2020年9月6日(日)主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙 12:1~2(新共同訳)
パウロは勧めます。1節「兄弟たち、自分の体を神に献げなさい。」
何故こんなことを勧めるのでしょうか。それは、神がわたしたちを求めておられるからです。神が求めておられるのは、わたしたちです。物ではありません。預言者ミカは言います。「主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。・・主が何をお前に求めておられるか・・へりくだって神と共に歩むこと」。(ミカ 6:7) そして旧約の詩人は告白します。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。」(詩編 51:19)神が求めておられるのは、わたしたち自身です。他の何かでもってわたしたちに代えることはできません。
だからパウロは勧めます。「兄弟たち、自分の体を神に献げなさい。」
神はわたしたちを救うために独り子イエス キリストをお遣わしくださり、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(ローマ 3:22)をくださいました。
イエス キリストは「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ 2:2)です。ですから、わたしたちはイエス キリストが自分の救い主であることを信じ、受け入れたことを通して、1節「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」とされているのです。
神は、わたしたちが神と共に生きることを求めておられます。だから心だけでなく、体も求められます。聖書は「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント 10:31)とも勧めます。
神はわたしたちの一部分を求めているのではありません。「日曜日の礼拝の時間はわたしに献げなさい」ではないのです。全生活、全人生が神に献げられ、神と共に生きるために、神はイエス キリストをお与えくださったのです。
だから自分の体を神に献げることこそ1節「あなたがたのなすべき礼拝」だと言われているのです。
礼拝とは仕えることです。朝の礼拝を英語で morning service と言います。ホテルの朝食ではありません。ドイツ語では Gottes dienst 神の奉仕と言います。神がわたしたちの救いのために、イエス キリストにおいて身を低くして仕えてくださり、その神の御業に応答してわたしたちが神に仕えるのです。礼拝とは仕えることです。
そして「なすべき」と訳されているのは「理にかなった」という意味の言葉です。ここでは「ふさわしい」という言葉だと分かりやすいでしょうか。
つまりここでは「神はキリストの命をかけて救いを成し遂げてくださいました。だから、あなたがた自身を神に献げて、神と共に歩みなさい。それこそが救いにふさわしい仕え方です」と言っているのです。
さらに2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」と言われます。自分自身をこの世に合わせて形作るのではない(田川建三版)のだ、と言われます。
わたしたちは、神と共に生きるとき、主の日の礼拝へと導かれます。そこにおいて神が語りかけられる言葉を聞き、神に祈り、神を讃美し、献身のしるしとしての献げ物をし、神の祝福を受けます。このようにして、神との交わりの内に生きる者とされます。そして日々の歩みにおいては、神との交わりのために、祈りが与えられています。礼拝と祈りという信仰生活を通して、救いの恵みにより「心を新たにして頂き、神と共に生きる神の子として変えていって頂く」のです。
わたしたちは、神と共に歩む中で次第次第に「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ」ることであるかを知らされ、整えられていくのです。何か修行をして悟るのではありません。神と共に生きる日々の生活の中で、導かれ、気づかされていくのです。
教会で御言葉に聞くとき、繰り返しイエス キリストが指し示され、証しされます。神の言葉であるイエス キリストを通して神の御心、神の完全が示されます。
わたしたちが少しずつ色々な場面で、イエス キリストを思い起こしていくとき、この世に倣うのではなく、キリストに倣うことへと導かれていきます。
罪を超え、死を超えて生きる、神の子としての新しい命は、イエス キリストの内にあり、神と共にあります。
神は言われます。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛」すると(イザヤ 43:4)。
だから神はわたしたち一人ひとりに目を留め、心を留めて招かれるのです。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
この神の御心、救いの御業に応答して、ふさわしく生きるために、わたしたちは礼拝へと、祈りへと導かれています。わたしたちを救うための神の恵みが今ここにあるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたに目を向け、思いを向けるとき、いつもわたしたちはあなたの招きの声を聞きます。あなたはまどろむことなく、眠ることなく常にわたしたちを顧みていてくださいます。どうかわたしたちが知ることができますように。あなたの憐れみを、あなたの慈しみを、そしてあなたの愛を。どうかあなたの御心を知り、あなたと共に生きるあなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖 書 ローマの信徒への手紙 12:1~2(新共同訳)
パウロは勧めます。1節「兄弟たち、自分の体を神に献げなさい。」
何故こんなことを勧めるのでしょうか。それは、神がわたしたちを求めておられるからです。神が求めておられるのは、わたしたちです。物ではありません。預言者ミカは言います。「主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。・・主が何をお前に求めておられるか・・へりくだって神と共に歩むこと」。(ミカ 6:7) そして旧約の詩人は告白します。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。」(詩編 51:19)神が求めておられるのは、わたしたち自身です。他の何かでもってわたしたちに代えることはできません。
だからパウロは勧めます。「兄弟たち、自分の体を神に献げなさい。」
神はわたしたちを救うために独り子イエス キリストをお遣わしくださり、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(ローマ 3:22)をくださいました。
イエス キリストは「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ 2:2)です。ですから、わたしたちはイエス キリストが自分の救い主であることを信じ、受け入れたことを通して、1節「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」とされているのです。
神は、わたしたちが神と共に生きることを求めておられます。だから心だけでなく、体も求められます。聖書は「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント 10:31)とも勧めます。
神はわたしたちの一部分を求めているのではありません。「日曜日の礼拝の時間はわたしに献げなさい」ではないのです。全生活、全人生が神に献げられ、神と共に生きるために、神はイエス キリストをお与えくださったのです。
だから自分の体を神に献げることこそ1節「あなたがたのなすべき礼拝」だと言われているのです。
礼拝とは仕えることです。朝の礼拝を英語で morning service と言います。ホテルの朝食ではありません。ドイツ語では Gottes dienst 神の奉仕と言います。神がわたしたちの救いのために、イエス キリストにおいて身を低くして仕えてくださり、その神の御業に応答してわたしたちが神に仕えるのです。礼拝とは仕えることです。
そして「なすべき」と訳されているのは「理にかなった」という意味の言葉です。ここでは「ふさわしい」という言葉だと分かりやすいでしょうか。
つまりここでは「神はキリストの命をかけて救いを成し遂げてくださいました。だから、あなたがた自身を神に献げて、神と共に歩みなさい。それこそが救いにふさわしい仕え方です」と言っているのです。
さらに2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」と言われます。自分自身をこの世に合わせて形作るのではない(田川建三版)のだ、と言われます。
わたしたちは、神と共に生きるとき、主の日の礼拝へと導かれます。そこにおいて神が語りかけられる言葉を聞き、神に祈り、神を讃美し、献身のしるしとしての献げ物をし、神の祝福を受けます。このようにして、神との交わりの内に生きる者とされます。そして日々の歩みにおいては、神との交わりのために、祈りが与えられています。礼拝と祈りという信仰生活を通して、救いの恵みにより「心を新たにして頂き、神と共に生きる神の子として変えていって頂く」のです。
わたしたちは、神と共に歩む中で次第次第に「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ」ることであるかを知らされ、整えられていくのです。何か修行をして悟るのではありません。神と共に生きる日々の生活の中で、導かれ、気づかされていくのです。
教会で御言葉に聞くとき、繰り返しイエス キリストが指し示され、証しされます。神の言葉であるイエス キリストを通して神の御心、神の完全が示されます。
わたしたちが少しずつ色々な場面で、イエス キリストを思い起こしていくとき、この世に倣うのではなく、キリストに倣うことへと導かれていきます。
罪を超え、死を超えて生きる、神の子としての新しい命は、イエス キリストの内にあり、神と共にあります。
神は言われます。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛」すると(イザヤ 43:4)。
だから神はわたしたち一人ひとりに目を留め、心を留めて招かれるのです。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
この神の御心、救いの御業に応答して、ふさわしく生きるために、わたしたちは礼拝へと、祈りへと導かれています。わたしたちを救うための神の恵みが今ここにあるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたに目を向け、思いを向けるとき、いつもわたしたちはあなたの招きの声を聞きます。あなたはまどろむことなく、眠ることなく常にわたしたちを顧みていてくださいます。どうかわたしたちが知ることができますように。あなたの憐れみを、あなたの慈しみを、そしてあなたの愛を。どうかあなたの御心を知り、あなたと共に生きるあなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン