聖書の言葉を聴きながら

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創世記 22:1〜14

2020-12-13 19:21:44 | 聖書
2020年12月13日(日)主日礼拝  待降節第3主日
聖書:創世記 22:1〜14(新共同訳)


 「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創世記 12:2)「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。/あなたの子孫はこのようになる。」(創世記 15:5)
 アブラハムは、神の召しを受け、その言葉に従って歩んできました。アブラハムは神に従って歩んできましたが、子どもはなく、神の約束が果たされるそのきざしすら見ていませんでした。しかしアブラハムが100歳のとき、神はついにアブラハムに男の子をお与えになりました(創世記 21:5)。それがイサクです。待って待って待ち続けて与えられた子ども、それがイサクです。

 ところがある時、神はアブラハムに命じられます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
 何という言葉。思わず耳を疑ってしまいます。待ち続け、やっと与えられた子ども、愛する独り子を焼き尽くす献げ物として捧げよとは。

 1節に「神はアブラハムを試された」とあります。一体何を試そうというのでしょうか。もう十分アブラハムの信仰は分かっているではありませんか。ここまで神の言葉を信じて従ってきたのですから。
 しかし更に驚くことに、「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った」のです。
 アブラハムは迷わなかったのでしょうか。これは本当に神の言葉かと疑わなかったのでしょうか。しかし聖書はそのことについては何も記しません。アブラハムが神の言葉に従ったことだけを聖書は伝えています。

 神が試されるとき、よく分からないから試してみるのではありません。神はアブラハムを知っておられます。これまでの歩み・信仰を知っておられます。神の試みは、信仰を前進させるための試みです。けれど、神はこれ以上アブラハムの信仰をどう前進させようというのでしょうか。神の命令通りにすれば、アブラハムは子孫を失い、未来をなくしてしまいます。しかし、神はこれまで以上に未来はアブラハムの期待や予想の中にあるのではなく、神の御手の中にあるということを信じることを求めておられます。信仰は、神の約束に対して「然り、主よそのとおりです」と応えることです。しかし、それは決して小さな事柄ではなく、人生のかかった大事な応答です。「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」(詩編 37:5)まさしくこの旧約の詩編の言葉と同じように、神は自分に全き信頼を置くことを求められたのです。けれど、人は自ら試練を求めるのではありません。人は「試みに遭わせず、悪より救い出だし給え」と祈るように教えられています。試みはただ、わたしたちのすべてを知り、すべてを与えてくださる、復活の命さえも与えてくださる神が時に適って与えるものなのです。

 約束の場所が見えてきたとき、アブラハムは息子イサクと二人で神の前に進み出ていきました。アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持ちました。二人は一緒に歩きました。イサクは父アブラハムに「わたしのお父さん」と呼びかけると、アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答えます。イサクは尋ねます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行きました。
 アブラハムは「神が備えてくださる」とイサクに答えたとき、未来が見出し得ないような状況の中にあっても、神の約束の中に生きる道が開かれてくる、それは自分が生きる道というだけでなく、イサクにとっても生きる道が開かれてくることを信じていました。行く手に死しか見えない中で、なお神が命の神であることを信じたのです。
 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。そのとき、天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけました。彼が「はい」と答えると、御使いは言いました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 アブラハムは試練を克服しました。自分を召し導いてこられた神の約束の中に未来があり、生きる道があるその恵みの中にアブラハムは今立っていました。アブラハムは目を凝らして見回しました。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげました。アブラハムが信じたように、神ご自身が二人が生きるための献げ物を備えていてくださいました。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けました。そして、神の民の間では今日でも「主の山に、備えあり」と言われるようになったのです。

 わたしの一番の疑問は、イサクがこの後も信仰を持って生きたということです。父アブラハムに「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ねたとき、アブラハムは「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えました。そしてイサクは自分が縛られ祭壇の薪の上に載せられ、父は刃物を取り、息子を屠ろうとしたとき、イサクは「神が備えてくださる小羊は自分だったのか」と呆然としたのではないでしょうか。その時のイサクには、神と父に対する怒りはなかったのでしょうか。天使が止めて「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われたときには、「神さまは、ここまでしないと分からなかったのですか」と言いたかったのではないでしょうか。それが一匹の雄羊が用意されたことにより「神さまは憐れみ深い」となるでしょうか。わたしだったら信仰を捨てていたに違いないと思うのです。しかしイサクは信仰を捨てませんでした。父アブラハムの信仰を受け継いで歩みます。
 おそらくわたしの信仰とアブラハムやイサクの信仰はまだまだ違うのだろうと思います。アブラハムにもイサクにも、恐れが感じられません。二人ともまさしく神と共にあったのでしょう。そして二人の信仰は神が形づくったものです。こう信じなければならないといった義務感はありません。わたしたちの信仰もまた、神が形づくってくださるもので、必要な導き、試練や訓練は神からくるのだろうと思います。そしてわたしたちはそれぞれが備えられた道を歩んで「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくのだろうと思います。
 ですからこの出来事は、まさしく「主の山に備えあり」を伝える出来事だったのです。わたしたちもアブラハムのように信じて従いましょう、という話ではないのです。わたしたちももっと頑張って信じましょう、という話ではないのです。アブラハムもイサクもヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)を証しするために選ばれ、召され、用いられたのです。そしてわたしたちの生涯にも、主は備えていてくださるのです。

 神はアブラハムに対し、自分の未来の希望であるイサクを神の言葉に従い、捧げ委ねるように求められました。アブラハムに愛する独り子を捧げよと命じられた神は、ご自分が愛する独り子を捧げる決意でおられたのです。アブラハムが信じた果てに見出した一匹の雄羊、まさにそれこそが神に従う二人が、そしてわたしたちが生きるために神ご自身が備え与えてくださった神の子羊イエス キリストを指し示すものです。アブラハムもイサクもイエス キリストを知りません。自分たちのこの出来事が、イエス キリストの十字架を指し示す出来事であるとは思いもしません。しかし神はこの出来事により、神が救いの神、命の神であり、未来を与える神であることを証しされたのです。そしてその神の御心は現実となったことをわたしたちは知っています。
 イエス キリストもまた、神の言葉に従い、十字架の上で自らの命を捧げきるまで従われました。神に従い、未来を神の御手に委ねたその果てに、神は復活の命を与え、命の道を開かれました。わたしたちの生きる道を、未来を、そしてわたしたちの命そのものを神は備えていてくださいます。神ご自身こそ、わたしたちの救いのために愛する独り子を惜しまれない方であり、真実にわたしたちを導かれる方なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 この出来事を通して、あなたがわたしたちの生涯にも備えをしていてくださることを知ることができますように。あなたが命の主であられ、あなたの許にこそわたしたちの命があることを知ることができますように。罪の世にあって、わたしたちは絶えず不安に襲われます。どうか救いの御業を推し進めてください。あなたが愛しておられるすべての人がイエス キリストに出会うことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 145:14〜21

2020-12-11 12:41:44 | 聖書
2020年12月9日(水) 祈り会
聖書:詩編 145:14〜21(新共同訳)


 145篇には最初に「アルファベットによる詩」とあります。各節の最初の文字がヘブライ語のアルファベット順になっています。ただし原文(マソラ本文)には、ヘブライ文字のヌン、アルファベットのNに当たる文章がありません。ギリシャ語訳(七十人訳)やシリア語訳(ペシッタ)、死海写本はヌンで始まる文章を挿入して、アルファベットが全部揃うようにしているようです。

 詩人は神を讃えます。1節と21節、最初と最後は「わたし」が讃美します。その間、2〜20節は民の祈りのように感じます。
 後代のユダヤ教では、神賛美の代表として日ごとの祈りに用いられていたと言います。タルムードというラビ(ユダヤ教の教師)による註解では、この145篇を日に三度口にする者には来たるべき世で神の子となることが約束されると記されているそうです。今日の敬虔なユダヤ教徒も週日の午後の祈りとして145篇が祈られるそうです。(月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)。
 また古代教会では、15節「あなたはときに応じて食べ物をくださいます」のゆえかか昼の食事の歌として用いられていたと言います(A. ヴァイザー『ATD旧約聖書註解 14詩篇)。
 とても親しまれてきた詩編です。

 14~16節「主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。/ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。/すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。」
 イスラエルが経験してきた神の導きを思い起こして語られます。神の言葉と業こそ、神の真実と恵みの証しであり、神の義の保証でもあります(A. ヴァイザー『ATD旧約聖書註解 14詩篇』)。
 神の奇跡的な業だけでなく、神の言葉(戒め)によって築かれる神の民の共同体もまた「倒れようとする一人ひとりを支え、うずくまっている人を抱きおこします。」今日セイフティネットということが言われますが、今日のものを超えるような規定(律法)が聖書には記されています(出エジプト記、レビ記、民数記など)。神の国の証しとして、教会もまた医療、福祉、教育の分野で様々に仕え、NGOでも信仰に基づく奉仕がなされています。
 神の言葉と業は、神がご自身の民を守り、共に生きようとしておられることを証ししています。

 17~18節「主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。/主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし」
 神はわたしたちが歩むべき道を戒めによって示してくださいます。主の道を歩むとき、神との正しい関係「義」を保つことができます。そしてその正しさは慈しみに満ちています。
 神学の世界では「福音と律法」というように律法は福音とは違うもの、福音と対立するものと理解されるような表現が使われることがあります。しかしわたしは、この表現は適当ではないと思っています。律法も、神と共に、隣人と共に生きることを指し示す福音であり、恵みです。
 神は「主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいます。」聖書が証しする神は、インマヌエルの神です。わたしたちと共にいてくださる神です。

 19~20節「主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。/主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。」
 主に対する態度が二つ示されます。「畏れる」ことと「愛する」ことです。
 聖書の真理は楕円の焦点ようであると言われることがあります(フロマートカ、内村鑑三)。例えば「神は唯一であり、父・子・聖霊の三つの位格がある」「イエス キリストは真に神であり、真に人であられる」「神の国はあなた方のただ中にあり、終わりの日に到来する」など。
 そしてこの神に対する態度「畏れる」と「愛する」もまた相容れぬ態度のように見えますが、どちらも必要とされる態度です。片方だけになると、信仰が崩れてきます。愛のない畏れも、畏れのない愛も正しくありません。神を「畏れ」「愛する」者を、神は救い、守ってくださいます。

 21節「わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。」
 神には讃美がふさわしく、神の民、そして神に造られたものにもまた讃美がふさわしいのです。神を讃美することは、自分の造り主を讃美すること、自分の存在を肯定し、喜びをもって生きることに繋がります。神が造られた世界を受け入れ、共に生きることに繋がります。
 「聖なる御名をたたえます」は、わたしたちが繰り返し祈る「主の祈り」の「御名をあがめさせたまえ」と同じです。新しい聖書協会共同訳ではマタイによる福音書 6章の主の祈りでこれまで「御名が崇められますように」(6:9 新共同訳)と訳されていたのを「御名が聖とされますように」(聖書協会共同訳)と訳を変更しました。原文により合っているのは、新しい訳です。
 聖書において「聖」というのは「分けること、区別すること」を表します。聖別するという表現がありますが、これは神さまのものとして区別することです。献金など神さまに献げるものを取り分ける。神の民は神様のもの・神に属するものとして神に従う。そして神の名は、他の名前(名詞)と同列におくのではなく、わたしたちの造り主、救い主、助け主、わたしたちを愛し、共に歩んでくださる神の名前として区別する、それが聖なる御名であり、御名を聖とすることです。
 145篇が、神を讃美してきた祈りの最後に祈った言葉は、主の祈りで最初に祈られる祈りと同じ祈りなのです。旧約の祈りが、新約の祈り「主の祈り」に繋がっていくのを見るような思いがします。

 どうか皆さんも、旧約・新約、代々の神の民が親しんできたこの祈り 145篇に親しんで頂けたらと願います。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうか代々の民と共に、あなたを讃美しつつ歩むことができますように。あなたが愛し祝福してくださっている自分自身を喜び、世界の救いを願い、神の国の到来を求め仕えていくことができますように。あなたに在る喜びと平安、そして希望でわたしたちを満たしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

創世記 15:1〜6

2020-12-06 20:22:30 | 聖書
2020年12月6日(日)主日礼拝  待降節第2主日
聖書:創世記 15:1〜6(新共同訳)


 信仰の父と呼ばれる初代のイスラエル、アブラハムが、まだアブラムという名前だった頃の話です。

 あるとき、主の言葉が幻の中でアブラムに臨みました。わたしは幻を見るという経験はありませんが、おそらく神の声が聞こえてくるという普通ではない状況を幻と言っているのだろうと思います。主はアブラムに語りかけられます。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

 主はアブラムに「恐れるな」と言われますが、アブラムは何を恐れていたのでしょうか。アブラムの恐れ、それは自分の信仰が無意味だったのではないかという恐れです。アブラムは神の声に聴き従って、住み慣れた土地、築いてきた関係を捨てて旅立ちました。旅立つとき、アブラムは既に75歳でした。神はアブラムに子孫とカナンの土地を約束されましたが、アブラムには未だに子どもは与えられませんでした。アブラムは「もうこのまま変わらないだろう」という思いを漠然と抱いていたのではないでしょうか。「神の声に従って歩んできたが、こんなもんかもしれない。食べるのに困ったり、生きていけなくなったりしなかったのだから、良かったと思わなければいけない。」そんな思いがアブラムの内に次第次第に涌き上がってきていたのでしょう。
 このアブラムが抱いていた未来への恐れ・諦め、それはアブラム個人の問題ではありません。これは、神を信じる者の多くが感じる不安ではないかと思います。神は本当におられるのか。神を信じて生きることに意味はあるのだろうか。罪の世にあって、信仰は常に不安にさらされています。
 神はアブラムの内に潜む諦めにも似た思い、静かな失望をご覧になったのです。そして「恐れるな」とアブラムに語りかけられたのです。

 神は語りかけられます。「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムの信仰を蝕む諦め、失望、何もない現実。神は、神ご自身こそがそれらからアブラムを守る盾なのだと言われます。
 そして、アブラムの受ける報いは非常に大きいと言われます。子孫も土地もまだ与えられていないアブラムに「あなたの受ける報いは非常に大きい」と言われます。
 この時アブラムは、神の言葉を素直に受け入れることができませんでした。彼の信仰は待ち続ける中で、諦めに変わりつつありました。アブラムは神に尋ねます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」ダマスコのエリエゼルというのは、アブラムの家に仕えていた奴隷、今日で言うと執事のような務めを担っていた人です。
 これまで心の内に秘め、隠してきた神への不満が溢れてきます。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」約束はするけれど、それを果たしてはくれない。現実はこの通りではないか。アブラムの信仰は危機に瀕していました。

 神はアブラムになぜ待たされているかの理由を説明されません。神はただご自身の計画をアブラムに告げられます。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』」
 どんなに楽観的に考えても、神の言われるとおりになりそうだと思えるような要素は何一つ見当たりません。神は、ご自身の言葉が真実であることの証人としてアブラムを召し出されたのです。状況から考えてその言葉は信じても良さそうだと判断されるのではなくて、たとえ状況から考えて無理だと思われても、神が言われたのであればその言葉は真実だということの証し人としてアブラムは召されたのです。

 わたしたちは真実な言葉なくして生きていくことができません。夫や妻、親や子どもの言葉が全く信用できないとなったら、家族として一緒に生きていくことができません。そして誰の言葉も信用できないとなってしまったら、生きてはいけなくなってしまいます。
 今のわたしたちの社会の大きな問題の一つは、信用できない言葉が多くあり過ぎるということです。状況や都合で変わってしまう言葉、明らかに偽りの言葉、初めから信頼できない言葉が多すぎるのです。ここから関係は崩れていきます。わたしたちの関係は、言葉が信頼できるか、言葉が出来事になるかが大きく関わっています。だからこそ、わたしたちは神の真実な言葉に支えられ守られていくのでなければ、罪の中で崩れていってしまうのです。
 アブラムはたとえ状況がどうであろうと、時間がどれほど経とうと、神の言葉は真実であり続けるということを自ら経験し、証しする神の民とされたのです。そして、わたしたちも神の言葉が真実であることの証し人として召されているのです。

 主は彼を外に連れ出してアブラムにしるしを与えてくださいました。主は言われます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そしてこう言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」
 神はこのしるしを通して、神が天地万物の造り主であることをアブラムに気づかせてくださいました。状況が整っているから何かを産み出せるのではなく、何もなくても神は御心によって星々を造り、命を創造されたのです。状況が悪いことが問題なのではありません。アブラムが年をとりすぎているのが問題なのでもありません。いつどのようなときも、造り主なる神、救い主なる神、助け主なる神が共にいてくださるかどうか、神を信じて共に歩めるかどうかが問題なのです。

 アブラムは主を信じました。主はそれを彼の義と認められました。「義」という言葉は、神と正しい関係にあることを示す言葉です。神の真実な言葉を信じて生きることが、神と人との正しい関係であることを神は示されたのです。
 神はアブラムを見ていてくださったように、わたしたち一人ひとりをも見ていてくださいます。アブラムの信仰が弱ったのを知って語られたように、わたしたちの信仰が弱ることも主はご存じです。だからアブラムに語りかけてくださったように、主の日毎にわたしたちにも語りかけてくださるのです。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

 そして、アブラムにつぶやくことをお許しくださった神は、わたしたちのつぶやきをも受け止めてくださいます。わたしたちは真実な言葉を語られる主の前に立つとき、本当の希望を抱くことができるのです。神はわたしたちが抱えている不安や不満、叫び、それを聴き、受け止めてくださり、そして神からは本当の希望が与えられるのです。
 アブラムに天の星を示された主は、わたしたちにはご自身のひとり子をわたしたちの救いの証しとしてお与えくださいました。星を仰ぎ、神の声を聴いてアブラムが主を信じたように、わたしたちは救い主イエス キリストを仰ぎ、主の声を聴いて信じるのです。わたしたちはイエス キリストから溢れ出る永遠の命の約束を受け、神の国の大きな報いを望み見て歩んでいます。わたしたちは盾となって守っていてくださる神の真実に包まれて、救いの完成に向けて今歩んでいるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたがわたしたちの真実となって、わたしたちを支えていてくださることを感謝します。けれど、この罪の世にあって、わたしたちの信仰は絶えず揺らぎ、不安に脅かされます。しかし、あなたはそのわたしたちの弱さを知っておられ、主の日ごとの礼拝に招いてくださり、語りかけてくださいます。わたしたちに祈りを与え、讃美を与えていてくださいます。どうか今、アブラムに星を示されたように、イエス キリストをお示しください。主を仰ぎ見、主に導かれて、神の国へ歩み行くことができるようにお導きください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 145:1〜13

2020-12-03 12:30:36 | 聖書
2020年12月3日(水) 祈り会
聖書:詩編 145:1〜13(新共同訳)


 145篇には最初に「アルファベットによる詩」とあります。アルファベットというのは、表記にローマ字を用いる言語の文字の一覧を表すものです。日本語で言えば「五十音」「あいうえお」または「いろは」に当たるものです。
 アルファベットという言い方は、ギリシャ語に由来するもので、ギリシャ語の最初の文字がアルファ α 、二文字目がベータ β で、ギリシャ語の文字一覧を表すのにアルファベータと言われていたのが変化してアルファベットとなったようです。
 アルファベットによる詩というのは、ヘブライ語の文字を一文字ずつ文頭に使っていくもので、言葉遊びの要素を入れて覚えやすくしたのかもしれません。アルファベットの詩でおそらく一番有名なのが119篇です。最も長い詩篇ですが、8節ごとにヘブライ語のアルファベットが順番に文頭に出てきます。
 ヘブライ文字は、ローマ字とは全く違う文字ですから、ヘブライ語の文字表記を表すのにアルファベットという言い方をするのかについてはよく知りません。ヘブライ語の最初の文字はアーレフ、二番目の文字はベートなので、ギリシャ語のアルファ・ベータと音は似ています。ちなみに「アルファベットによる詩」という表記は注のようなもので、本文にはありません。ちなみに「アルファベットによる詩」は全部で8篇あります。
 145篇は1節ずつ、文頭がアルファベット順になっています。ただ原文(マソラ本文)には、ヘブライ文字のヌン、アルファベットのNに当たる文章がありません。ギリシャ語訳(七十人訳)やシリア語訳(ペシッタ)、死海写本はヌンで始まる文章を挿入して、アルファベットが全部揃うようにしているようです。

 さて本文ですが、詩人は神を讃えます。表題に「賛美」とあるのは、この145篇だけです。「賛歌」は数多くありますが、「賛美(テフィリーム)」は145篇だけです。
 1~2節「わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。/絶えることなくあなたをたたえ/世々限りなく御名を賛美します。」詩人は神と向かい合い、全身全霊で讃美します。
 3節「大いなる主、限りなく賛美される主/大いなる御業は究めることもできません」と詩人自身が言っているように、神を語り尽くすこと、讃美し尽くすことはできません。どれほど言葉を尽くしても、完全に神を語ったとはなりません。

 詩人が讃美するのは、人々が神を証しし、宣べ伝えるためです。4節「人々が、代々に御業をほめたたえ/力強い御業を告げ知らせますように。」6節「人々が恐るべき御力について語りますように。」7節「人々が深い御恵みを語り継いで記念とし/救いの御業を喜び歌いますように。」10~11節「主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ/あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。」12節「その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。」
 神はご自身の民に、神を証しする務めを託されます。ローマ 10:14~15「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。・・良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。」神はその民と、救いを共有し、喜びに与らせてくださいます。

 だから詩人は5節「あなたの輝き、栄光と威光/驚くべき御業の数々をわたしは歌います。」神を証しし、宣べ伝えるのに、讃美は最もふさわしい、と言っても過言ではありません。礼拝で神の言葉を語るのは、務めに召された限られた人ですが、祈ること、讃美することは、すべての神の民に恵みとして与えられています。そして神は、祈る民、讃美する民を用いてご自分を証ししてくださいます。詩編 102:19「主を賛美するために民は創造された」のです。

 詩人は神を知って欲しいのです。この喜ばしい神を知らずに生きるなどということにならないでほしいと願っているのです。8~9節「主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。/主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」このような神がおられるのに、神を知らずに生きるなんて、と詩人は感じています。だから詩人は6節後半「大きな御業をわたしは数え上げます。」わたしたちは聖書に記された神の民の歩み(救済史)においても、個人の信仰の歩みにおいても、神の御業を覚えて讃美するのです。

 詩人は願います。12~13節「その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。/あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。」神を知った者たち、神の御業を経験した者たちが、神を証しすることを願います。そして神を知ったとき、神がわたしたちの主であってくださることの幸いを思い、主の主権が明らかにされていくことを願います。神を知った者たちが、神と共に歩み、神のご支配・神の国に生きること、主の主権が明らかになり、神の国が代々に続いていくことを願います。
 キリスト教会は、キリストが主であることを世に証しするために建てられています。

 わたしたちも神を讃美しつつ歩みましょう。わたしたち罪人の救いを願ってくださる神の御心が成るように、神の国が到来するように願って、讃美しつつ神の御業を、神ご自身を語り継ぎ、告げ知らせていきましょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人の喜びをわたしたちにもお与えください。あなたにある喜びでわたしたちを満たしてください。わたしたちの口に讃美の歌声を与えてください。わたしたちがあなたの御業を宣べ伝え、あなたを証ししていくことができますように。どうかこの時、あなたが御子を遣わしてくださった恵みを多くの人と共に分かち合わせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン