2020年8月9日(日)主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 11:23~32(新共同訳)
25節「兄弟たち・・次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」
イスラエルの救いを心から願うパウロは(10:1)、イスラエルが、待ち続けた救い主、イエス キリストを拒絶し、福音がイスラエルを離れ、異邦人に差し出されることになったことを神に問い続けます。
神の民は皆、神に問い続け、訴え続けてきました。罪人には神の御心が明らかではありません。罪は、神とは違う思いを抱くことですから、神がなさること、神の導きに納得がいきません。パウロもまた神に問い続けます。パウロ自ら自分の思いを超える救いを経験しましたけれども、神の御心を理解し尽くすことはできませんから問い続けるのです。
その中で、パウロは神の「秘められた計画」に気づかされていきます。
「秘められた計画」は、秘義(聖書協会共同訳)、奥義(新改訳2017)、神秘(フランシスコ会訳)などとも訳されています。
イスラエルが神に選び分かたれたオリーブだとするならば、異邦人は野生のまま置かれているオリーブです。神に選ばれたオリーブであるイスラエルは、神によって育まれ栽培されていましたが、不信仰の故に折り取られてしまいました。そして野生のオリーブである異邦人が接ぎ木されました。
異邦人キリスト者にはイスラエルに代わって選ばれたことに対する驕りがあったようです。パウロはその驕りを注意します。18節「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。」22節「神の慈しみに・・とどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
そしてイスラエルについては23節「不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」と言います。
その上で25節「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」と言います。ここからパウロが神に問い続ける中で示された神の秘められた計画が語られます。
25~26節「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」パウロは全イスラエルが救われる幻、神の計画が示されました。それは全イスラエルが救われる前に、異邦人全体が救いに達するというものです。
「異邦人全体が救いに達するまで」は、新しい訳では「異邦人の満ちる時が来るまで」(聖書協会共同訳)」となっています。異邦人の救いが満ちる時、26節「こうして全イスラエルが救われる」のです。
これは旧約で預言されていたことであると、イザヤ 59:20~21や詩編 14:7を引用します。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。/これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。」シオンというのはエルサレムのこと、ヤコブというのはイスラエルのことです。エルサレムで十字架を負われたイエス キリストが来て、イスラエルの不信心を遠ざけてくださる。神がイスラエルの罪を取り除いてくださるときに起こる主の約束である、と言うのです。
パウロは言います。28節「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。」
神の福音、キリストの良き知らせについては、イスラエルは、異邦人が救いに与るために、福音を拒絶し、神に敵対しています。けれども神の選びということで言えば、神を信じ、神に従った先祖たちのお蔭で今も神に愛されている、というのです。29節「神の賜物と招きとは取り消されない」からです。
ファリサイ派にいた頃のパウロは、神に従っているから神に愛されている、神に熱心であるほど神に愛される、と考えていました。この神に敵対しているけれども、神に愛されているというのは、従来のパウロでは考えられない考え方です。神に敵対していたパウロ自身の回心、これまで学んできた旧約の御言葉を何度も思い起こして神に問いかける、異邦人の使徒として立てられ多くの困難を経験しながら伝道に仕える、神に従う中で経験するあらゆる事柄を思い起こしながら神に祈り求める。そのような中で神から示された秘められた計画、それはこれまでの自分には受け入れがたい、矛盾したものであったかもしれません。けれどもそれをイエス キリストが体現されました。拒絶され、捨てられたのに、最後まで愛し抜き、十字架を負い抜いてくださいました。コロサイ 1:27ではこう言われています。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」まさしく神の秘められた計画とは、イエス キリストなのです。
パウロもキリストが出会ってくださったので、神の御心を知り、神の前に身を低くする者とされました。神の愛と約束は変わらなかった。迫害者であった自分にさえ与えられた。何一つ神の御言葉、約束は変わっていない。その神の真実の故に、自分も救いに入れられた。パウロはキリストにおいて成就した神の秘められた計画へと導かれます。
神は不従順をさえお用いになるお方。30節 異邦人たちはかつては神に不従順でした。それが今、イスラエルの不従順によって憐みを受けて、キリストの福音に与っています。そして今、イスラエルは異邦人たちが憐れみを受けるため、不従順になっていますが、それは彼ら自身が将来憐れみを受けるためなのです。
神の示しによって「あぁ、そうだったのか」と気づかされたパウロは神の御前で自ら確認するように語ります。32節「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」
神はすべての人を憐れんでおられます。だからわたしたちは希望を持ってキリストを宣べ伝えます。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)
神は生命の通う生き生きとした関係を求めておられます。喜びをもって神を信じ、神と共に生きる関係を求めておられます。ですから「すべての人は救われます」というように結果を固定されません。固定してしまうと、標本のように生命が失われてしまいます。けれど、神はすべての人を憐れんでいてくださいます。憐れむためにすべての人は不従順に閉じ込められています。神は招いておられるのです。わたしたちが神へと立ち帰るのを待っておられます。放蕩息子が父親と再会したあの喜びと平安を与えようとしていてくださいます(ルカ 15:20)。神は冷めることのない愛をもってわたしたちを憐れんでいてくださいます。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちに対して生命が満ちる生きた関係を求め与えてくださることを感謝します。わたしたちは罪ゆえにあなたの御心からずれ、あなたから離れていってしまいます。そのわたしたちを主の日ごとに御前に立ち帰らせ、聖書を通して語りかけてくださることを感謝します。どうかあなたの慈しみの内に生きるあなたの子であらせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ローマの信徒への手紙 11:23~32(新共同訳)
25節「兄弟たち・・次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」
イスラエルの救いを心から願うパウロは(10:1)、イスラエルが、待ち続けた救い主、イエス キリストを拒絶し、福音がイスラエルを離れ、異邦人に差し出されることになったことを神に問い続けます。
神の民は皆、神に問い続け、訴え続けてきました。罪人には神の御心が明らかではありません。罪は、神とは違う思いを抱くことですから、神がなさること、神の導きに納得がいきません。パウロもまた神に問い続けます。パウロ自ら自分の思いを超える救いを経験しましたけれども、神の御心を理解し尽くすことはできませんから問い続けるのです。
その中で、パウロは神の「秘められた計画」に気づかされていきます。
「秘められた計画」は、秘義(聖書協会共同訳)、奥義(新改訳2017)、神秘(フランシスコ会訳)などとも訳されています。
イスラエルが神に選び分かたれたオリーブだとするならば、異邦人は野生のまま置かれているオリーブです。神に選ばれたオリーブであるイスラエルは、神によって育まれ栽培されていましたが、不信仰の故に折り取られてしまいました。そして野生のオリーブである異邦人が接ぎ木されました。
異邦人キリスト者にはイスラエルに代わって選ばれたことに対する驕りがあったようです。パウロはその驕りを注意します。18節「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。」22節「神の慈しみに・・とどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
そしてイスラエルについては23節「不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」と言います。
その上で25節「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」と言います。ここからパウロが神に問い続ける中で示された神の秘められた計画が語られます。
25~26節「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」パウロは全イスラエルが救われる幻、神の計画が示されました。それは全イスラエルが救われる前に、異邦人全体が救いに達するというものです。
「異邦人全体が救いに達するまで」は、新しい訳では「異邦人の満ちる時が来るまで」(聖書協会共同訳)」となっています。異邦人の救いが満ちる時、26節「こうして全イスラエルが救われる」のです。
これは旧約で預言されていたことであると、イザヤ 59:20~21や詩編 14:7を引用します。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。/これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。」シオンというのはエルサレムのこと、ヤコブというのはイスラエルのことです。エルサレムで十字架を負われたイエス キリストが来て、イスラエルの不信心を遠ざけてくださる。神がイスラエルの罪を取り除いてくださるときに起こる主の約束である、と言うのです。
パウロは言います。28節「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。」
神の福音、キリストの良き知らせについては、イスラエルは、異邦人が救いに与るために、福音を拒絶し、神に敵対しています。けれども神の選びということで言えば、神を信じ、神に従った先祖たちのお蔭で今も神に愛されている、というのです。29節「神の賜物と招きとは取り消されない」からです。
ファリサイ派にいた頃のパウロは、神に従っているから神に愛されている、神に熱心であるほど神に愛される、と考えていました。この神に敵対しているけれども、神に愛されているというのは、従来のパウロでは考えられない考え方です。神に敵対していたパウロ自身の回心、これまで学んできた旧約の御言葉を何度も思い起こして神に問いかける、異邦人の使徒として立てられ多くの困難を経験しながら伝道に仕える、神に従う中で経験するあらゆる事柄を思い起こしながら神に祈り求める。そのような中で神から示された秘められた計画、それはこれまでの自分には受け入れがたい、矛盾したものであったかもしれません。けれどもそれをイエス キリストが体現されました。拒絶され、捨てられたのに、最後まで愛し抜き、十字架を負い抜いてくださいました。コロサイ 1:27ではこう言われています。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」まさしく神の秘められた計画とは、イエス キリストなのです。
パウロもキリストが出会ってくださったので、神の御心を知り、神の前に身を低くする者とされました。神の愛と約束は変わらなかった。迫害者であった自分にさえ与えられた。何一つ神の御言葉、約束は変わっていない。その神の真実の故に、自分も救いに入れられた。パウロはキリストにおいて成就した神の秘められた計画へと導かれます。
神は不従順をさえお用いになるお方。30節 異邦人たちはかつては神に不従順でした。それが今、イスラエルの不従順によって憐みを受けて、キリストの福音に与っています。そして今、イスラエルは異邦人たちが憐れみを受けるため、不従順になっていますが、それは彼ら自身が将来憐れみを受けるためなのです。
神の示しによって「あぁ、そうだったのか」と気づかされたパウロは神の御前で自ら確認するように語ります。32節「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」
神はすべての人を憐れんでおられます。だからわたしたちは希望を持ってキリストを宣べ伝えます。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)
神は生命の通う生き生きとした関係を求めておられます。喜びをもって神を信じ、神と共に生きる関係を求めておられます。ですから「すべての人は救われます」というように結果を固定されません。固定してしまうと、標本のように生命が失われてしまいます。けれど、神はすべての人を憐れんでいてくださいます。憐れむためにすべての人は不従順に閉じ込められています。神は招いておられるのです。わたしたちが神へと立ち帰るのを待っておられます。放蕩息子が父親と再会したあの喜びと平安を与えようとしていてくださいます(ルカ 15:20)。神は冷めることのない愛をもってわたしたちを憐れんでいてくださいます。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちに対して生命が満ちる生きた関係を求め与えてくださることを感謝します。わたしたちは罪ゆえにあなたの御心からずれ、あなたから離れていってしまいます。そのわたしたちを主の日ごとに御前に立ち帰らせ、聖書を通して語りかけてくださることを感謝します。どうかあなたの慈しみの内に生きるあなたの子であらせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン