2020年12月6日(日)主日礼拝 待降節第2主日
聖書:創世記 15:1〜6(新共同訳)
信仰の父と呼ばれる初代のイスラエル、アブラハムが、まだアブラムという名前だった頃の話です。
あるとき、主の言葉が幻の中でアブラムに臨みました。わたしは幻を見るという経験はありませんが、おそらく神の声が聞こえてくるという普通ではない状況を幻と言っているのだろうと思います。主はアブラムに語りかけられます。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
主はアブラムに「恐れるな」と言われますが、アブラムは何を恐れていたのでしょうか。アブラムの恐れ、それは自分の信仰が無意味だったのではないかという恐れです。アブラムは神の声に聴き従って、住み慣れた土地、築いてきた関係を捨てて旅立ちました。旅立つとき、アブラムは既に75歳でした。神はアブラムに子孫とカナンの土地を約束されましたが、アブラムには未だに子どもは与えられませんでした。アブラムは「もうこのまま変わらないだろう」という思いを漠然と抱いていたのではないでしょうか。「神の声に従って歩んできたが、こんなもんかもしれない。食べるのに困ったり、生きていけなくなったりしなかったのだから、良かったと思わなければいけない。」そんな思いがアブラムの内に次第次第に涌き上がってきていたのでしょう。
このアブラムが抱いていた未来への恐れ・諦め、それはアブラム個人の問題ではありません。これは、神を信じる者の多くが感じる不安ではないかと思います。神は本当におられるのか。神を信じて生きることに意味はあるのだろうか。罪の世にあって、信仰は常に不安にさらされています。
神はアブラムの内に潜む諦めにも似た思い、静かな失望をご覧になったのです。そして「恐れるな」とアブラムに語りかけられたのです。
神は語りかけられます。「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムの信仰を蝕む諦め、失望、何もない現実。神は、神ご自身こそがそれらからアブラムを守る盾なのだと言われます。
そして、アブラムの受ける報いは非常に大きいと言われます。子孫も土地もまだ与えられていないアブラムに「あなたの受ける報いは非常に大きい」と言われます。
この時アブラムは、神の言葉を素直に受け入れることができませんでした。彼の信仰は待ち続ける中で、諦めに変わりつつありました。アブラムは神に尋ねます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」ダマスコのエリエゼルというのは、アブラムの家に仕えていた奴隷、今日で言うと執事のような務めを担っていた人です。
これまで心の内に秘め、隠してきた神への不満が溢れてきます。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」約束はするけれど、それを果たしてはくれない。現実はこの通りではないか。アブラムの信仰は危機に瀕していました。
神はアブラムになぜ待たされているかの理由を説明されません。神はただご自身の計画をアブラムに告げられます。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』」
どんなに楽観的に考えても、神の言われるとおりになりそうだと思えるような要素は何一つ見当たりません。神は、ご自身の言葉が真実であることの証人としてアブラムを召し出されたのです。状況から考えてその言葉は信じても良さそうだと判断されるのではなくて、たとえ状況から考えて無理だと思われても、神が言われたのであればその言葉は真実だということの証し人としてアブラムは召されたのです。
わたしたちは真実な言葉なくして生きていくことができません。夫や妻、親や子どもの言葉が全く信用できないとなったら、家族として一緒に生きていくことができません。そして誰の言葉も信用できないとなってしまったら、生きてはいけなくなってしまいます。
今のわたしたちの社会の大きな問題の一つは、信用できない言葉が多くあり過ぎるということです。状況や都合で変わってしまう言葉、明らかに偽りの言葉、初めから信頼できない言葉が多すぎるのです。ここから関係は崩れていきます。わたしたちの関係は、言葉が信頼できるか、言葉が出来事になるかが大きく関わっています。だからこそ、わたしたちは神の真実な言葉に支えられ守られていくのでなければ、罪の中で崩れていってしまうのです。
アブラムはたとえ状況がどうであろうと、時間がどれほど経とうと、神の言葉は真実であり続けるということを自ら経験し、証しする神の民とされたのです。そして、わたしたちも神の言葉が真実であることの証し人として召されているのです。
主は彼を外に連れ出してアブラムにしるしを与えてくださいました。主は言われます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そしてこう言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」
神はこのしるしを通して、神が天地万物の造り主であることをアブラムに気づかせてくださいました。状況が整っているから何かを産み出せるのではなく、何もなくても神は御心によって星々を造り、命を創造されたのです。状況が悪いことが問題なのではありません。アブラムが年をとりすぎているのが問題なのでもありません。いつどのようなときも、造り主なる神、救い主なる神、助け主なる神が共にいてくださるかどうか、神を信じて共に歩めるかどうかが問題なのです。
アブラムは主を信じました。主はそれを彼の義と認められました。「義」という言葉は、神と正しい関係にあることを示す言葉です。神の真実な言葉を信じて生きることが、神と人との正しい関係であることを神は示されたのです。
神はアブラムを見ていてくださったように、わたしたち一人ひとりをも見ていてくださいます。アブラムの信仰が弱ったのを知って語られたように、わたしたちの信仰が弱ることも主はご存じです。だからアブラムに語りかけてくださったように、主の日毎にわたしたちにも語りかけてくださるのです。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
そして、アブラムにつぶやくことをお許しくださった神は、わたしたちのつぶやきをも受け止めてくださいます。わたしたちは真実な言葉を語られる主の前に立つとき、本当の希望を抱くことができるのです。神はわたしたちが抱えている不安や不満、叫び、それを聴き、受け止めてくださり、そして神からは本当の希望が与えられるのです。
アブラムに天の星を示された主は、わたしたちにはご自身のひとり子をわたしたちの救いの証しとしてお与えくださいました。星を仰ぎ、神の声を聴いてアブラムが主を信じたように、わたしたちは救い主イエス キリストを仰ぎ、主の声を聴いて信じるのです。わたしたちはイエス キリストから溢れ出る永遠の命の約束を受け、神の国の大きな報いを望み見て歩んでいます。わたしたちは盾となって守っていてくださる神の真実に包まれて、救いの完成に向けて今歩んでいるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたがわたしたちの真実となって、わたしたちを支えていてくださることを感謝します。けれど、この罪の世にあって、わたしたちの信仰は絶えず揺らぎ、不安に脅かされます。しかし、あなたはそのわたしたちの弱さを知っておられ、主の日ごとの礼拝に招いてくださり、語りかけてくださいます。わたしたちに祈りを与え、讃美を与えていてくださいます。どうか今、アブラムに星を示されたように、イエス キリストをお示しください。主を仰ぎ見、主に導かれて、神の国へ歩み行くことができるようにお導きください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:創世記 15:1〜6(新共同訳)
信仰の父と呼ばれる初代のイスラエル、アブラハムが、まだアブラムという名前だった頃の話です。
あるとき、主の言葉が幻の中でアブラムに臨みました。わたしは幻を見るという経験はありませんが、おそらく神の声が聞こえてくるという普通ではない状況を幻と言っているのだろうと思います。主はアブラムに語りかけられます。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
主はアブラムに「恐れるな」と言われますが、アブラムは何を恐れていたのでしょうか。アブラムの恐れ、それは自分の信仰が無意味だったのではないかという恐れです。アブラムは神の声に聴き従って、住み慣れた土地、築いてきた関係を捨てて旅立ちました。旅立つとき、アブラムは既に75歳でした。神はアブラムに子孫とカナンの土地を約束されましたが、アブラムには未だに子どもは与えられませんでした。アブラムは「もうこのまま変わらないだろう」という思いを漠然と抱いていたのではないでしょうか。「神の声に従って歩んできたが、こんなもんかもしれない。食べるのに困ったり、生きていけなくなったりしなかったのだから、良かったと思わなければいけない。」そんな思いがアブラムの内に次第次第に涌き上がってきていたのでしょう。
このアブラムが抱いていた未来への恐れ・諦め、それはアブラム個人の問題ではありません。これは、神を信じる者の多くが感じる不安ではないかと思います。神は本当におられるのか。神を信じて生きることに意味はあるのだろうか。罪の世にあって、信仰は常に不安にさらされています。
神はアブラムの内に潜む諦めにも似た思い、静かな失望をご覧になったのです。そして「恐れるな」とアブラムに語りかけられたのです。
神は語りかけられます。「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムの信仰を蝕む諦め、失望、何もない現実。神は、神ご自身こそがそれらからアブラムを守る盾なのだと言われます。
そして、アブラムの受ける報いは非常に大きいと言われます。子孫も土地もまだ与えられていないアブラムに「あなたの受ける報いは非常に大きい」と言われます。
この時アブラムは、神の言葉を素直に受け入れることができませんでした。彼の信仰は待ち続ける中で、諦めに変わりつつありました。アブラムは神に尋ねます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」ダマスコのエリエゼルというのは、アブラムの家に仕えていた奴隷、今日で言うと執事のような務めを担っていた人です。
これまで心の内に秘め、隠してきた神への不満が溢れてきます。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」約束はするけれど、それを果たしてはくれない。現実はこの通りではないか。アブラムの信仰は危機に瀕していました。
神はアブラムになぜ待たされているかの理由を説明されません。神はただご自身の計画をアブラムに告げられます。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』」
どんなに楽観的に考えても、神の言われるとおりになりそうだと思えるような要素は何一つ見当たりません。神は、ご自身の言葉が真実であることの証人としてアブラムを召し出されたのです。状況から考えてその言葉は信じても良さそうだと判断されるのではなくて、たとえ状況から考えて無理だと思われても、神が言われたのであればその言葉は真実だということの証し人としてアブラムは召されたのです。
わたしたちは真実な言葉なくして生きていくことができません。夫や妻、親や子どもの言葉が全く信用できないとなったら、家族として一緒に生きていくことができません。そして誰の言葉も信用できないとなってしまったら、生きてはいけなくなってしまいます。
今のわたしたちの社会の大きな問題の一つは、信用できない言葉が多くあり過ぎるということです。状況や都合で変わってしまう言葉、明らかに偽りの言葉、初めから信頼できない言葉が多すぎるのです。ここから関係は崩れていきます。わたしたちの関係は、言葉が信頼できるか、言葉が出来事になるかが大きく関わっています。だからこそ、わたしたちは神の真実な言葉に支えられ守られていくのでなければ、罪の中で崩れていってしまうのです。
アブラムはたとえ状況がどうであろうと、時間がどれほど経とうと、神の言葉は真実であり続けるということを自ら経験し、証しする神の民とされたのです。そして、わたしたちも神の言葉が真実であることの証し人として召されているのです。
主は彼を外に連れ出してアブラムにしるしを与えてくださいました。主は言われます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そしてこう言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」
神はこのしるしを通して、神が天地万物の造り主であることをアブラムに気づかせてくださいました。状況が整っているから何かを産み出せるのではなく、何もなくても神は御心によって星々を造り、命を創造されたのです。状況が悪いことが問題なのではありません。アブラムが年をとりすぎているのが問題なのでもありません。いつどのようなときも、造り主なる神、救い主なる神、助け主なる神が共にいてくださるかどうか、神を信じて共に歩めるかどうかが問題なのです。
アブラムは主を信じました。主はそれを彼の義と認められました。「義」という言葉は、神と正しい関係にあることを示す言葉です。神の真実な言葉を信じて生きることが、神と人との正しい関係であることを神は示されたのです。
神はアブラムを見ていてくださったように、わたしたち一人ひとりをも見ていてくださいます。アブラムの信仰が弱ったのを知って語られたように、わたしたちの信仰が弱ることも主はご存じです。だからアブラムに語りかけてくださったように、主の日毎にわたしたちにも語りかけてくださるのです。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
そして、アブラムにつぶやくことをお許しくださった神は、わたしたちのつぶやきをも受け止めてくださいます。わたしたちは真実な言葉を語られる主の前に立つとき、本当の希望を抱くことができるのです。神はわたしたちが抱えている不安や不満、叫び、それを聴き、受け止めてくださり、そして神からは本当の希望が与えられるのです。
アブラムに天の星を示された主は、わたしたちにはご自身のひとり子をわたしたちの救いの証しとしてお与えくださいました。星を仰ぎ、神の声を聴いてアブラムが主を信じたように、わたしたちは救い主イエス キリストを仰ぎ、主の声を聴いて信じるのです。わたしたちはイエス キリストから溢れ出る永遠の命の約束を受け、神の国の大きな報いを望み見て歩んでいます。わたしたちは盾となって守っていてくださる神の真実に包まれて、救いの完成に向けて今歩んでいるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたがわたしたちの真実となって、わたしたちを支えていてくださることを感謝します。けれど、この罪の世にあって、わたしたちの信仰は絶えず揺らぎ、不安に脅かされます。しかし、あなたはそのわたしたちの弱さを知っておられ、主の日ごとの礼拝に招いてくださり、語りかけてくださいます。わたしたちに祈りを与え、讃美を与えていてくださいます。どうか今、アブラムに星を示されたように、イエス キリストをお示しください。主を仰ぎ見、主に導かれて、神の国へ歩み行くことができるようにお導きください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン