聖書の言葉を聴きながら

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詩編 139:13〜24

2020-09-10 14:15:57 | 聖書
2020年9月9日(水) 祈り会
聖書:詩編 139:13〜24(新共同訳)


 神がこの自分を知っていてくださる、極みまでも知っていてくださることに慰めと希望を覚えた詩人は、神の顧みの深さへと思いを向けていきます。

 13~16節「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。/わたしはあなたに感謝をささげる。/わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。/御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。/秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。/あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。/胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。/わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。」
 神はわたしの命の始め、母の胎にあるときから知っておられました。なぜなら神がわたしを造ってくださったからです。

 そして詩人は、自分が生きている不思議を感じます。わたしたちが身体の不思議を扱う科学的な番組を通して、生命の神秘に驚くようなことを、二千数百年前の人が信仰によりそれを感じとっています。見えない体内で起こっていることを「秘められたところ」「深い地の底」としか表現せざるを得ないのに、そこにも注がれる神のまなざし、そこでなされる神の御業を感じています。

 詩人は知ります。命の書とも呼ばれる神の許にある書には、命が始まる前から、神の御心、ご計画と共にわたしが記されていることを。詩人は確信します。わたしのすべてが神のまなざしの前にあるということを。神はわたしたちを知っておられます。
 そしてこの信仰を受け継いだパウロも告白します。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」(ガラテヤ 1:15)と。

 しかし、すべての人が神が知っていてくださることに慰めを感じる訳ではありません。アダムとエバは、神に見られることを恐れてその木の間に身を隠しました(創世記 3:8)。
 神が御業をなしてくださらないことの悲しみ、神がすべてを救いへと導いてくださることを知らない者には、神が知っていてくださること、神に知られることは、恐れにしかなりません。
 しかし詩人は、救いは神にあることを知っていました。

 17~18節「あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。/神よ、いかにそれは数多いことか。/数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。」
 教会立の幼稚園などでは「よかった探し」というものをします。一日の終わりにきょうを振り返り、神さまが与えてくださったよかったことを思い起こし、感謝するというものです。詩人も神の配慮、導きを思い起こします。今、わたしたちが数え切れないように、詩人も数え切れないことを告白します。詩人は自分を取り囲む「砂の粒より」多いことを思います。「神のご配慮はここまで」とその果てを極めたと思っても、自分の思いを超えて、自分が神の御心、恵みのただ中にいることに気づかされます。

 19~22節「どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。/わたしを離れよ、流血を謀る者。/たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう者。/主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし/激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします。」
 罪の世にあっては、みんながみんな詩人と同じように、信仰に生きている訳ではありません。みんなが神を信じている神の民イスラエルの中にあってもです。神に逆らい、詩人のように神と共に歩もうとする者を苦しめる者がいます。詩人は裁きを求めます。罪により神の国、神のご支配が虚しくならぬようにと願います。そしてこれからも自分が、罪に惑わされることなく、神の側に立って毅然と歩んでいくことを願います。

 19節からの突然の嘆願に、この詩篇を解説しようとする者は戸惑います。ある人は「無実の罪で訴えられた人が、自分のすべてを調べ尽くしたヤハウェにその全知・遍在を告白し、その予定に従って自分と神との敵である不法者を『殺す』ことを願う」(旧約聖書翻訳委員会訳、旧約聖書 IV、松田伊作訳、岩波書店)詩編であると理解します。別の人は「この詩は神の審きの決定を準備するものとして、礼拝の枠内にもともと場を持っていた」(ヴァイザー、ATD旧約聖書註解 詩篇 下、ATD・NTD聖書註解刊行会)というように、神に対する罪を裁く裁判の備えの祈りと考えます。
 しかしわたしにはしっくりきません。わたしがする普段の祈りでも、世に起こっている様々なことを覚えて、執り成していくとき、「主よ、あなたが裁いてくださいますように。罪を滅ぼし、義をお建てください。御国を来たらせてください」と毎回のように祈ります。
 ですから、神に思いを向け、神を讃える祈りに突然19~22節のような祈りが入ってきても、わたしには不思議ではありません。むしろわたしには、このように祈って、また23節からのような祈りへと戻っていくのは普通のことに思えます。

 詩人はこの願いの最後、21~22節「主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし/激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします」と祈ります。
 詩人は純粋な思いで祈っているのだと思います。純粋な思いというのは、罪に惑わされることなく、神の側に立って歩んでいくという思いです。けれどわたしは、罪の世に対してもっとドロドロとした言葉にできない、したくない、憤り、いらだち、妬ましさ、さらには「信仰を持って生きるって損だよなぁ」といったものを感じています。そんなわたしが詩編の祈りの中に「あなたを憎む者をわたしも憎み」「激しい憎しみをもって彼らを憎み」という言葉を見つけると、ほっとします。今、この時、赦せなくても、愛せなくても、憎んでもいいんだ、とほっとします。
 民の祈りである詩編が、神の言葉として聖書に入れられているのは、神がこれらの祈りを受けとめてくださった証しであり、このように祈ってよいことを教えていてくださるからです。わたしたちは自分が赦しに溢れ、愛に満ちているかのように信仰を装わなくてよいのです。背伸びをして、自分の信仰を大きく見せようとしなくてよいのです。
 神はわたしたちを知っておられます。赦せないわたし、愛せないわたしを知っていてなお愛してくださいます。知っておられるからこそキリストを遣わしてくださいました。キリストの十字架を通して、わたしたちの怒りも、憎しみも、妬みも、不信仰も受けとめてくださり、なおわたしたちを救いへと整え、導いてくださいます。だから、神の前では、自分を隠す必要がないのです。偽る必要がないのです。このことにわたしは大きな慰めを感じます。
 だからわたしには、なおのことこの祈りは特別な場での祈りではなく、普段の祈りに思えるのです。

 23~24節「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。/わたしを試し、悩みを知ってください。/御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。/どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」
 神に望みを置く詩人は願います。「わたしを究め/わたしの心を知ってください。」罪の世にあって神に従う、神の民の悩み苦しみを知ってほしいと願います。「わたしを試し、悩みを知ってください。」もしかしたら自分の内に迷いや弱さがあるかもしれない。自分で気づかなくても、神は知っていてくださる。そして神は導いてくださる。神の導きこそわたしを救いへと導く、と詩人は信じます。「どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」

 「とこしえの道」という表現は、聖書の中で、ここでだけ使われる表現のようです。千変万化、万物は流転するこの世にあって、とこしえなるものは、神の許に、神と共にあります。詩人は、この祈りを神と共に歩ませてくださいという願いで閉じます。

 この詩篇、この祈りは、いつの時代にも神の民を支え導く祈りではないかと思います。皆さんがこの詩篇に親しみ、神が知っていてくださる慰めと希望に、神と共に生きる希望と喜びに導かれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの源が、あなたにあり、命の始まりからあなたによって造られ、導かれていることを知ることができますように。それでもわたしたちの思いは、罪の世で揺さぶられます。わたしたちの弱さをも知っていてください。どうかわたしたちをもあなたのとこしえの道に導いてください。そしていつもあなたを仰ぎ、あなたに祈る者としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 12:1〜2

2020-09-06 17:14:42 | 聖書
2020年9月6日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:1~2(新共同訳)


 パウロは勧めます。1節「兄弟たち、自分の体を神に献げなさい。」

 何故こんなことを勧めるのでしょうか。それは、神がわたしたちを求めておられるからです。神が求めておられるのは、わたしたちです。物ではありません。預言者ミカは言います。「主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。・・主が何をお前に求めておられるか・・へりくだって神と共に歩むこと」。(ミカ 6:7) そして旧約の詩人は告白します。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。」(詩編 51:19)神が求めておられるのは、わたしたち自身です。他の何かでもってわたしたちに代えることはできません。
 だからパウロは勧めます。「兄弟たち、自分の体を神に献げなさい。」

 神はわたしたちを救うために独り子イエス キリストをお遣わしくださり、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(ローマ 3:22)をくださいました。

 イエス キリストは「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ 2:2)です。ですから、わたしたちはイエス キリストが自分の救い主であることを信じ、受け入れたことを通して、1節「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」とされているのです。

 神は、わたしたちが神と共に生きることを求めておられます。だから心だけでなく、体も求められます。聖書は「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント 10:31)とも勧めます。
 神はわたしたちの一部分を求めているのではありません。「日曜日の礼拝の時間はわたしに献げなさい」ではないのです。全生活、全人生が神に献げられ、神と共に生きるために、神はイエス キリストをお与えくださったのです。

 だから自分の体を神に献げることこそ1節「あなたがたのなすべき礼拝」だと言われているのです。
 礼拝とは仕えることです。朝の礼拝を英語で morning service と言います。ホテルの朝食ではありません。ドイツ語では Gottes dienst 神の奉仕と言います。神がわたしたちの救いのために、イエス キリストにおいて身を低くして仕えてくださり、その神の御業に応答してわたしたちが神に仕えるのです。礼拝とは仕えることです。
 そして「なすべき」と訳されているのは「理にかなった」という意味の言葉です。ここでは「ふさわしい」という言葉だと分かりやすいでしょうか。
 つまりここでは「神はキリストの命をかけて救いを成し遂げてくださいました。だから、あなたがた自身を神に献げて、神と共に歩みなさい。それこそが救いにふさわしい仕え方です」と言っているのです。

 さらに2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」と言われます。自分自身をこの世に合わせて形作るのではない(田川建三版)のだ、と言われます。
 わたしたちは、神と共に生きるとき、主の日の礼拝へと導かれます。そこにおいて神が語りかけられる言葉を聞き、神に祈り、神を讃美し、献身のしるしとしての献げ物をし、神の祝福を受けます。このようにして、神との交わりの内に生きる者とされます。そして日々の歩みにおいては、神との交わりのために、祈りが与えられています。礼拝と祈りという信仰生活を通して、救いの恵みにより「心を新たにして頂き、神と共に生きる神の子として変えていって頂く」のです。

 わたしたちは、神と共に歩む中で次第次第に「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ」ることであるかを知らされ、整えられていくのです。何か修行をして悟るのではありません。神と共に生きる日々の生活の中で、導かれ、気づかされていくのです。
 教会で御言葉に聞くとき、繰り返しイエス キリストが指し示され、証しされます。神の言葉であるイエス キリストを通して神の御心、神の完全が示されます。
 わたしたちが少しずつ色々な場面で、イエス キリストを思い起こしていくとき、この世に倣うのではなく、キリストに倣うことへと導かれていきます。

 罪を超え、死を超えて生きる、神の子としての新しい命は、イエス キリストの内にあり、神と共にあります。

 神は言われます。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛」すると(イザヤ 43:4)。
 だから神はわたしたち一人ひとりに目を留め、心を留めて招かれるのです。
 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 この神の御心、救いの御業に応答して、ふさわしく生きるために、わたしたちは礼拝へと、祈りへと導かれています。わたしたちを救うための神の恵みが今ここにあるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたに目を向け、思いを向けるとき、いつもわたしたちはあなたの招きの声を聞きます。あなたはまどろむことなく、眠ることなく常にわたしたちを顧みていてくださいます。どうかわたしたちが知ることができますように。あなたの憐れみを、あなたの慈しみを、そしてあなたの愛を。どうかあなたの御心を知り、あなたと共に生きるあなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩篇 139:1〜12

2020-09-03 11:30:54 | 聖書
2020年9月2日(水) 祈り会
聖書:詩編 139:1〜12(新共同訳)


 聖書からメッセージを聞き取っていく際に、それが書かれた状況が分からないと、何を言っているのか分かりにくいことがあります。今読んでいる詩編であるとか、新約であれば書簡などでそういう箇所に出会います。
 神学の分野でそれを扱うのが「緒論(しょろん or ちょろん)」と呼ばれる分野です。わたしは神学校の1年生で新約緒論と旧約緒論を学びました。漢和辞典には緒論は「本論に入る前置き。序論」とあります。英語だと Introduction です。

 きょうの139篇ですが、読んだだけでは詩人の置かれている状況は明らかではありません。
 ある人は「この詩篇のヘブル語は、バビロンの言葉から採られた、アラム語法が一杯見出される」(ナイト、デイリー・スタディー・バイブル 詩篇 II、新教出版社)ということで、バビロン捕囚から帰還した後に祈られたものと考えています。

 それでも時代的なイメージは掴めても、状況は分かりません。ある人は19~22節から「無実の罪で訴えられた人が、自分のすべてを調べ尽くしたヤハウェにその全知・遍在を告白し、その予定に従って自分と神との敵である不法者を『殺す』ことを願う」(旧約聖書翻訳委員会訳、旧約聖書 IV、松田伊作訳、岩波書店)と理解しています。別の人は「この詩は神の審きの決定を準備するものとして、礼拝の枠内にもともと場を持っていた」(ヴァイザー、ATD旧約聖書註解 詩篇 下、ATD・NTD聖書註解刊行会)というように神に対する罪を裁く裁判の備えの祈りと考えています。

 けれども「詩人は、主なる神の偉大さとともに、主が自分と深い交わりをもってくださる恵みの深さに感動してこの歌を作った」(鎌野善三、3分間のグッドニュース 詩歌、ヨベル)という理解もあると思います。

 残念ながら現時点では、わたしには状況ははっきりとは分かりません。表題に「指揮者によって。・・賛歌」とあるので、礼拝の場で聖歌隊の指揮者によって導かれて讃美するようになっていったのだろうと思いますが、詳しくは分かりません。
 加えて、聖書本文にははっきりしない箇所がかなりあって、138:1~3で簡単な聖書研究をご紹介しましたが、138篇以上に翻訳によって日本語訳が違います。基本的に今読みました新共同訳に沿って読んでいきたいと思います。

 きょうは前半、1~12節を読んで参ります。
 1節「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。」
 神はわたしたちを知っておられます。しかし民は苦難の中にあるとき、神はわたしたちの今の状況を知らないのではないか、わたしたちの祈りは届いていないのではないか、と不安になります。そのような思いで祈っている詩篇もあります。44篇24~27節「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく/目覚めてください。/なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを/忘れてしまわれたのですか。・・立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。」
 神の民は、神に問い、神の御心・神ご自身を求めてきました。そして神と向かい合う中で導かれてきました。121篇4~6節「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。/主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。/昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。」
 139篇の詩人は、何を経験して、神を知ったのでしょうか。神は「わたしを究め」わたしの深みまで知っていてくださいます。詩人がまだ自覚もしていない思いまで知っておられます。

 2~4節「座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。/歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。/わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」

 苦難の中にある者にとっては「神が知っていてくださる、わたしは忘れられてはいない」ということは支えになります。しかし罪に留まる者は、神が知っておられることを恐れます。罪を犯したアダムとエバは、神がエデンの園を歩く音が聞こえたとき、二人は神の顔を避けて木の間に隠れました(創世記 3:8)。
 しかし神に望みを置く者は、神が知っていてくださることは支えです。讃美歌II -210に黒人霊歌の「わが悩み知りたもう」という曲があります。その原曲の歌詞は「わたしの経験した苦しみは誰も知らない。しかしイエスは知っていてくださる」です。神と共に生きる者には、神が知っていてくだること、わたしを究めていてくださること、日々の歩み、わたしの辿る道、わたしの思いまでも知っていてくださることは慰めです。

 神は5節「前からも後ろからもわたしを囲」んでくださいます。つまりわたしの辿ってきた道・わたしの過去にも、これから辿る道・未来にも神の御手があり、神が導いていてくださいます。わたしの人生・わたしの歩みのすべてが神の御手の中にあります。
 その神の御心、6節「その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達でき」ません。わたしたちは神の御心を理解し尽くすことはできません。最近礼拝説教で聞きましたように「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ 11:33)。神と知る者は、驚きを経験します。

 わたしを知っていてくださる神は、どこにいようとこのわたしと共にいてくださいます。詩人は、自分が神の手が届かない場所にいるのではないか、という不安に襲われます。詩人はその不安の一つひとつを確認するように言います。7~10節「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。/どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。/天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。/曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも/あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
 神は天にいまし、陰府にもおられます。曙の光が現れる東の端から、西の大海 地中海の果てまで神はおられます。わたしたちがどこにいようと神の御手はわたしたちと共にあり、右の御手をもって導いてくださいます。生きているときも、死んで陰府に降っても、共にいてくださいます。神は約束してくださいました。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア 1:5)イエス キリストも言われます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20 口語訳)。

 詩人は光を見出せない闇のような試練の中にいるのでしょうか。
 11~12節「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。」
 詩人はどこに向かって歩めばいいのか分かりません。人は幸いを求めて選択しますが、詩人はどれを選べば幸いになるのか分かりません。詩人は、自分と同じように神を信じて歩んだ先祖たちの歩みを思ったかもしれません。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、出エジプト、荒れ野の旅、約束の地への帰還、士師の時代、サウル、ダビデ、ソロモン、王国時代、そして王国の滅亡、バビロン捕囚、捕囚からの解放、神殿の再建、王宮の再建・・ いつの時代も、そして誰もが、「死の陰の谷を行く」(詩篇 23:4)ような経験をしました。
 しかし、主が共にいてくださり、主が導いてくださったので、それぞれの時代に、神の民は歩み行くことができました。
 詩人は言います。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」主の前では、闇はもはや闇とは言えない。「闇も、光も、変わるところがない。」それは、神は救いの神でいてくださり、神は変わることなく真実であってくださるからです。

 主はわたしを知っていてくださる。わたしの日々の歩みも、わたしの思いも、わたしの過去も未来も、すべてが主の御前にある。主は常に共にいてくださる。たとえわたしがどこにいようとも、生きているときも、死に臨むとき、死の中にいるときにも、主はわたしを導いてくださる。わたしが道を見出せなくなっても、神はわたしの救いの神。わたしの救いは主と共にある。主こそ我が光。

 聖書には全編を通じて神の民の歩みが記され、それを通して神は御心を示されます。わたしたちもこの詩人と同じように、闇の中にあっても、神を知ることができるように、神の導きがどのようなものであるか知ることができるように、神の救いの歴史・神の民の歩みを通して語られるのかもしれません。

 詩人が祈って数百年の後、イエス キリストは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ 8:12)
 だから代々の教会は、イエス キリストを指し示して「見よ、あの方だ」と言い続けてきたのです。詩人が抱いた望みは、すべての民の望みです。それはイエス キリストにおいて成就し実現しました。神への望みは、虚しくなることはありません。神の民は、祈りつつ歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちを知っていてくださる幸いを感謝します。そして、あなたがどのような方であるかを知らされている幸いを感謝します。どうか代々の聖徒たちと同じように、あなたを経験することができますように。わたしたちにあなたと共に歩む幸いをお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン