はい、しげのですが?

匿名でないと困ることは書かない。最近は体調不良で投稿めっきり減ったが。

障害の「害」表記問題を考える時に、連想すること。

2013年11月02日 23時32分53秒 | Weblog

「神保町大学」という刺激的なプロジェクトをやっている人たちがいる。

http://www.jimbo-univ.com/
ここがやっているイベントのひとつに、理解力コース「これからの定義の話をしよう」という連続講座があるようで、今回#8【障害者についてを、】うちの法人(風雷社中)がWAM(福祉医療機構)の助成を受けてやっているEBAKOU☆BASEという場所を会場として開催した。このテーマがまさにこれ。

以下フェイスブックページのイベント概要より引用。
https://www.facebook.com/events/523906594344947/ 

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障害者の「がい」の字を平仮名で書くひとがいます。
障害者と障がい者。表記としてどちらが正しいのでしょうか。
いや、そもそも、字をどうこうしたからといって
障害者の社会が何かしら変わるのでしょうか。

障害者には身体/知的/精神というカテゴリがあります。

身体障害者でいえば、目が見えない、耳が聞こえない、
足が不自由、麻痺で動かない、人工透析を受けている、など
障害者と一括りにしたところで、多種多様なのです。

今回のイベントでは、障害者の世界について考えていきます。
・障害者の「害」の字について
・生まれつき障害があるひと、事故・病気で障害者となったひとの、障害への向き合い方の違い、性格の違いについて
・障害者と家族/友人/支援者の関係性について

障害当事者と障害者の支援者をパネラーとしてお招きしながら
当日参加する皆さんも加えて議論を深められればと思います。

【概要】

①障害者の「害」の字の表現ってどうなの?

障害者の「害」の字を漢字で書くひともいれば、
ひらがなで書くひともいます。「碍」を用いるひともいます。
なぜ漢字/ひらがなを使うのか?障害当事者はどう思うのか?
といったことを議論してみたいと考えています。

②生まれつきの障害者/成長期で障害者になったひとの違い

義足を履いている2人の大きな違いは、
生まれつきか否か(先天性か後天性か)ということ。
障害者になった過程が違うふたりの
障害を受け容れるまでの違い、性格の違い、
周囲の友人との関係性の違いをお話しします。

③障害当事者と周囲の支援者との関係性の今後

自分が障害者になる可能性は否定できません。
もし、自分が障害者になってしまったとしたら
・周囲からどのように関わってほしいか
・周囲とどのように関わっていくか
・自分が障害を受け容れることができるか
といったことを考える時間を創ります。

【当日のパネラー】

●佐々木 一成 WEBマガジン Plus-handicap 編集長

生まれながらに両足と右手に障害をもつ。

パラリンピックを目指し泳ぎまくった青春時代に日本代表に選ばれた過去もある。東京で2020年パラリンピックが開催することとなり、無謀にもシッティングバレーで出場することを心に決める。

合コンに何度行っても障害者と巡り合った経験がなく、どうやって障害者の恋愛が生まれているのか、首をひねったことが原因で、障害者と社会をつなぐ役割を担っていきたいと決心。メディアの運営、執筆業を通じ、障害者のリアルを世に発信している。

●堀 雄太 貿易商社のサラリーマン

野球少年だった小学4年生の11月「骨腫瘍」と診断され、生きるために右足を切断する。幼少期の発熱の影響で左耳の聴力はゼロ。27歳の時には、脳出血を発症する。三重苦の障害者。

過去勤めていた会社は過酷な職場環境であり、また前職では障害が理由で仕事を干されたことがある。初めて障害者雇用の枠で現在の仕事に従事。障害者として企業で働き、自身の市場価値を高める成功事例となれるよう、日々奔走中。


【日時】
11月2日(土)16:00-18:00(開場15:40)

【場所】
EBAKOU☆BASE
東京都大田区東矢口2丁目15-15 友光ビル106
東急多摩川線矢口渡駅から徒歩3分。
荏原高校通り商店街の一角です。
https://www.facebook.com/EbakouBase/info

【参加費】
社会人1500円 学生無料

【定員】
10名程度

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正しい答えもなければ、
誰かと同じ答えでなくてはならないわけでもない。
金子みすずの詩にあるように
「みんなちがって、みんないい」
いろいろな意見をインプットすることで、自分自身の価値観に
大きく磨きをかける時間となれば嬉しいです。

ちなみに、「これからの定義の話をしよう」では
第1回は「仕事とは何か」
第2回は「理性的と情動的」「受動的と能動的」
第3回は「男と女」
第4回は「グローバルとは何か」
第5回は「豊かさとは何か」
第6回は「愛について」
第7回は「家族について」
考え続けてきました。

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以上の告知を見て、とても興味があったのだが、残念ながら参加できなかった。だから、どんな議論になったのか、わからない。有意義な議論であったことを期待する。

それはさておき、僕がこのテーマで常々思うことを記しておく。

障害の「害」の表記を置き換える場合と議論は古くからあり、僕はそこに生産性を全く感じていない。が、置き換えはまた最近活発になってきていて、やや辟易しているが、避けては通れないことを感じている。

僕がこのことについて思い起こすひとつの事例がある。
アイヌと言う言葉についてだ。

アイヌは民族をさす言葉であり、当事者の自称でもある。その意味は「人間」である。
しかし、同時にそれが、差別語として機能してきた歴史もある。

北海道において、「アイヌ」という言葉は、多くは、当事者に対して侮蔑的に用いられてきた。「アイヌ」という言葉を「犬」と掛け合わせ、小さいころから「アッイヌ」「アッイヌ」と囃したてられいじめられたという。「アイヌ野郎」という罵声や陰口も日常にあり、当事者を傷つける言葉として記憶された。

「アイヌ」をその語感から「犬」と結びつける行為は、ごく自然に起きるもののようで、かの谷川俊太郎でさえ、1980年代に「あっいぬだ、あっいぬ あいぬ」の書き出しで始まる絵本を作ってしまった。(この絵本「ことばであそぼう」という名前だったと思うが、チカップ美恵子さんを中心とした、発行元であるフレーベル館への糾弾闘争の結果、回収絶版になったようだ。インターネットで検索してみたが、出版の記録さえない。この糾弾闘争には大学で僕の所属していたサークル「近代史研究会」も参加していたので、当時の記憶で書いている)

アイヌ民族の当事者組織「アイヌ協会」が長い間「ウタリ協会」と改名され、アイヌ民族への施策を「ウタリ政策」と呼び替えたのも、アイヌの人たちの中に広く根差した、この差別の記憶ゆえだと言われる。(「ウタリ」とは、アイヌ語で「同胞」を意味する)

1988年に亡くなった酒井 衛さんは、自らをアイヌと名乗り、「ウタリ」という呼び換えに批判的な人ではあったが、その彼ですら、「それでも俺は、今でも『アイヌ』と呼ばれたら刺してやりたくなるんだ」と僕に言うほど、「アイヌ」と言われ侮蔑され続けてきた屈辱の体験は深く強いものがあった。

たが、その強い被差別の記憶を理由に、アイヌという、アイヌ語による当事者の自称が消えてしまわなくてよかったと、僕は思う。

障害者、という言葉は当事者の自称ではないし、尊重すべき語源でもないとは思う。
しかし、文字をとりかえて、差別行為や、被差別の痛みの記憶が消えるのだろうか、とも思う。
葬り去るべきは、言葉や文字ではなく、差別そのものだと、僕は改めて強く思う。 


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