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至福のシリーズ– 迫害されている人々
「義のために迫害されている人たちは幸いです。天国はその人たちのものです。わたしのゆえに人々があなたたちをののしり、迫害し、あなたたちに対してあらゆる悪口を言うとき、あなたたちは幸いです。喜びなさい。あなたたちの天での報いは大きいからです。あなたたちより前の預言者たちも同じように迫害されたのですから。」 (マタイ 5:10-12)
キリストの十字架について考えるとき、喜びと畏敬の念に圧倒されるのは簡単です。私たちは自由です。完全に自由です。恵みによって救われ、義とされています。主はどうしてこのような恵みの贈り物を与えることができるのでしょうか。主であり救い主である方との永遠について考えるとき、高揚感と興奮しかありませんが、それには代償が伴います。
キリストの十字架は私たちの勝利の叫びですが、それはもともと死刑と拷問の一種でした。十字架の上で私たちの主は父との別離に直面し、世界の罪を負い、あらゆる種類の痛みと悲しみを経験しました。どうしてこれほどの喜びと悲しみが一瞬のうちに共存できるのでしょうか。
十字架というレンズを通してのみ、私たちは最終的な至福を理解することができます。マタイ 5 章からのこのシリーズで、イエスは、私たちが神に近づき、神の呼びかけに従って他の人と交流するときに得られる祝福と喜びを説明しています。最後の 2 つの祝福で、キリストは迫害について語っています。迫害は、キリストの足跡をたどり、世の生き方とは正反対の生き方をすることの自然な結果です。ヨハネ 15 章 18 節から 19 節で、イエスはこのことを私たちに明らかにしています。「もし世があなたがたを憎むなら、世はまずわたしを憎んだのだということを覚えておきなさい。あなたがたが世のものであったなら、世はあなたがたを自分のものとして愛したでしょう。しかし実際、あなたがたは世のものではありません。かえって、わたしはあなたがたを世から選び出したのです。」
マタイ5:10で、主は「義のために迫害される者は幸いである」とおっしゃっています。ここで主は、迫害は物理的な形で起こるだけでなく、キリストのゆえに私たちについて言われることによっても起こると説明しています。このように、私たちは自分の生き方だけでなく、誰に従うかによっても反対を受けることを覚悟しなければなりません。
さて、ここで重要な問題に移りましょう。他人の誹謗中傷がどうして祝福となり、一体なぜ私たちはそれで喜び、喜ぶべきなのでしょうか。興味深いことに、ギリシャ語の「喜ぶ」という言葉は、文字通りには抑えきれない喜びで飛び跳ねるという意味です。迫害に直面した際のこのような心の反応は、天国、つまり救い主との永遠の関係があるからこそ存在できるのです。
コリント人への第二の手紙第4章16節から17節にはこうあります。「ですから、私たちは落胆しません。私たちは、外面的には衰えていても、内面的には日々新たにされていきます。なぜなら、私たちの軽い、つかの間の苦難は、それらすべてにまさる永遠の栄光を、私たちにもたらすからです。」
イエスは天秤を傾けるのに十分です。私たちの救い主との関係こそ、最も豊かな祝福が横たわる場所です。この人生の試練をはるかに上回る祝福です。キリストが私たちに恵みの賜物を与えるために耐え難い苦しみを受けたように、私たちも同じように苦しみ、扱われます。しかし、イエスが高められたように、私たちも王の息子、娘として高められるのです。
そうです、キリストに従うということは、地上で彼が受けたのと同じ扱いを受けることを意味します。つまり、不当に非難され、虐待され、拒絶されるのです。しかし、そこには溢れ出る、抗いがたい喜びもあります。私たちが主としてキリストに従うとき、私たちはキリストを救い主として受け入れ、キリストは人生のあらゆる良い時も悪い時も私たちと共に歩んでくださいます。私たちは決して一人ではなく、キリストとの関係においてのみ、最大の充足感という報酬を分かち合うのです。
「この世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
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