聖書: ヨハネによる福音書 21:17 新共同訳
[17] 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
観察:
イエスがペテロにイエスを愛しているかどうかを繰り返し尋ねるのは、ペテロにとって苦痛でした。 しかし、それはペテロを傷つけることを意図したものではなく、むしろペテロが教会の指導者として働き続け、役に立つことができるように、イエスに対する彼の三度の否認をある意味で帳消しにし、彼の良心を晴らす機会を与えることでした。 結局のところ、これはペテロに対し、あの夜の失敗にもかかわらず、イエスは依然としてペテロを愛しており、ペテロをイエスの王国で価値のある人物と見なしていることを確認することを意味していました。
応用:
時々、神が私たちの人生に許してくださったものは、私たちにとって苦痛に感じるかもしれませんが、神の意図は決して私たちを傷つけることではありません。 むしろ神は私たちを清め、私たちの性格を強めることを求めておられます。 人生で最も苦痛だった時期を振り返ると、なぜ神は私をそのように傷つけるのだろうかと時々疑問に思ったことを思い出します。 しかし、振り返ってみると、これらは私の人生で最も成長した時期の一つであったことがわかります。 もちろん、痛みのない生活ができればいいのですが、神の目標はそれよりも大きなものです。神は私の慰めよりも私の人格の成長を望んでおられます。
祈り:
神様、あなたが私の人生に苦痛を与え、それを利用して私の人格を成長させてくれたことに感謝します。 あなたが何年にもわたって私を変えてくれたことをとても嬉しく思います。 私があなたをもっと信頼し、あらゆる困難な状況においても成長の機会を探すことができるように助けてください。 愛してます。 アーメン。
注目すべき真実:
21:1 イエスは復活後、追随者たちに何度も肉体的に現われました。
21:6 イエスは、最初に自分に従うように漁師たちを呼んだとき(ルカ5章)と同じような奇跡を再び行い、奇跡的に大漁をもたらしました。
21:15 イエスは復活した体で食事をすることができた。
21:15 以降 イエスはペテロに、自分たちが釣った魚よりも、言い換えれば、自分の経歴や収入源よりもイエスを愛しているのかと尋ねられた。 それからイエスは彼に、羊飼いが羊を世話するようにイエスの追随者を気遣う教会の指導者として奉仕するよう求めました。
21:15-17 イエスはペテロに、イエスへの愛を三度肯定することによって、イエスに対する彼の三度の否定を打ち消す機会を与えました。
21:18-19 イエスは、ペテロがいつかその信仰のために十字架につけられるだろうと予告されました。
21:21-22 イエスは、私たちが人生の困難か楽かについて他の人と比較したり競争したりするのではなく、どんな状況でも神に忠実であることを望んでおられます。
21:20-25 この本を書いたヨハネはイエスの最も親しい友人の一人で、他の弟子よりも長生きしました。
ヨハネによる福音書 21:1-25 新共同訳
[1] その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 [2] シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 [3] シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 [4] 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 [5] イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 [6] イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 [7] イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 [8] ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 [9] さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 [10] イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 [11] シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 [12] イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 [13] イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 [14] イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。 [15] 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 [16] 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 [17] 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 [18] はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 [19] ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。 [20] ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。 [21] ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。 [22] イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 [23] それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。 [24] これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。 [25] イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。