2021年2月7日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 6:52〜59(新共同訳)
イエスは言われました。「わたしが命のパンである。」(6:35, 48)そして「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6:51)と言われます。
そこでユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始め」ました。
教会員の皆さんは「これは聖晩餐のことだな」と思われたのではないかと思います。
イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:53~56)
わたしたちが食事をし、食べた物が消化され、血肉となり、自分と一つになって命を支えるように、イエス キリストの血肉に与り、命に与り、キリストと一体になるとき、キリストの命、永遠の命を頂くのです。そして、わたしたちはキリストの命の内にあり、キリストもわたしの内にいてくださり、キリストと共に生きるようになるのです。パウロも、ガラテヤの信徒への手紙で「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ 2:20)と言っています。
これは奇跡です。罪人であり、この世では必ず死を迎えるわたしが、キリストと一つに結び合わされ、罪を赦され、罪から清められて、キリスト共に生き始めるのです。神の御心よりも、自分がこうしたいという思いに引きずられるのに、キリストを信じ、キリストの救いを求め続けるのです。終わりの日にキリストが復活させてくださる未来を見つめ信じる、新しい命を生き始めるのです。
ヨハネによる福音書は、イエスと弟子たちとの最後の晩餐を記していません。21:25では「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」と書いています。福音書の編集者ヨハネは、書き切れないエピソードの中から、その目的に適うエピソード、構成を考えて福音書を編集したのです。その目的を「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ 20:31)と述べています。
編集者ヨハネは、聖晩餐へと続いていく事柄を、最後の晩餐ではなく、五千人の給食(6:5~13)と呼ばれる出来事から続くこの箇所で、聖晩餐が指し示す救いの恵みを明らかにしようとしているのです。
実は、ヨハネによる福音書が示す聖晩餐の内容は、危険なものでした。迫害の時代、カタコンベと呼ばれる地下墓地などでひっそりと集まっていた頃、聖晩餐から噂が拡がっていきました。キリスト教徒は、人の肉を食べ、血を飲む秘密の儀式をしているらしい。どうやらキリスト教徒は、人を食べるらしい、という噂です。人々はキリスト教徒を警戒し、偏見が増していきました。
聖晩餐は、日本キリスト教会の式文でも「洗礼を受けていない者、まだ信仰告白をしていない者は与ることができません」と記されているとおり、未信者は与れないので、かつては日本でも、礼拝が終わって未信者が帰った後、信者だけで守っていたこともあります。
ハイデルベルク教理問答では、問75から聖晩餐について語りますが、「どのようにしてキリストの十字架を思い起こし、確信させられますか」という問いにこう答えます。「イエスご自身が、十字架につけられた体と流された血をもって、永遠の命へとわたしの魂を養い、潤してくださる。主のパンと杯を奉仕者の手から受け、実際に味わうのと同様に確実である。」この答えは、キリストの体と血が、わたしたちを永遠の命へと養うことと、それが確実であることを聖晩餐は証ししていると言っています。
聖書の中心のメッセージは、神と共に生きる命です。それが、罪のために神から離れて、死に囚われてしまいました。この罪と死から解放されるには、キリストに罪を贖って頂き、いつも神と共にあるキリストと一つに結び合わされて、キリストと共に生きるのです。
だからイエスは言われます。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」
イエスこそ「天から降って来たパン」なのです。イスラエルの「先祖が(出エジプトの荒れ野で)食べた」ものとは違います。食べたのに「死んでしまった」ものとは違います。荒れ野で食べたマナは、イエス キリストを指し示すものでした。イエスこそ「命のパン」です。「このパンを食べる者は永遠に生きる」のです。
教会は、この命のパン、イエス キリストを差し出すのです。教会が与えることのできるもの、神から託されているものはイエス キリストなのです。イエスご自身が「さぁ、取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。罪が赦されるようにと流されるわたしの血、契約の血である。」とご自身の命を差し出されるので、教会は、イエスを信じる者にイエス キリストを差し出すのです(マタイ 26:26~28)。
聖晩餐は、信仰はなくても、与れば御利益があるというようなものではなく、パンはパン、ぶどう液はぶどう液ですが、イエスを救い主と信じる者に、聖霊が働いてくださり、イエス キリストの体と血、キリストの命で清め満たしてくださるのです。聖霊なる神が、イエス キリストの命によって、わたしたちを永遠の命へと育んでくださるのです。
聖晩餐は、罪ゆえに神を信じきれないわたしたちにキリストの救いの確かさを確認させてくださる恵みです。今、感染症のため、配餐ができないのはとても残念なことです。しかし今言ったように、聖晩餐は聖霊なる神の働きを指し示すものなので、パンとぶどう液に与れないとキリストの救いに与れないということではありません。
ユダヤ人は、紀元70年にローマによって神殿が破壊されて、儀式による信仰から御言葉による信仰へと移行しました。以来およそ二千年、流浪の民になってもユダヤ人は信仰に生きてきました。
いずれパンと杯を分かち合う日がくることと思います。しかし今は、神の言葉に導かれて、永遠の命を仰ぎ見る時なのだと思います。
きょうこの御言葉を聴いた皆さんの中で、イエス キリストの言葉が活きて働きますように。キリストと結び合わされ、神へと立ち帰り、永遠の命に生きることができますように。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちに命のパン、イエス キリストを与えてくださったことを感謝します。キリストは、他の何かではなく、ご自身を、その命をわたしたちに与えてくださいました。命はあなたから、そしてイエス キリストから来ます。わたしたち一人ひとりの前に差し出されているキリストの命、永遠の命を感謝して、喜んで受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 6:52〜59(新共同訳)
イエスは言われました。「わたしが命のパンである。」(6:35, 48)そして「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6:51)と言われます。
そこでユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始め」ました。
教会員の皆さんは「これは聖晩餐のことだな」と思われたのではないかと思います。
イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:53~56)
わたしたちが食事をし、食べた物が消化され、血肉となり、自分と一つになって命を支えるように、イエス キリストの血肉に与り、命に与り、キリストと一体になるとき、キリストの命、永遠の命を頂くのです。そして、わたしたちはキリストの命の内にあり、キリストもわたしの内にいてくださり、キリストと共に生きるようになるのです。パウロも、ガラテヤの信徒への手紙で「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ 2:20)と言っています。
これは奇跡です。罪人であり、この世では必ず死を迎えるわたしが、キリストと一つに結び合わされ、罪を赦され、罪から清められて、キリスト共に生き始めるのです。神の御心よりも、自分がこうしたいという思いに引きずられるのに、キリストを信じ、キリストの救いを求め続けるのです。終わりの日にキリストが復活させてくださる未来を見つめ信じる、新しい命を生き始めるのです。
ヨハネによる福音書は、イエスと弟子たちとの最後の晩餐を記していません。21:25では「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」と書いています。福音書の編集者ヨハネは、書き切れないエピソードの中から、その目的に適うエピソード、構成を考えて福音書を編集したのです。その目的を「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ 20:31)と述べています。
編集者ヨハネは、聖晩餐へと続いていく事柄を、最後の晩餐ではなく、五千人の給食(6:5~13)と呼ばれる出来事から続くこの箇所で、聖晩餐が指し示す救いの恵みを明らかにしようとしているのです。
実は、ヨハネによる福音書が示す聖晩餐の内容は、危険なものでした。迫害の時代、カタコンベと呼ばれる地下墓地などでひっそりと集まっていた頃、聖晩餐から噂が拡がっていきました。キリスト教徒は、人の肉を食べ、血を飲む秘密の儀式をしているらしい。どうやらキリスト教徒は、人を食べるらしい、という噂です。人々はキリスト教徒を警戒し、偏見が増していきました。
聖晩餐は、日本キリスト教会の式文でも「洗礼を受けていない者、まだ信仰告白をしていない者は与ることができません」と記されているとおり、未信者は与れないので、かつては日本でも、礼拝が終わって未信者が帰った後、信者だけで守っていたこともあります。
ハイデルベルク教理問答では、問75から聖晩餐について語りますが、「どのようにしてキリストの十字架を思い起こし、確信させられますか」という問いにこう答えます。「イエスご自身が、十字架につけられた体と流された血をもって、永遠の命へとわたしの魂を養い、潤してくださる。主のパンと杯を奉仕者の手から受け、実際に味わうのと同様に確実である。」この答えは、キリストの体と血が、わたしたちを永遠の命へと養うことと、それが確実であることを聖晩餐は証ししていると言っています。
聖書の中心のメッセージは、神と共に生きる命です。それが、罪のために神から離れて、死に囚われてしまいました。この罪と死から解放されるには、キリストに罪を贖って頂き、いつも神と共にあるキリストと一つに結び合わされて、キリストと共に生きるのです。
だからイエスは言われます。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」
イエスこそ「天から降って来たパン」なのです。イスラエルの「先祖が(出エジプトの荒れ野で)食べた」ものとは違います。食べたのに「死んでしまった」ものとは違います。荒れ野で食べたマナは、イエス キリストを指し示すものでした。イエスこそ「命のパン」です。「このパンを食べる者は永遠に生きる」のです。
教会は、この命のパン、イエス キリストを差し出すのです。教会が与えることのできるもの、神から託されているものはイエス キリストなのです。イエスご自身が「さぁ、取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。罪が赦されるようにと流されるわたしの血、契約の血である。」とご自身の命を差し出されるので、教会は、イエスを信じる者にイエス キリストを差し出すのです(マタイ 26:26~28)。
聖晩餐は、信仰はなくても、与れば御利益があるというようなものではなく、パンはパン、ぶどう液はぶどう液ですが、イエスを救い主と信じる者に、聖霊が働いてくださり、イエス キリストの体と血、キリストの命で清め満たしてくださるのです。聖霊なる神が、イエス キリストの命によって、わたしたちを永遠の命へと育んでくださるのです。
聖晩餐は、罪ゆえに神を信じきれないわたしたちにキリストの救いの確かさを確認させてくださる恵みです。今、感染症のため、配餐ができないのはとても残念なことです。しかし今言ったように、聖晩餐は聖霊なる神の働きを指し示すものなので、パンとぶどう液に与れないとキリストの救いに与れないということではありません。
ユダヤ人は、紀元70年にローマによって神殿が破壊されて、儀式による信仰から御言葉による信仰へと移行しました。以来およそ二千年、流浪の民になってもユダヤ人は信仰に生きてきました。
いずれパンと杯を分かち合う日がくることと思います。しかし今は、神の言葉に導かれて、永遠の命を仰ぎ見る時なのだと思います。
きょうこの御言葉を聴いた皆さんの中で、イエス キリストの言葉が活きて働きますように。キリストと結び合わされ、神へと立ち帰り、永遠の命に生きることができますように。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちに命のパン、イエス キリストを与えてくださったことを感謝します。キリストは、他の何かではなく、ご自身を、その命をわたしたちに与えてくださいました。命はあなたから、そしてイエス キリストから来ます。わたしたち一人ひとりの前に差し出されているキリストの命、永遠の命を感謝して、喜んで受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン