聖書の言葉を聴きながら

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「星の王子さま」を哲学する

2021-02-08 22:57:42 | 読書
甲田純生『「星の王子さま」を哲学する』(ミネルヴァ書房)読了。
今まで『星の王子さま』を読んだことがなかった。手にして、読もうとしたことは何度かあるが、毎回2~3ページで挫折した。けれど今回、この本を読んで、もう一度チャレンジしようと思った。
『星の王子さま』はよく分からない、ピンとこなかったという感想を持っている人たちにオススメの本。

ヨハネによる福音書 6:52〜59

2021-02-07 15:52:35 | 聖書
2021年2月7日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:52〜59(新共同訳)


 イエスは言われました。「わたしが命のパンである。」(6:35, 48)そして「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6:51)と言われます。

 そこでユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始め」ました。

 教会員の皆さんは「これは聖晩餐のことだな」と思われたのではないかと思います。
 イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:53~56)

 わたしたちが食事をし、食べた物が消化され、血肉となり、自分と一つになって命を支えるように、イエス キリストの血肉に与り、命に与り、キリストと一体になるとき、キリストの命、永遠の命を頂くのです。そして、わたしたちはキリストの命の内にあり、キリストもわたしの内にいてくださり、キリストと共に生きるようになるのです。パウロも、ガラテヤの信徒への手紙で「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ 2:20)と言っています。

 これは奇跡です。罪人であり、この世では必ず死を迎えるわたしが、キリストと一つに結び合わされ、罪を赦され、罪から清められて、キリスト共に生き始めるのです。神の御心よりも、自分がこうしたいという思いに引きずられるのに、キリストを信じ、キリストの救いを求め続けるのです。終わりの日にキリストが復活させてくださる未来を見つめ信じる、新しい命を生き始めるのです。

 ヨハネによる福音書は、イエスと弟子たちとの最後の晩餐を記していません。21:25では「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」と書いています。福音書の編集者ヨハネは、書き切れないエピソードの中から、その目的に適うエピソード、構成を考えて福音書を編集したのです。その目的を「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ 20:31)と述べています。
 編集者ヨハネは、聖晩餐へと続いていく事柄を、最後の晩餐ではなく、五千人の給食(6:5~13)と呼ばれる出来事から続くこの箇所で、聖晩餐が指し示す救いの恵みを明らかにしようとしているのです。

 実は、ヨハネによる福音書が示す聖晩餐の内容は、危険なものでした。迫害の時代、カタコンベと呼ばれる地下墓地などでひっそりと集まっていた頃、聖晩餐から噂が拡がっていきました。キリスト教徒は、人の肉を食べ、血を飲む秘密の儀式をしているらしい。どうやらキリスト教徒は、人を食べるらしい、という噂です。人々はキリスト教徒を警戒し、偏見が増していきました。
 聖晩餐は、日本キリスト教会の式文でも「洗礼を受けていない者、まだ信仰告白をしていない者は与ることができません」と記されているとおり、未信者は与れないので、かつては日本でも、礼拝が終わって未信者が帰った後、信者だけで守っていたこともあります。

 ハイデルベルク教理問答では、問75から聖晩餐について語りますが、「どのようにしてキリストの十字架を思い起こし、確信させられますか」という問いにこう答えます。「イエスご自身が、十字架につけられた体と流された血をもって、永遠の命へとわたしの魂を養い、潤してくださる。主のパンと杯を奉仕者の手から受け、実際に味わうのと同様に確実である。」この答えは、キリストの体と血が、わたしたちを永遠の命へと養うことと、それが確実であることを聖晩餐は証ししていると言っています。

 聖書の中心のメッセージは、神と共に生きる命です。それが、罪のために神から離れて、死に囚われてしまいました。この罪と死から解放されるには、キリストに罪を贖って頂き、いつも神と共にあるキリストと一つに結び合わされて、キリストと共に生きるのです。

 だからイエスは言われます。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」
 イエスこそ「天から降って来たパン」なのです。イスラエルの「先祖が(出エジプトの荒れ野で)食べた」ものとは違います。食べたのに「死んでしまった」ものとは違います。荒れ野で食べたマナは、イエス キリストを指し示すものでした。イエスこそ「命のパン」です。「このパンを食べる者は永遠に生きる」のです。

 教会は、この命のパン、イエス キリストを差し出すのです。教会が与えることのできるもの、神から託されているものはイエス キリストなのです。イエスご自身が「さぁ、取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。罪が赦されるようにと流されるわたしの血、契約の血である。」とご自身の命を差し出されるので、教会は、イエスを信じる者にイエス キリストを差し出すのです(マタイ 26:26~28)。

 聖晩餐は、信仰はなくても、与れば御利益があるというようなものではなく、パンはパン、ぶどう液はぶどう液ですが、イエスを救い主と信じる者に、聖霊が働いてくださり、イエス キリストの体と血、キリストの命で清め満たしてくださるのです。聖霊なる神が、イエス キリストの命によって、わたしたちを永遠の命へと育んでくださるのです。

 聖晩餐は、罪ゆえに神を信じきれないわたしたちにキリストの救いの確かさを確認させてくださる恵みです。今、感染症のため、配餐ができないのはとても残念なことです。しかし今言ったように、聖晩餐は聖霊なる神の働きを指し示すものなので、パンとぶどう液に与れないとキリストの救いに与れないということではありません。
 ユダヤ人は、紀元70年にローマによって神殿が破壊されて、儀式による信仰から御言葉による信仰へと移行しました。以来およそ二千年、流浪の民になってもユダヤ人は信仰に生きてきました。
 いずれパンと杯を分かち合う日がくることと思います。しかし今は、神の言葉に導かれて、永遠の命を仰ぎ見る時なのだと思います。
 きょうこの御言葉を聴いた皆さんの中で、イエス キリストの言葉が活きて働きますように。キリストと結び合わされ、神へと立ち帰り、永遠の命に生きることができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに命のパン、イエス キリストを与えてくださったことを感謝します。キリストは、他の何かではなく、ご自身を、その命をわたしたちに与えてくださいました。命はあなたから、そしてイエス キリストから来ます。わたしたち一人ひとりの前に差し出されているキリストの命、永遠の命を感謝して、喜んで受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 148:1〜6

2021-02-04 00:50:45 | 聖書
2021年2月3日(水) 祈り会
聖書:詩編 148:1〜6(新共同訳)


 きょうは148篇の前半です。
 この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)とあります。
 ハレルヤが「主を讃美せよ」という意味だと分かると、「主を賛美せよ」という言葉が何度も言われていることに気づかれると思います。日本語に訳されている「賛美せよ」も、最初にカタカナで書かれている「ハレルヤ」と同じ「ハーラル」(讃美する)という動詞が使われています。

 1節の2行目に「天において」とあります。そして7節に「地において」とあります。
 1~6節は天における讃美が語られ、7節以下は地における讃美が語られます。そして11~12節は人の讃美、13~14節は主の民の讃美が語られます。
 この詩篇は、神が造られた世界の天においても、地においても、讃美で満たされ、世界がすべて神を喜ぶことへと導こうとしています。
 讃美は、神を讃えて、神の栄光を証しする行為です。詩編102:19には「主を賛美するために民は創造された」(新共同訳)という言葉があります。讃美は神の民の務めであり、神にふさわしいものです。
 わたしが神学校で習った時(30年前)には、出エジプトを喜び讃える出エジプト15章のミリアムの讃歌(20~21節)が一番古い聖書の記事だと言われていました。ただ聖書学も日進月歩で今もそう考えられているか定かではありません。けれど讃美は、神の民の歩みの初期からあったものであろうと思います。

 1節「天において」「高い天で」
 天は、神がおられる世界を表します。人が住む地に対する天です。人の手が届かない高みを指し示します。
 2節「御使いらよ、こぞって」「主の万軍よ、こぞって」
 天使とその軍勢も皆、讃美へと誘われます。
 3節「日よ、月よ」「輝く星よ」
 天体、天を飾るものたちも、讃美に招かれます。
 4節「天の天よ」「天の上にある水よ」
 天の中の天、最も高い天、そして雨として降る天の上にある水も、神が造られた世界のすべてのものが神を讃えることを詩人は願っています。すべてのものは神によって造られたのですから。5節「主は命じられ、すべてのものは創造された。」
 6節「主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。」この節は「主は掟を与え、天の被造物は掟を逸脱することはない」という意味です。つまり、神は自然の理を造り、与えられたということです。

 この詩篇は、神の創造の御業を思いめぐらしながら、讃美しています。
 神の創造の御業は、創世記1:1~2:3で語られます。この箇所はバビロン捕囚で、バビロニアの創世神話に触れて、触発されて語られたと言われています。それは、バビロニアの神々が世界が造ったのではなく、唯一の真の神が祝福をもって造られたことを表す信仰告白であると言われます。科学的なことを伝えようとしているのではなく、信仰をもって神の創造の御業を語っています。
 1:1~2:3は、混沌から神の言葉によって命の秩序が造られていく様が表現されています。創造は7日間でなされます。七日目は安息の日ですから、創造自体は6日間でなされます。この箇所が書かれた紀元前一千年頃は、7も6も完全数だと考えられていました。7は、1と7以外割る数字を持たない特別な数という意味で完全数と考えられていました。逆に6は、1でも2でも3でも6でも割ることのできる特別な数という意味で完全数と考えられていました。創造の記事は、完全数を用いることにより、創造の御業が完全であることを表そうとしています。
 6日間で世界が造られてきますが、これは、3日と3日に分かれます。一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目が対になっています。
 一日目、光が造られます。四日目、太陽と月の創造が語られます。光と太陽が別々に語られます。一日目の光は、光そのものです。古代のイスラエル人がそのような感覚を持っていたことに、驚きを感じます。
 二日目、水が分けられます。天の水と地の水です。五日目、空の鳥と海の生き物が造られます。
 三日目、地が造られ、植物が造られます。六日目、地に生きる生き物、そして神にかたどられた人間が造られます。
 このように、一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目が対になっています。これらは、神が語られる前は、地は混沌であったのに(創世記 1:1)、神の言葉によって命の秩序が造られ、神の「よかった」(良しとされた)が繰り返され、造られた世界には神の祝福が満ちていたことが表されています。

 そして今、聖書は「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」(ローマ 8:19)と語ります。被造物も神の救いに与り、神の祝福に満たされること、創造のときの喜びが回復することを待ち望んでいます。
 マルコによる福音書は復活の主イエスの宣教命令をこう書いています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)
 神の救いの御業は、全被造物に及びます。そして148篇は、天と地にあるすべてのものを讃美へと招きます。

 148篇はその形から見て、会衆を讃美へと招くのに用いられた詩編のように思います。「主を賛美せよ」という呼びかけは、神を証しする神の民の務めです。教会に集うお一人おひとりが、その信仰生活・教会生活において、神を讃美せずにはいられない神との出会いをされますようにと祈ります。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの造られた世界が讃美で満たされますように。代々の民と共にわたしたちもあなたを指し示し、讃美へと導くことができますように。あなたと出会う一人ひとりが救いの喜びで満たされますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン