2020年12月9日(水) 祈り会
聖書:詩編 145:14〜21(新共同訳)
145篇には最初に「アルファベットによる詩」とあります。各節の最初の文字がヘブライ語のアルファベット順になっています。ただし原文(マソラ本文)には、ヘブライ文字のヌン、アルファベットのNに当たる文章がありません。ギリシャ語訳(七十人訳)やシリア語訳(ペシッタ)、死海写本はヌンで始まる文章を挿入して、アルファベットが全部揃うようにしているようです。
詩人は神を讃えます。1節と21節、最初と最後は「わたし」が讃美します。その間、2〜20節は民の祈りのように感じます。
後代のユダヤ教では、神賛美の代表として日ごとの祈りに用いられていたと言います。タルムードというラビ(ユダヤ教の教師)による註解では、この145篇を日に三度口にする者には来たるべき世で神の子となることが約束されると記されているそうです。今日の敬虔なユダヤ教徒も週日の午後の祈りとして145篇が祈られるそうです。(月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)。
また古代教会では、15節「あなたはときに応じて食べ物をくださいます」のゆえかか昼の食事の歌として用いられていたと言います(A. ヴァイザー『ATD旧約聖書註解 14詩篇)。
とても親しまれてきた詩編です。
14~16節「主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。/ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。/すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。」
イスラエルが経験してきた神の導きを思い起こして語られます。神の言葉と業こそ、神の真実と恵みの証しであり、神の義の保証でもあります(A. ヴァイザー『ATD旧約聖書註解 14詩篇』)。
神の奇跡的な業だけでなく、神の言葉(戒め)によって築かれる神の民の共同体もまた「倒れようとする一人ひとりを支え、うずくまっている人を抱きおこします。」今日セイフティネットということが言われますが、今日のものを超えるような規定(律法)が聖書には記されています(出エジプト記、レビ記、民数記など)。神の国の証しとして、教会もまた医療、福祉、教育の分野で様々に仕え、NGOでも信仰に基づく奉仕がなされています。
神の言葉と業は、神がご自身の民を守り、共に生きようとしておられることを証ししています。
17~18節「主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。/主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし」
神はわたしたちが歩むべき道を戒めによって示してくださいます。主の道を歩むとき、神との正しい関係「義」を保つことができます。そしてその正しさは慈しみに満ちています。
神学の世界では「福音と律法」というように律法は福音とは違うもの、福音と対立するものと理解されるような表現が使われることがあります。しかしわたしは、この表現は適当ではないと思っています。律法も、神と共に、隣人と共に生きることを指し示す福音であり、恵みです。
神は「主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいます。」聖書が証しする神は、インマヌエルの神です。わたしたちと共にいてくださる神です。
19~20節「主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。/主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。」
主に対する態度が二つ示されます。「畏れる」ことと「愛する」ことです。
聖書の真理は楕円の焦点ようであると言われることがあります(フロマートカ、内村鑑三)。例えば「神は唯一であり、父・子・聖霊の三つの位格がある」「イエス キリストは真に神であり、真に人であられる」「神の国はあなた方のただ中にあり、終わりの日に到来する」など。
そしてこの神に対する態度「畏れる」と「愛する」もまた相容れぬ態度のように見えますが、どちらも必要とされる態度です。片方だけになると、信仰が崩れてきます。愛のない畏れも、畏れのない愛も正しくありません。神を「畏れ」「愛する」者を、神は救い、守ってくださいます。
21節「わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。」
神には讃美がふさわしく、神の民、そして神に造られたものにもまた讃美がふさわしいのです。神を讃美することは、自分の造り主を讃美すること、自分の存在を肯定し、喜びをもって生きることに繋がります。神が造られた世界を受け入れ、共に生きることに繋がります。
「聖なる御名をたたえます」は、わたしたちが繰り返し祈る「主の祈り」の「御名をあがめさせたまえ」と同じです。新しい聖書協会共同訳ではマタイによる福音書 6章の主の祈りでこれまで「御名が崇められますように」(6:9 新共同訳)と訳されていたのを「御名が聖とされますように」(聖書協会共同訳)と訳を変更しました。原文により合っているのは、新しい訳です。
聖書において「聖」というのは「分けること、区別すること」を表します。聖別するという表現がありますが、これは神さまのものとして区別することです。献金など神さまに献げるものを取り分ける。神の民は神様のもの・神に属するものとして神に従う。そして神の名は、他の名前(名詞)と同列におくのではなく、わたしたちの造り主、救い主、助け主、わたしたちを愛し、共に歩んでくださる神の名前として区別する、それが聖なる御名であり、御名を聖とすることです。
145篇が、神を讃美してきた祈りの最後に祈った言葉は、主の祈りで最初に祈られる祈りと同じ祈りなのです。旧約の祈りが、新約の祈り「主の祈り」に繋がっていくのを見るような思いがします。
どうか皆さんも、旧約・新約、代々の神の民が親しんできたこの祈り 145篇に親しんで頂けたらと願います。
ハレルヤ
父なる神さま
どうか代々の民と共に、あなたを讃美しつつ歩むことができますように。あなたが愛し祝福してくださっている自分自身を喜び、世界の救いを願い、神の国の到来を求め仕えていくことができますように。あなたに在る喜びと平安、そして希望でわたしたちを満たしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:詩編 145:14〜21(新共同訳)
145篇には最初に「アルファベットによる詩」とあります。各節の最初の文字がヘブライ語のアルファベット順になっています。ただし原文(マソラ本文)には、ヘブライ文字のヌン、アルファベットのNに当たる文章がありません。ギリシャ語訳(七十人訳)やシリア語訳(ペシッタ)、死海写本はヌンで始まる文章を挿入して、アルファベットが全部揃うようにしているようです。
詩人は神を讃えます。1節と21節、最初と最後は「わたし」が讃美します。その間、2〜20節は民の祈りのように感じます。
後代のユダヤ教では、神賛美の代表として日ごとの祈りに用いられていたと言います。タルムードというラビ(ユダヤ教の教師)による註解では、この145篇を日に三度口にする者には来たるべき世で神の子となることが約束されると記されているそうです。今日の敬虔なユダヤ教徒も週日の午後の祈りとして145篇が祈られるそうです。(月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)。
また古代教会では、15節「あなたはときに応じて食べ物をくださいます」のゆえかか昼の食事の歌として用いられていたと言います(A. ヴァイザー『ATD旧約聖書註解 14詩篇)。
とても親しまれてきた詩編です。
14~16節「主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。/ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。/すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。」
イスラエルが経験してきた神の導きを思い起こして語られます。神の言葉と業こそ、神の真実と恵みの証しであり、神の義の保証でもあります(A. ヴァイザー『ATD旧約聖書註解 14詩篇』)。
神の奇跡的な業だけでなく、神の言葉(戒め)によって築かれる神の民の共同体もまた「倒れようとする一人ひとりを支え、うずくまっている人を抱きおこします。」今日セイフティネットということが言われますが、今日のものを超えるような規定(律法)が聖書には記されています(出エジプト記、レビ記、民数記など)。神の国の証しとして、教会もまた医療、福祉、教育の分野で様々に仕え、NGOでも信仰に基づく奉仕がなされています。
神の言葉と業は、神がご自身の民を守り、共に生きようとしておられることを証ししています。
17~18節「主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。/主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし」
神はわたしたちが歩むべき道を戒めによって示してくださいます。主の道を歩むとき、神との正しい関係「義」を保つことができます。そしてその正しさは慈しみに満ちています。
神学の世界では「福音と律法」というように律法は福音とは違うもの、福音と対立するものと理解されるような表現が使われることがあります。しかしわたしは、この表現は適当ではないと思っています。律法も、神と共に、隣人と共に生きることを指し示す福音であり、恵みです。
神は「主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいます。」聖書が証しする神は、インマヌエルの神です。わたしたちと共にいてくださる神です。
19~20節「主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。/主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。」
主に対する態度が二つ示されます。「畏れる」ことと「愛する」ことです。
聖書の真理は楕円の焦点ようであると言われることがあります(フロマートカ、内村鑑三)。例えば「神は唯一であり、父・子・聖霊の三つの位格がある」「イエス キリストは真に神であり、真に人であられる」「神の国はあなた方のただ中にあり、終わりの日に到来する」など。
そしてこの神に対する態度「畏れる」と「愛する」もまた相容れぬ態度のように見えますが、どちらも必要とされる態度です。片方だけになると、信仰が崩れてきます。愛のない畏れも、畏れのない愛も正しくありません。神を「畏れ」「愛する」者を、神は救い、守ってくださいます。
21節「わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。」
神には讃美がふさわしく、神の民、そして神に造られたものにもまた讃美がふさわしいのです。神を讃美することは、自分の造り主を讃美すること、自分の存在を肯定し、喜びをもって生きることに繋がります。神が造られた世界を受け入れ、共に生きることに繋がります。
「聖なる御名をたたえます」は、わたしたちが繰り返し祈る「主の祈り」の「御名をあがめさせたまえ」と同じです。新しい聖書協会共同訳ではマタイによる福音書 6章の主の祈りでこれまで「御名が崇められますように」(6:9 新共同訳)と訳されていたのを「御名が聖とされますように」(聖書協会共同訳)と訳を変更しました。原文により合っているのは、新しい訳です。
聖書において「聖」というのは「分けること、区別すること」を表します。聖別するという表現がありますが、これは神さまのものとして区別することです。献金など神さまに献げるものを取り分ける。神の民は神様のもの・神に属するものとして神に従う。そして神の名は、他の名前(名詞)と同列におくのではなく、わたしたちの造り主、救い主、助け主、わたしたちを愛し、共に歩んでくださる神の名前として区別する、それが聖なる御名であり、御名を聖とすることです。
145篇が、神を讃美してきた祈りの最後に祈った言葉は、主の祈りで最初に祈られる祈りと同じ祈りなのです。旧約の祈りが、新約の祈り「主の祈り」に繋がっていくのを見るような思いがします。
どうか皆さんも、旧約・新約、代々の神の民が親しんできたこの祈り 145篇に親しんで頂けたらと願います。
ハレルヤ
父なる神さま
どうか代々の民と共に、あなたを讃美しつつ歩むことができますように。あなたが愛し祝福してくださっている自分自身を喜び、世界の救いを願い、神の国の到来を求め仕えていくことができますように。あなたに在る喜びと平安、そして希望でわたしたちを満たしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン