聖書の言葉を聴きながら

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詩編 138:4〜8

2020-08-27 14:00:40 | 聖書
2020年8月26日(水) 祈り会
聖書:詩編 138:4〜8(新共同訳)


 新バビロニアが南ユダを滅ぼして、詩人を始め多くの人たちがバビロニアの首都バビロンに連れて行かれました。
 第1回の捕囚からなら60年、第2回からなら50年の月日が流れました。人生の大半が過ぎ去る年月です。ですがそれも終わる日が来ました。ペルシアの王、キュロス2世が新バビロニアを滅ぼし、捕囚解放の勅令を出したのです。

 詩人は神に感謝を献げます。どれほどこの日を待ち望んだことでしょう。
 詩人は神を誉め讃える中で、幻を見ます。
 4節「地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。/あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。」
 今、詩人の前には「地上の王は皆、あなたに感謝をささげます」というような現実はありません。そして今に至るまでありません。これは終わりの日の幻です。
 神の民は、終わりの日の救いの完成を望み見、仰ぎ見つつ歩みます。神は、長い間捕囚からの解放を願い求めてきた詩人に、解放の知らせを聞いたとき、神に感謝をしに帰ってきた詩人に、幻を与えてくださいました。
 今も聖晩餐を守るとき、式辞で「終わりの日に与る主の祝宴を予め告げるものであります」と告げられ、終わりの日に代々の聖徒たちが喜び集う主の食卓を思い描きつつ聖晩餐に与ります。救いの出来事は、今この時の救いだけでなく、救いの御業が完成する未来をも示すのです。
 この幻は、他の詩編や預言者にも与えられています。おそらく同じ時代の人ではないかと思います。
詩編 102:16「国々は主の御名を恐れ/地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。」
ミカ 4:2「多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。」

 今引用したミカ書にも「道」が出てきました。詩人も「道」について語ります。5節「主の道について彼らは歌うでしょう/主の大いなる栄光を。」
 主の道は救いの道。栄光は、聖書においては神が救いの神であることが現れること。主の道を行くとき、人々は神が救いの神でいてくださることを経験し知るのです。

 6節「主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。」
 詩人は、捕囚からの解放を通して神を知ります。神は天の高みにおられます。けれど、低くされている者を見ていてくださいます。捕囚の民を忘れることなく見ていてくださいました。そして遠くにいましても、高ぶる者を知っておられます。神に用いられたことなどつゆほども知らず、自分の力を誇るバビロニアは、今度はペルシアによって砕かれてしまいました。

 7節「わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。」
 詩人は祈ります。神が命を得させてくださるようにと。これはただ生きているというのではなく、神との交わりがある命、神と共にある命です。神がわたしと共にいてくださる。神はわたしを見捨てることも見放すこともなさらない。神はわたしの救いの神である。ということを信じることのできる命です。
 右は力の象徴です。使徒信条でも、天に昇られたイエスは、神の右に座しておられる、という表現が出てきます。神ご自身の御手の業、救いの御業によって神と共に生きることができますようにと祈ります。

 そして祈りは確信に至ります。8節「主はわたしのために/すべてを成し遂げてくださいます。」
 詩人は、神がこのわたしのために、わたしの救いのために御業をなしていてくださることを知ります。この信仰をパウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ 8:28)と言っています。

 詩人は祈ります。「主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。」
 詩人は、神こそ救いであることを実感しています。神に望みを置いて生きてきてよかった。信仰を与えられてよかった。主に在る喜びが、願い・祈りに至ります。「主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。」
 「御手の業」には解釈が二通りあります。原文は複数形のようです。複数形であれば、諸々の神の救いの御業を表します。ただ単数形の写本も多くあるようです。ヨブ 14:15には「御手の業であるわたし」という表現が出てくるので、単数形の場合は詩人本人を表し「これからもわたしから手を離さないでください」という意味になります。6節からの流れで言えば「いと小さきわたしを手放さないでください」という祈りになるでしょうか。

 詩人は幻の中で、低くされた者が顧みられる神の国を見ます。大国アッシリアもバビロニアもなくなりました。ペルシアもなくなります。
 神はイザヤを通してこう語られます。「わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザヤ 57:15)
 詩人もイザヤもまだ知りませんが、へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させるために、神は独り子イエス キリストをお遣わしになります。詩人が見た幻も、イザヤに与えられた預言も、イエス キリストにおいて実現し成就していきます。神の言葉は虚しくなることがありません。
 詩人は、バビロン捕囚からの解放において神を経験し、心新たに神を知ります。ご自身の民を慈しみ、救いの御業をなされる神。その約束を信じて大丈夫な真実の神。全世界の民、すべての国の王を救いへと導く神。神を知るとき、民には讃美が与えられます。神の民は、歌いつつ救いの道を歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 終わりの日の幻、救いの完成を仰ぎ見させてくださることを感謝します。あなたの見せてくださる幻が出来事なることを信じることができますように。御言葉を通して、忍耐深くあなたを信じて救いの道を歩ませてください。わたしたちにも讃美の歌声、讃美の喜びをお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン