約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に掲載された記事を紹介します。
【島崎盛衰記その6】
奥方の戒めもムダ 島崎太田行きを決行
島崎義幹は、佐竹義宣の正体を受けることになり、これを諸老臣に伝えた。そして、義宣に他心はなかろうが、万が一のことを考え、だれか召連れていくといい、義幹自身義宣に対する備えのあるところをみせたものの、大平内膳、土子野美濃守など五老臣のいうことには、「危きにちかずくこと。君子の行うにあらず」と、まず反対。そもそも、これまでの佐竹のふるまいをみると、口ではうまいことを云っているが、内心は島崎家を押□す□えだ。姫をおくるとは□□だけ。いまだに婚礼の通知もないではないか。それなのに太田へ招き、よろこびの酒宴を□るとはおかしい。延期されたい。義宣には、われわれ五人が太田へ行き、どのような申しひらきでもいたしましょう・・ということであった。
この言葉に、義幹は途方にくれた。そこへ、またまた現れたのが小貫大蔵、前回と同様、持ち前の弁舌にものいわせてぶちまくった。義幹はますます混乱した。そこへ、にじりでたのが家臣の一人大川亦五郎、大蔵にむかい、ずばり言った。
「貴殿の心底、かねて心□す。当時、乱世の□にて、子は親を謀り、臣は君を壊し、たがいにすきをうかがう世の中なり。たまたま、当家が佐竹より縁組を望まること不審なり。ここに及んで老臣を先達すると申し上げるに、貴殿は弁舌をもって君をすすめ奉る」とまくしたて、大蔵に迫った。大蔵は顔色を変えて怒った。
「われ、他に別心なし。ただただお家大事を思う所存なり。しかるに、貴殿はわが心底まで疑うとはなんぞや。そのわけをうけたまわらん」と、逆につめ寄ったところで、義幹が待ったをかけた。大川のいいぶんもさることながら、小貫の言葉もわが心にかなっている。ともあれ、小川刑部左衛門あて招待を受けるむね伝えてある、といい、さらに言葉をつづけた。
「今また深く疑いて行かずんば、佐竹の武□に恐れ、義幹仮病を聞きて言葉を□り、変改せしと笑われんこと心外なら、たとえ義宣に野心ありて奸計を用いるにもせよ、そのときは臨機応変の方便をめぐらすべし。わが心、鉄のごとし」これで、義幹の太田行きはきまった。五老臣はじめ一座の諸士も仕方なく、このうえは主君と存亡をともにするほかなしと、心にきめたものだ。
左衛門尉義幹は、2月8日、太田へむかうことになった。お供の侍には、原徳大夫、原弥兵衛、瀬能茂兵衛、茂手木利之助、榊原弥衛門、新橋道之助、根本□四郎、森伊衛門、宮本市左衛門、人見久兵衛、平山管内、小幡勘助、江口三太郎、大川亦五郎、片岡久蔵、矢口新太郎、菅谷利助、佐藤伝内、石神弥左衛門、鬼沢勘左衛門をはじめ、屈強の郎党五十人、いままさに出発しようというとき、奥方が行列の前にたちふさがり、昨夜の夢見がわるかったといい、しきりにとめようとしたが、夢は五臓の乱れ、恐れ疑うことはないと言い残し、島崎の城をあとにした。
佐竹義宣は小貫大蔵と示し合わせ、計略成就を大いによろこんだ。それから、屈強の精兵五万余騎を太田への道すじに配置、佐竹淡路守、佐竹左衛門佐を大将とした上勢六千余騎を、麻生、行方方面からひそかに大生台へおくり、義幹を討ちとると同時に島崎城へ攻めこもうと、それぞれ駒をすすめた。
島崎盛衰記 その7につづく。