このところ、僕の中で一番気になっているテーマのひとつが、「『自分が加害者として当事者だ』と認めたくない」という人々の感情との折り合い方をどうしたらいいのか、ということだ。
例えば、今僕は、僕の住む大田区という地域で、沖縄の問題を継続的に取り組んでいきたい、と考えている。実はそういう提起は、地域で反戦運動をやっている、僕より少し年上の人たちの集まり(「ストップ派兵!改憲No!南部共同行動」なんて名前だが)の中で、10数年位前からしてきた。でも、それはなかなか合意を得られない。
その主な理由は、
「沖縄は遠い(当事者性が意識できない)」
であり、
「いやいや、僕らはまさに沖縄への加害当事者としてあるのだから」
というと、ありていにいえば、
「加害者であることを認めろと言われたって、人はそんなことに意欲が持てるか」
だったりする。それはそれで現実として了解せざるをえないのだ。
まあ、それを現実として了解するとはいえ、やはり、「『加害者』という当事者性は、そんなにも『こわい』のだろうか」という違和感は残る。
そして、その「自分が加害者」と認めることへの拒否感は、結局あの「自虐史観」とやらへの強力な排撃にもつながるのかと思ったりする。
「自分の親が悪いことをした、という教育では誇りが持てなくなり、親を尊敬できなくなり非行が増える」などと本気で言っている人が、今やそこここにいたりする。
現在の僕は、「この世界では、だれもが被害者でもあり加害者でもある」という考えを持っている。だから、「そんなに『自分が加害者』であることに拒否的でなくてもなあ」と思って、ため息をつきたくなる。そういうふうに存在する、僕と周囲の人たちとの間の考え方の壁のようなものをなんとか超えられないか、紐解くヒントを探索して時間をかけていたりする。
その探索の中で今日ひっかかったのが、「反省させると犯罪者になります」という本。
フザケたようなタイトルに似合わず、かなりまじめで手堅い内容。「加害者の視点から始める」「反省は『自分の内面と向き合う機会』を奪う」など、刑務所での累犯受刑者の厚生支援の実践に基づく説得的な提起。
もちろん、ヘイトスピーチ団体等とは容赦のない渡り合いが必要だし、彼らのしていることは犯罪だし、その時、僕たちが被害者の側に立って彼らと対峙しなければならないことはゆるぎないことだ。
だが一方で、日常にある・そもそも僕ら自身の中にもある加害性と向き合うために越えていくべきいくつかの問題は、確かに「被害者の立場を思いやる」ことだけからでは解決しないのでは、という感触は持っている。
その感触は、かつて「はこわい考」 を読みながら考えたことの、その先にあるものを予感させるのだが、まだ鮮明になっていない。この「反省させると犯罪者になります」を読み進むうちに明らかになって来るような予感がしている。