2020年9月27日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 6:15〜21(新共同訳)
イエスはガリラヤ湖の近くで、集まってきた大勢の人たちに対して、五つのパンと二匹の魚で人々を満たすという「しるし」を示されました。
ヨハネによる福音書は、イエス キリストが救い主である「しるし」を伝えようとしています。ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中で最も多く「しるし」という言葉を使います。福音書の編集者ヨハネは、この「五千人の給食」と呼ばれる出来事が単なる奇蹟ではなく、イエスが救い主=キリストであることを示す「しるし」だと考えています。
ですが、人々はイエスを祭り上げ、イエスを王にするため連れて行こうしました。当時ユダヤは、ローマ帝国の属国だったので、ユダヤの独立を求める人が大勢いました。そういった人たちが、イエスを王に祭り上げて独立運動をしようとしていたのです。
イエスはそれをよしとせず、ひとり神との交わりのため山へと退かれました。
夕方になり、弟子たちは湖畔へと降りていきました。そして、船に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとしました。
既に暗くなっていましたが、イエスはまだ弟子たちのところへは来ていませんでした。
不思議なのは、イエスがまだ来ていないのに、弟子たちは湖の向こう岸カファルナウムへと船を出したことです。イエスが山へと退かれる前に指示を出しておられたのでしょうか。
いずれにしても弟子たちは、イエスのいないまま出発しました。すると、強い風が吹いてきて、湖は荒れ始めました。
大抵の訳は「荒れ始めた」と訳していますが、原文で使われているのは「目を覚ます」という単語です。当時の人たちが湖が荒れるのをどのように考えていたかがうかがわれます。
1スタディオンというのは185mほどだと言いますから、岸から5kmほど漕ぎだした頃、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。
弟子たちはそれを見て、恐れました。真っ暗な荒れた湖の上を得体の知れぬ何かが近づいてくるのです。恐れぬはずがありません。
ヨハネによる福音書は、ここ一連の記事を通してイエスがモーセの語った預言者であることを証ししています。5:46「モーセは、わたし(イエス)について書いている」。申命記 18:15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。」そして 6:14「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」
しかし編集者ヨハネは、イエスはモーセ以上の存在であると伝えようとしています。出エジプトの際、モーセは海を割り、民を率いて渡りました。海を割りましたが、地の上を歩きました。しかしイエスは、湖の上を歩いて弟子たちのところへ来てくださいました。湖を割らずとも、荒れた湖の上を平然と歩いてきてくださいます。
そしてイエスは言われます。「わたしだ。恐れることはない」
この「わたしだ」というのは、原文では「エゴー エイミ」という言葉です。これはギリシア語です。新約はギリシア語で書かれています。一方、旧約はヘブライ語で書かれていますが、旧約のギリシア語訳である70人訳聖書(LXX)というのがあります。そのLXXで「エゴー エイミ わたしだ、わたしである」は、出エジプト 3:14「わたしはある。わたしはあるという者だ」という箇所で使われています。これは神がモーセにご自分を伝えた場面の言葉です。
これは、わたしたちと常に共におられる神、インマヌエル(神は共におられる)である神が語られる言葉です。福音書は、モーセのような預言者であり、モーセを超える神であるお方、それがイエス キリストである、と言っているのです。
そして「わたしだ」に続いて言われた「恐れることはない、恐れるな」も、共にいてくださる神が言われる言葉です。この言葉もイエスが神と等しい方であることを証しする言葉です。
弟子たちは、語りかけるイエスの言葉を聞いて、湖の上を歩いてくるのがイエスであることが分かりました。そこで、弟子たちはイエスを舟に迎え入れようとしました。「すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」
新共同訳聖書は「間もなく」と訳していますが、これは「直ちに」と訳すべきだと考える人もいます(田川建三など)。そこで「イエスを舟にお迎えしようとしたが、たちまち舟は目指す地に着いた」(フランシスコ会訳)とか「彼(イエス)を舟に迎え入れようとした。すると舟は往こうとしていた地にすぐに着いてしまった」(岩波書店版)と訳しているものもあります。
おそらく福音書は、イエスが来てくださったこと、イエスが共にいてくださることこそが、弟子たちにとって必要なことであり、弟子たちの目指すところであると考えています。
まだ信仰を持っていなかったとき、始めてこの箇所を読んで、わたしは「それがどうした」と思いました。「二千年前、荒れた湖の上を歩くことができる人がいた。それがどうした。自分と何の関係がある」と思いました。
復活を信じて信仰を持ったので、奇蹟は信じています。けれどヨハネによる福音書は、これは単なる奇蹟ではなく、イエスが救い主=キリストである「しるし」と理解したのです。まるで嵐に揺さぶられるように、前にも後にも進めない、たとえそのような状況であっても、困難を超えて主は来てくださる。共にいてくださる。恐れを超えて「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださるお方です。
だからキリストの弟子たちの目指す地は、イエスと共にいる神の国なのです。
編集者ヨハネは、それに気づきました。この出来事の中にイエスこそが救い主=キリストであることを見たのです。福音書の編集者・編纂者としてこれを伝えることを願いました。そして神は、この福音書を神の言葉とされました。そして二千年、教会はこの言葉を語り続けました。わたしたちの主はきょう、この御言葉を通して、わたしたちに語りかけてくださいました。「わたしだ。恐れることはない。」
ご覧なさい、この方です。この方 イエス キリストこそわたしたちの救い主です。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちにあなたを伝えるため、イエス キリストは人となり、わたしたちのところへ来てくださいました。どんな困難をも超えて、わたしたちの許に来てくださり「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださいます。そしてイエス キリストがわたしたちのただ中に来てくださるとき、わたしたちはいるべき場所に既にいることを思います。どうか聖霊によってわたしたちを清め、わたしたちの許に来てくださるイエス キリストをさやかに見ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 6:15〜21(新共同訳)
イエスはガリラヤ湖の近くで、集まってきた大勢の人たちに対して、五つのパンと二匹の魚で人々を満たすという「しるし」を示されました。
ヨハネによる福音書は、イエス キリストが救い主である「しるし」を伝えようとしています。ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中で最も多く「しるし」という言葉を使います。福音書の編集者ヨハネは、この「五千人の給食」と呼ばれる出来事が単なる奇蹟ではなく、イエスが救い主=キリストであることを示す「しるし」だと考えています。
ですが、人々はイエスを祭り上げ、イエスを王にするため連れて行こうしました。当時ユダヤは、ローマ帝国の属国だったので、ユダヤの独立を求める人が大勢いました。そういった人たちが、イエスを王に祭り上げて独立運動をしようとしていたのです。
イエスはそれをよしとせず、ひとり神との交わりのため山へと退かれました。
夕方になり、弟子たちは湖畔へと降りていきました。そして、船に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとしました。
既に暗くなっていましたが、イエスはまだ弟子たちのところへは来ていませんでした。
不思議なのは、イエスがまだ来ていないのに、弟子たちは湖の向こう岸カファルナウムへと船を出したことです。イエスが山へと退かれる前に指示を出しておられたのでしょうか。
いずれにしても弟子たちは、イエスのいないまま出発しました。すると、強い風が吹いてきて、湖は荒れ始めました。
大抵の訳は「荒れ始めた」と訳していますが、原文で使われているのは「目を覚ます」という単語です。当時の人たちが湖が荒れるのをどのように考えていたかがうかがわれます。
1スタディオンというのは185mほどだと言いますから、岸から5kmほど漕ぎだした頃、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。
弟子たちはそれを見て、恐れました。真っ暗な荒れた湖の上を得体の知れぬ何かが近づいてくるのです。恐れぬはずがありません。
ヨハネによる福音書は、ここ一連の記事を通してイエスがモーセの語った預言者であることを証ししています。5:46「モーセは、わたし(イエス)について書いている」。申命記 18:15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。」そして 6:14「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」
しかし編集者ヨハネは、イエスはモーセ以上の存在であると伝えようとしています。出エジプトの際、モーセは海を割り、民を率いて渡りました。海を割りましたが、地の上を歩きました。しかしイエスは、湖の上を歩いて弟子たちのところへ来てくださいました。湖を割らずとも、荒れた湖の上を平然と歩いてきてくださいます。
そしてイエスは言われます。「わたしだ。恐れることはない」
この「わたしだ」というのは、原文では「エゴー エイミ」という言葉です。これはギリシア語です。新約はギリシア語で書かれています。一方、旧約はヘブライ語で書かれていますが、旧約のギリシア語訳である70人訳聖書(LXX)というのがあります。そのLXXで「エゴー エイミ わたしだ、わたしである」は、出エジプト 3:14「わたしはある。わたしはあるという者だ」という箇所で使われています。これは神がモーセにご自分を伝えた場面の言葉です。
これは、わたしたちと常に共におられる神、インマヌエル(神は共におられる)である神が語られる言葉です。福音書は、モーセのような預言者であり、モーセを超える神であるお方、それがイエス キリストである、と言っているのです。
そして「わたしだ」に続いて言われた「恐れることはない、恐れるな」も、共にいてくださる神が言われる言葉です。この言葉もイエスが神と等しい方であることを証しする言葉です。
弟子たちは、語りかけるイエスの言葉を聞いて、湖の上を歩いてくるのがイエスであることが分かりました。そこで、弟子たちはイエスを舟に迎え入れようとしました。「すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」
新共同訳聖書は「間もなく」と訳していますが、これは「直ちに」と訳すべきだと考える人もいます(田川建三など)。そこで「イエスを舟にお迎えしようとしたが、たちまち舟は目指す地に着いた」(フランシスコ会訳)とか「彼(イエス)を舟に迎え入れようとした。すると舟は往こうとしていた地にすぐに着いてしまった」(岩波書店版)と訳しているものもあります。
おそらく福音書は、イエスが来てくださったこと、イエスが共にいてくださることこそが、弟子たちにとって必要なことであり、弟子たちの目指すところであると考えています。
まだ信仰を持っていなかったとき、始めてこの箇所を読んで、わたしは「それがどうした」と思いました。「二千年前、荒れた湖の上を歩くことができる人がいた。それがどうした。自分と何の関係がある」と思いました。
復活を信じて信仰を持ったので、奇蹟は信じています。けれどヨハネによる福音書は、これは単なる奇蹟ではなく、イエスが救い主=キリストである「しるし」と理解したのです。まるで嵐に揺さぶられるように、前にも後にも進めない、たとえそのような状況であっても、困難を超えて主は来てくださる。共にいてくださる。恐れを超えて「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださるお方です。
だからキリストの弟子たちの目指す地は、イエスと共にいる神の国なのです。
編集者ヨハネは、それに気づきました。この出来事の中にイエスこそが救い主=キリストであることを見たのです。福音書の編集者・編纂者としてこれを伝えることを願いました。そして神は、この福音書を神の言葉とされました。そして二千年、教会はこの言葉を語り続けました。わたしたちの主はきょう、この御言葉を通して、わたしたちに語りかけてくださいました。「わたしだ。恐れることはない。」
ご覧なさい、この方です。この方 イエス キリストこそわたしたちの救い主です。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちにあなたを伝えるため、イエス キリストは人となり、わたしたちのところへ来てくださいました。どんな困難をも超えて、わたしたちの許に来てくださり「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださいます。そしてイエス キリストがわたしたちのただ中に来てくださるとき、わたしたちはいるべき場所に既にいることを思います。どうか聖霊によってわたしたちを清め、わたしたちの許に来てくださるイエス キリストをさやかに見ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン