約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に掲載された記事を紹介します。
【島崎盛衰記その10】最終回
島崎落城の火の手 落ち行く於里も自害
このとき、諸士の頭領として上座にあった大平、土子の二老臣が声をかけた。「主君とともに死することこそもっともながら、敵将佐竹義宣に一太刀も恨み果たさずとして討死せんこと、かえすがえすも残念なり。ことここに及んでは、姫君の先途を見とどけ忠義をめぐらすことこそ、死にまさる忠義なり。今宵は大生台に夜討して佐竹勢を追いくずし、しかるのち□だてして太田へ攻めのぼらん」と、ここに衆議は一致した。
小貫大蔵、夜討評定□□のこと(付、島崎合戦・落城のこと)━大生台夜討ちに待ったをかけたのは、またまた小貫大蔵。「夜討ちは敵の備えなく、不意を打ってこそ勝利をうべき。いま、なかなかもって佐竹勢油断すべからず。しかるに敵陣へ押し入り、無謀な合戦をいたさば敗軍し、無念に無念を重ねる道理なり。されば、いま戦いはずして和を乞うならば、佐竹勢よろこんで承知すべし。しかるのち方策をめぐらし、当家再興をはかることこそ、真の忠義ならん」と、くだんの調子でまくしたてれば、諸士は三たび「小貫弁舌」にまどわされ、夜討ちは中止となる。
もし、この場に大川亦五郎がいれば、小貫の弁舌をくじいていたろうが、すでに保内山で討死しているから、こりもまた天命のしからしむるところであった。
ところで、奥方於里の方は、茂手木左衛門、鬼沢助左衛門と少数の郎党をつれて、島崎から上戸、上戸から潮来へと落ちていった。すると、どこからやって来たものか、やにわに佐竹勢が道をふさいだ。供の面々、太刀、長刀のさやをはずし、切り払い、於里の方もみずから長刀を振り回し、血路をひらいたものの、なかには討たれる者、深手をおう者などあつめて、供の者とはなれてしまった。
於里の方は小走りに道をいそぎながら、ふと潮来の方向に目をやると、白旗一本が風にひるがえり、ここにおよそ百人の敵兵がたむろしているのが見えた。これではとても逃れることはできまいと、運を天にまかせ、裾の乱れを気にもとめず、田や畑を足まかせに走り、敵の屯所から遠ざかることができた。畑の中の芝原に腰をおろし、まずまず一安心と胸をなでおろしはしたが、話しかける相手もなく途方に暮れるばかり。そうしているところへ、ちりぢりになっていた供の者が一人、二人とあつまり、ようやく十人ばかりになった。
しかし、だれもかれもが傷だらけ、どうしてここまでたどりつけたかと思えるような深手の者もいた。はるか大生原、島崎の方をうかがえば、合戦の最中でもあろうか、かちどきが風に乗ってきこえてくる。そのうち、島崎城の落城と見え、火の手が高くあがった。これを見た於里の方は供の者にむかい、涙ながらにいった。「その方たち、これまでわれにつきしたがい先途を見届けそうろうこと、うれしく存ずるり。われもなるたけながらえて姫の始末を見届けたく思いしが、かくのごとく深手をこうむりたれば落ち行くことかのうまじ。されば敵の手にかからんよはりは、ここにて自害せん。なんじらは、いかにしても命まっとうして姫が行く末を見届け、わが菩提をとむらいくれよ」と。
そして懐剣でのどを突き刺し、果てた。供の者もいたしかたなく、畑のあたりの小高いところを掘り、内室のなきがらを埋めかくし、それぞれちりぢりに落ちていった。
そのなかには、自害してあとを追った者も数多くいたとかいう。
(島崎盛衰記完了)