生にはイエスが共にいてくださいます。神が民に約束されてきた大切な内容が「共にいる」ということです。
神はモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト 3:12)と言われました。
モーセの後継者として民を導いたヨシュアにも「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」(ヨシュア 1:5)と言われました。
神が預言者イザヤに託したメッセージは「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ 41:10)でした。
神が共にいてくださることこそ、神の民イスラエルにとって最も大切な神の約束なのです。
そしてイエス誕生の時、天使が伝えたのは「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ 1:23)これはイザヤの預言です(イザヤ 7:14)。
マタイによる福音書は、神がイエス キリストにおいて旧約の約束を成就されたことを伝えています。ですから福音書の最後の言葉も「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスの言葉なのです。
死ですらイエス キリストを引き離すことはできません。イエス キリストが共にいてくださり、救い主であり続けてくださるので、わたしたちは今、救いの恵みの中に立っているのです。
ハレルヤ
父なる神さま
イエス キリストがどこまでもわたしたちと共にいてくださることを感謝します。どうか共にいてくださるイエス キリストを仰ぎ見て歩んでいくことができますよう、わたしたちの信仰を導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:マタイによる福音書 28:1~20(新共同訳)
きょうはイエス キリストの復活を記念する復活節です。
復活節は毎年日にちが変わります。春分の日の後、満月の直後の日曜日となっています。今年も数日前にきれいな満月を見ることができました。
キリスト教会は毎週日曜日に礼拝を守りますが、これはキリストが日曜日に復活されたので、それを記念して日曜日に礼拝を守っています。そのキリストの復活の出来事を記したのがきょうの箇所です。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行」きました。
ユダヤ教の安息日は土曜日です。当時ユダヤでは1日を日没から日没までとしていたので、正確には金曜日の夕方の日没から土曜日の夕方の日没までが安息日です。
週の初めの日の明け方というのは、日曜日の朝のことです。
マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。イエスが十字架に掛けられたのが金曜日のことで、息を引き取られたのが午後3時頃のことです。日没が近づいており、日没になると安息日が始まります。安息日にはいかなる仕事もしてはならないという十戒の戒めがありますから(出エジプト 20:8~11)急ぎ葬りの支度をして埋葬しました。ですから丁寧に葬ることができませんでした。そこで女性たちはよい香りのする油を持って、金曜日にできなかったことをするために墓へと向かったのです。遺体は包帯をするように布で包みます。その布によい香りのする油を塗るのです。
墓に行くと、大きな地震が起こりました。当時の墓は、岩肌をくり抜き遺体を安置すると、入口を石で塞ぎました。その入口を塞ぐ石が地震で脇に転がったのでしょう。そこに天使がやって来て、石の上に座りました。それを当時の人は「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」と表現したのではと思います。あるいは、文字どおり天使が降ってきて、石を転がしたのかもしれません。
天使の「姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と言います。
天使は婦人たちに言います。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
彼女たちは死後の葬りをするために墓にやって来たのですが、天使はイエスはもう墓にはいない、復活されたと告げます。
彼女たちは混乱しただろうと思います。二千年も昔の人だから復活を信じられる、というのではありません。復活は信じがたいことなのです。
彼女たちの当惑をよそに、天使は務めを与えます。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
当時、女性の証言は認められていませんでした。しかしイエスの復活の証言は、女性たちに託されました。彼女たちは「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行」きました。恐れよりも喜びが優ったのです。
「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏し」ました。
ヘブライ語の挨拶は、神の祝福を祈り求める言葉です。「おはよう」という言葉は、もちろん普通に挨拶で使われる言葉なのですが、直訳するならば「喜びあれ、喜びがあるように」という言葉です。イエスが救いを成し遂げてくださったので「あなたに喜びがあるように」という日常の挨拶が、単なる挨拶ではなく内実のある意味ある言葉となったのです。
そしてイエスは言われます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
それで「十一人の弟子たちはガリラヤに行き・・イエスに会い、ひれ伏し」ました。
墓に来た女性たちがイエスに出会ったときも、弟子たちが出会ったときも「ひれ伏す」という言葉が使われています。偶像礼拝が禁じられている神の民がひれ伏すのは、神だけです。マタイによる福音書は、十字架を負い、復活されたイエス キリストは、神であることを証ししています。
最後にイエスは言われます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イエスの復活は新しい人生を開きます。死んで終わりではない新しい人生。イエス キリストに仕え、イエスと共に救いの業、命の業をなす新しい人生です。
この新しい人生にはイエスが共にいてくださいます。神が民に約束されてきた大切な内容が「共にいる」ということです。
神はモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト 3:12)と言われました。
モーセの後継者として民を導いたヨシュアにも「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」(ヨシュア 1:5)と言われました。
神が預言者イザヤに託したメッセージは「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ 41:10)でした。
神が共にいてくださることこそ、神の民イスラエルにとって最も大切な神の約束なのです。
そしてイエス誕生の時、天使が伝えたのは「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ 1:23)これはイザヤの預言です(イザヤ 7:14)。
マタイによる福音書は、神がイエス キリストにおいて旧約の約束を成就されたことを伝えています。ですから福音書の最後の言葉も「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスの言葉なのです。
死ですらイエス キリストを引き離すことはできません。イエス キリストが共にいてくださり、救い主であり続けてくださるので、わたしたちは今、救いの恵みの中に立っているのです。
ハレルヤ
父なる神さま
イエス キリストがどこまでもわたしたちと共にいてくださることを感謝します。どうか共にいてくださるイエス キリストを仰ぎ見て歩んでいくことができますよう、わたしたちの信仰を導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン