2020年12月13日(日)主日礼拝 待降節第3主日
聖書:創世記 22:1〜14(新共同訳)
「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創世記 12:2)「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。/あなたの子孫はこのようになる。」(創世記 15:5)
アブラハムは、神の召しを受け、その言葉に従って歩んできました。アブラハムは神に従って歩んできましたが、子どもはなく、神の約束が果たされるそのきざしすら見ていませんでした。しかしアブラハムが100歳のとき、神はついにアブラハムに男の子をお与えになりました(創世記 21:5)。それがイサクです。待って待って待ち続けて与えられた子ども、それがイサクです。
ところがある時、神はアブラハムに命じられます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
何という言葉。思わず耳を疑ってしまいます。待ち続け、やっと与えられた子ども、愛する独り子を焼き尽くす献げ物として捧げよとは。
1節に「神はアブラハムを試された」とあります。一体何を試そうというのでしょうか。もう十分アブラハムの信仰は分かっているではありませんか。ここまで神の言葉を信じて従ってきたのですから。
しかし更に驚くことに、「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った」のです。
アブラハムは迷わなかったのでしょうか。これは本当に神の言葉かと疑わなかったのでしょうか。しかし聖書はそのことについては何も記しません。アブラハムが神の言葉に従ったことだけを聖書は伝えています。
神が試されるとき、よく分からないから試してみるのではありません。神はアブラハムを知っておられます。これまでの歩み・信仰を知っておられます。神の試みは、信仰を前進させるための試みです。けれど、神はこれ以上アブラハムの信仰をどう前進させようというのでしょうか。神の命令通りにすれば、アブラハムは子孫を失い、未来をなくしてしまいます。しかし、神はこれまで以上に未来はアブラハムの期待や予想の中にあるのではなく、神の御手の中にあるということを信じることを求めておられます。信仰は、神の約束に対して「然り、主よそのとおりです」と応えることです。しかし、それは決して小さな事柄ではなく、人生のかかった大事な応答です。「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」(詩編 37:5)まさしくこの旧約の詩編の言葉と同じように、神は自分に全き信頼を置くことを求められたのです。けれど、人は自ら試練を求めるのではありません。人は「試みに遭わせず、悪より救い出だし給え」と祈るように教えられています。試みはただ、わたしたちのすべてを知り、すべてを与えてくださる、復活の命さえも与えてくださる神が時に適って与えるものなのです。
約束の場所が見えてきたとき、アブラハムは息子イサクと二人で神の前に進み出ていきました。アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持ちました。二人は一緒に歩きました。イサクは父アブラハムに「わたしのお父さん」と呼びかけると、アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答えます。イサクは尋ねます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行きました。
アブラハムは「神が備えてくださる」とイサクに答えたとき、未来が見出し得ないような状況の中にあっても、神の約束の中に生きる道が開かれてくる、それは自分が生きる道というだけでなく、イサクにとっても生きる道が開かれてくることを信じていました。行く手に死しか見えない中で、なお神が命の神であることを信じたのです。
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。そのとき、天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけました。彼が「はい」と答えると、御使いは言いました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは試練を克服しました。自分を召し導いてこられた神の約束の中に未来があり、生きる道があるその恵みの中にアブラハムは今立っていました。アブラハムは目を凝らして見回しました。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげました。アブラハムが信じたように、神ご自身が二人が生きるための献げ物を備えていてくださいました。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けました。そして、神の民の間では今日でも「主の山に、備えあり」と言われるようになったのです。
わたしの一番の疑問は、イサクがこの後も信仰を持って生きたということです。父アブラハムに「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ねたとき、アブラハムは「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えました。そしてイサクは自分が縛られ祭壇の薪の上に載せられ、父は刃物を取り、息子を屠ろうとしたとき、イサクは「神が備えてくださる小羊は自分だったのか」と呆然としたのではないでしょうか。その時のイサクには、神と父に対する怒りはなかったのでしょうか。天使が止めて「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われたときには、「神さまは、ここまでしないと分からなかったのですか」と言いたかったのではないでしょうか。それが一匹の雄羊が用意されたことにより「神さまは憐れみ深い」となるでしょうか。わたしだったら信仰を捨てていたに違いないと思うのです。しかしイサクは信仰を捨てませんでした。父アブラハムの信仰を受け継いで歩みます。
おそらくわたしの信仰とアブラハムやイサクの信仰はまだまだ違うのだろうと思います。アブラハムにもイサクにも、恐れが感じられません。二人ともまさしく神と共にあったのでしょう。そして二人の信仰は神が形づくったものです。こう信じなければならないといった義務感はありません。わたしたちの信仰もまた、神が形づくってくださるもので、必要な導き、試練や訓練は神からくるのだろうと思います。そしてわたしたちはそれぞれが備えられた道を歩んで「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくのだろうと思います。
ですからこの出来事は、まさしく「主の山に備えあり」を伝える出来事だったのです。わたしたちもアブラハムのように信じて従いましょう、という話ではないのです。わたしたちももっと頑張って信じましょう、という話ではないのです。アブラハムもイサクもヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)を証しするために選ばれ、召され、用いられたのです。そしてわたしたちの生涯にも、主は備えていてくださるのです。
神はアブラハムに対し、自分の未来の希望であるイサクを神の言葉に従い、捧げ委ねるように求められました。アブラハムに愛する独り子を捧げよと命じられた神は、ご自分が愛する独り子を捧げる決意でおられたのです。アブラハムが信じた果てに見出した一匹の雄羊、まさにそれこそが神に従う二人が、そしてわたしたちが生きるために神ご自身が備え与えてくださった神の子羊イエス キリストを指し示すものです。アブラハムもイサクもイエス キリストを知りません。自分たちのこの出来事が、イエス キリストの十字架を指し示す出来事であるとは思いもしません。しかし神はこの出来事により、神が救いの神、命の神であり、未来を与える神であることを証しされたのです。そしてその神の御心は現実となったことをわたしたちは知っています。
イエス キリストもまた、神の言葉に従い、十字架の上で自らの命を捧げきるまで従われました。神に従い、未来を神の御手に委ねたその果てに、神は復活の命を与え、命の道を開かれました。わたしたちの生きる道を、未来を、そしてわたしたちの命そのものを神は備えていてくださいます。神ご自身こそ、わたしたちの救いのために愛する独り子を惜しまれない方であり、真実にわたしたちを導かれる方なのです。
ハレルヤ
父なる神さま
この出来事を通して、あなたがわたしたちの生涯にも備えをしていてくださることを知ることができますように。あなたが命の主であられ、あなたの許にこそわたしたちの命があることを知ることができますように。罪の世にあって、わたしたちは絶えず不安に襲われます。どうか救いの御業を推し進めてください。あなたが愛しておられるすべての人がイエス キリストに出会うことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:創世記 22:1〜14(新共同訳)
「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創世記 12:2)「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。/あなたの子孫はこのようになる。」(創世記 15:5)
アブラハムは、神の召しを受け、その言葉に従って歩んできました。アブラハムは神に従って歩んできましたが、子どもはなく、神の約束が果たされるそのきざしすら見ていませんでした。しかしアブラハムが100歳のとき、神はついにアブラハムに男の子をお与えになりました(創世記 21:5)。それがイサクです。待って待って待ち続けて与えられた子ども、それがイサクです。
ところがある時、神はアブラハムに命じられます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
何という言葉。思わず耳を疑ってしまいます。待ち続け、やっと与えられた子ども、愛する独り子を焼き尽くす献げ物として捧げよとは。
1節に「神はアブラハムを試された」とあります。一体何を試そうというのでしょうか。もう十分アブラハムの信仰は分かっているではありませんか。ここまで神の言葉を信じて従ってきたのですから。
しかし更に驚くことに、「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った」のです。
アブラハムは迷わなかったのでしょうか。これは本当に神の言葉かと疑わなかったのでしょうか。しかし聖書はそのことについては何も記しません。アブラハムが神の言葉に従ったことだけを聖書は伝えています。
神が試されるとき、よく分からないから試してみるのではありません。神はアブラハムを知っておられます。これまでの歩み・信仰を知っておられます。神の試みは、信仰を前進させるための試みです。けれど、神はこれ以上アブラハムの信仰をどう前進させようというのでしょうか。神の命令通りにすれば、アブラハムは子孫を失い、未来をなくしてしまいます。しかし、神はこれまで以上に未来はアブラハムの期待や予想の中にあるのではなく、神の御手の中にあるということを信じることを求めておられます。信仰は、神の約束に対して「然り、主よそのとおりです」と応えることです。しかし、それは決して小さな事柄ではなく、人生のかかった大事な応答です。「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」(詩編 37:5)まさしくこの旧約の詩編の言葉と同じように、神は自分に全き信頼を置くことを求められたのです。けれど、人は自ら試練を求めるのではありません。人は「試みに遭わせず、悪より救い出だし給え」と祈るように教えられています。試みはただ、わたしたちのすべてを知り、すべてを与えてくださる、復活の命さえも与えてくださる神が時に適って与えるものなのです。
約束の場所が見えてきたとき、アブラハムは息子イサクと二人で神の前に進み出ていきました。アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持ちました。二人は一緒に歩きました。イサクは父アブラハムに「わたしのお父さん」と呼びかけると、アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答えます。イサクは尋ねます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行きました。
アブラハムは「神が備えてくださる」とイサクに答えたとき、未来が見出し得ないような状況の中にあっても、神の約束の中に生きる道が開かれてくる、それは自分が生きる道というだけでなく、イサクにとっても生きる道が開かれてくることを信じていました。行く手に死しか見えない中で、なお神が命の神であることを信じたのです。
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。そのとき、天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけました。彼が「はい」と答えると、御使いは言いました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは試練を克服しました。自分を召し導いてこられた神の約束の中に未来があり、生きる道があるその恵みの中にアブラハムは今立っていました。アブラハムは目を凝らして見回しました。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげました。アブラハムが信じたように、神ご自身が二人が生きるための献げ物を備えていてくださいました。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けました。そして、神の民の間では今日でも「主の山に、備えあり」と言われるようになったのです。
わたしの一番の疑問は、イサクがこの後も信仰を持って生きたということです。父アブラハムに「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ねたとき、アブラハムは「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えました。そしてイサクは自分が縛られ祭壇の薪の上に載せられ、父は刃物を取り、息子を屠ろうとしたとき、イサクは「神が備えてくださる小羊は自分だったのか」と呆然としたのではないでしょうか。その時のイサクには、神と父に対する怒りはなかったのでしょうか。天使が止めて「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われたときには、「神さまは、ここまでしないと分からなかったのですか」と言いたかったのではないでしょうか。それが一匹の雄羊が用意されたことにより「神さまは憐れみ深い」となるでしょうか。わたしだったら信仰を捨てていたに違いないと思うのです。しかしイサクは信仰を捨てませんでした。父アブラハムの信仰を受け継いで歩みます。
おそらくわたしの信仰とアブラハムやイサクの信仰はまだまだ違うのだろうと思います。アブラハムにもイサクにも、恐れが感じられません。二人ともまさしく神と共にあったのでしょう。そして二人の信仰は神が形づくったものです。こう信じなければならないといった義務感はありません。わたしたちの信仰もまた、神が形づくってくださるもので、必要な導き、試練や訓練は神からくるのだろうと思います。そしてわたしたちはそれぞれが備えられた道を歩んで「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくのだろうと思います。
ですからこの出来事は、まさしく「主の山に備えあり」を伝える出来事だったのです。わたしたちもアブラハムのように信じて従いましょう、という話ではないのです。わたしたちももっと頑張って信じましょう、という話ではないのです。アブラハムもイサクもヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)を証しするために選ばれ、召され、用いられたのです。そしてわたしたちの生涯にも、主は備えていてくださるのです。
神はアブラハムに対し、自分の未来の希望であるイサクを神の言葉に従い、捧げ委ねるように求められました。アブラハムに愛する独り子を捧げよと命じられた神は、ご自分が愛する独り子を捧げる決意でおられたのです。アブラハムが信じた果てに見出した一匹の雄羊、まさにそれこそが神に従う二人が、そしてわたしたちが生きるために神ご自身が備え与えてくださった神の子羊イエス キリストを指し示すものです。アブラハムもイサクもイエス キリストを知りません。自分たちのこの出来事が、イエス キリストの十字架を指し示す出来事であるとは思いもしません。しかし神はこの出来事により、神が救いの神、命の神であり、未来を与える神であることを証しされたのです。そしてその神の御心は現実となったことをわたしたちは知っています。
イエス キリストもまた、神の言葉に従い、十字架の上で自らの命を捧げきるまで従われました。神に従い、未来を神の御手に委ねたその果てに、神は復活の命を与え、命の道を開かれました。わたしたちの生きる道を、未来を、そしてわたしたちの命そのものを神は備えていてくださいます。神ご自身こそ、わたしたちの救いのために愛する独り子を惜しまれない方であり、真実にわたしたちを導かれる方なのです。
ハレルヤ
父なる神さま
この出来事を通して、あなたがわたしたちの生涯にも備えをしていてくださることを知ることができますように。あなたが命の主であられ、あなたの許にこそわたしたちの命があることを知ることができますように。罪の世にあって、わたしたちは絶えず不安に襲われます。どうか救いの御業を推し進めてください。あなたが愛しておられるすべての人がイエス キリストに出会うことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン