聖書の言葉を聴きながら

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詩編 149:1〜4

2021-02-19 23:35:23 | 聖書
2021年2月17日(水) 祈り会
聖書:詩編 149:1〜4(新共同訳)


 きょうは149篇の前半です。
 この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)があります。

 きょうは4節まで読みます。
 新共同訳では、3節と4節の間で1行あけて、区切りとしています。これは読みやすくするための訳者の配慮で、ヘブライ語の原文は1行あけてはいません。
 これは訳者の判断なので、訳者が変われば、判断も変わります。新しい聖書協会共同訳、新改訳2017、岩波書店版は、4節と5節の間で1行あけています。フランシスコ会訳は、ヘブライ語の原文と同じく、1行あけるということはしていません。

 1節「新しい歌を主に向かって歌え。」
 「新しい歌」というのは、時間的に新しいということではありません。この「新しい」は、生き生きとしている、今生きていることを表します。古くて枯れてしまっている、さび付いて動かないではなく、生き生きとしている、命が通っている様を表しています。
 「新しい歌」という表現は、詩編には6箇所あります(33:3, 40:4, 96:1, 98:1, 144:9, 149:1)。詩編以外では、イザヤ 42:10と黙示録 5:9, 14:3に出てきます。
 詩人は、主が救いの御業をなし、自分たちの前におられることを感じています。主が救いの御業をなしていてくださる。その主に応えて、生き生きとした信仰、讃美をもってわたしたちも主の御前に立とうと呼びかけています。

 1節「主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」
 「主の慈しみに生きる人」はこの149篇に3回出てきます(5, 9節)。148篇の最後(14節)にも出てきます。2節のイスラエルやシオンの子は、この「主の慈しみに生きる人」を表しています。
 この「主の慈しみに生きる人」はハシディムという言葉で、ヘセドという言葉から派生した言葉です。ヘセドは「契約における確固とした愛」を意味しています。わたしはなかなかヘセドの意味合いを把握できず、「契約における確固とした愛」を何度も繰り返しながら考えます。
 翻訳も様々で「忠実な」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波書店版)とか「敬虔な」(新改訳2017)とか「信実な」(月本昭男)など、ヘセド、ハシディムの意味合いを伝えようとしているのが感じられます。

 2節「イスラエルはその造り主によって喜び祝い」
 造り主なる神、特に聖書の神を知ることは、自分の存在の意味を知ることです。神がわたしを愛しておられ、わたしと共に生きることを願ってわたしを造られたことを知るからです。
 今は「神なんか信じてないよ」と簡単に言える時代ですが、もし造り主なる神が存在せず、自分も他の人たちも、世界もただ偶然に存在しているだけだと言うなら、その存在には何の意味もないということです。すべては偶々(たまたま)なのですから。生きていることも、苦難に遭うことも、死ぬことも偶々で意味はないということです。「神なんか信じてないよ」と言っている人は、果たしてそのことを理解して言っているのだろうかといつも疑問が浮かんできます。
 造り主なる神を知っている人は、自分の存在の根源を知り、自分が愛されている、求められている存在であることを喜ぶことができるのです。

 2節「シオンの子らはその王によって喜び躍れ」
 神が自分の王であってくださることを知る者は、神が自分の人生、日々の歩みに責任を持ってくださっていることを知ります。神の平安(シャローム)がその人を包みます。
 3節「踊りをささげて御名を賛美し/太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。」
 神の平安は、喜びを増し加えます。その喜びは、讃美へ、歌へ、踊りへと進んでいきます。昔、誰の言葉か忘れてしまいましたが「歌を生み出さないものは、文化にはならない」という言葉を聞いて「そうか」と思いました。
 讃美も、福音派の若者を中心に多様になってきました。福音時報の記事を見て、日本キリスト教会の礼拝でも God bless you などの讃美歌が歌われていることを知りました。わたしたちの教会でも信仰が生きているからこそ、生きた讃美が溢れ出てくるといいなと願っています。
 踊りについても、最近これも福音派の教会などでゴスペルフラが行われています。フラダンスで讃美するというものです。フラダンスは動作に意味があるので、神を讃美する振り付けをして、踊るというものです。
 「太鼓や竪琴を奏でて」 太鼓はタンバリン(新改訳2017)としている訳もあります。皆で讃美するために、楽器というものが作られた初期の頃から、楽器が讃美に用いられていたことが分かります。
 讃美によって、神を喜んでいた古の神の民の姿が伝わってきます。わたしたちも、教会に集まったときにだけ讃美するのではなく、生活のいろいろな場面で、讃美できるようになるといいなと思います。

 4節「主は御自分の民を喜び/貧しい人を救いの輝きで装われる。」
 民が讃美し、神を喜ぶとき、神もご自分の民を喜ばれます。讃美は、民も神も共に喜ぶ恵みの時です。
 「貧しい人」とありますが、新しい訳では「苦しむ人」(聖書協会共同訳)としています。聖書学者の月本昭男氏は「虐げられた者たち」と訳しています。どんな状況にあっても、神を喜ぶ民を、神は救いの輝きで装ってくださいます。
 この信仰は、新約の山上の説教(マタイ 5:3~12)につながっていく信仰ではないかと思います。

 神はわたしたちが、救いの喜びで満たされ、讃美しつつ神と共に歩むことを願っておられます。教会に集う皆さんお一人おひとりが、救いの恵みに満たされ、神を喜ぶ者となられることを心から願っております。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちが、あなたの喜びで満たされ、讃美しつつ歩めるようにと、救いの業をなしてくださいます。どうか導かれて、あなたの御前に集う一人ひとりが救いの恵みで満たされますように。今、苦しみの中にある者も、御言葉に導かれあなたを仰ぎ、望みを抱くことができますように。どうかあなたと共に喜び合う者としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

星の王子さま

2021-02-19 21:19:34 | 読書
サン=テグジュペリ『星の王子さま』(内藤 濯(あろう)訳、岩波書店)読了。
若い頃から何度も挫折した『星の王子さま』をやっと読んだ。
甲田純生『「星の王子さま」を哲学する』を読んで、『星の王子さま』の解説をしてもらったお蔭である。
読んで分かったのは「わたしは大人なんだなぁ」ということ。王子さまが「大人みたいなことを言うね」と批判する大人だなぁということ。今まで読めなかった理由が分かったような気がした。