「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

雑感「島崎城を取り巻く地域の今昔…そして郷愁」

2021-02-17 12:12:09 | 歴史

雑感「島崎城を取り巻く地域の今昔…そして郷愁」

◆はじめに

昭和・平成・令和と時代が流れていますが、はるか400年以上前に築城された島崎城の城跡は時の流れにも変わらず昔の姿を残しています。しかし、この地域に住む私達の記憶は、周辺の環境の変化や伝承等が年々消えていく昨今です。ここに、記憶を文字にしたためて次の世代へ伝えられたらとの思いで筆を執りました。

さて、香取市方面より国道51号バイパスが、芝宿・横須賀を通過して潮来市街へ入っていきます。その途中、茨城トヨタの十字路の交差点に「島崎城跡」の案内版が令和二年二月に建ちました。案内版の指示通りに、北の方向に進むと旧八代小学校・中学校の跡地に「かすみ健康保健センター」が建っています。その先には、八代小学校の跡地があり校舎も残っております。その校舎の裏側には幅5m位の田中川が台上戸方面より芝宿の夜越川へと流れています。

  • 新立山(にいだてやま)・弐の舘

旧八代小学校跡地の南側には、潮来の稲荷山に連なる丘陵(海抜25m)の一角になり、通称「新立山(にいだてやま)」と呼ばれています。(古説には「弐の舘」(にのたて))現在は、台地の頂上は住宅地が開発されていますが、昭和30年頃には遠望が良く、香取市の十六島・浮島・出島と視界に入りました。ここは島崎城の南側を監視する番所があった場所として伝わっています。また、その台地の片隅に「観音寺跡地」があり島崎城の直南にあたります。また、この丘陵の西側の小学校跡地に一番近い丘尻に国有地が少し残っており、口伝によると島崎氏の時代には罪人(村の掟に従わない人)の仕置場で、近世は「制札場」といわれております。確かに他の集落から良く見える場所です。(ちなみに「壱の舘」は現在の権現山公園の隣の「入りの山」です)

  • 馬峰(まのみね)・棒ヶ峰(ぼうがみね)

校舎の裏の田中川橋を渡ると、のどかな田園風景が広がります。前面に山(丘)が広がり、西は「宿」地区の集落から東は御札神社(城跡)まで一望できます。この山並が「馬峰」又は「棒ヶ峰」と呼ばれる丘陵です。現在は、この峰を横断して県道になっています。西の「宿」集落から、この馬峰の頂上部の上り坂を経た後、さらに平坦地を経て城迄の道があり、城から更に北へ尾根道が続き、「赤須」集落を経て大生原台地へ入る地域(現在の行方縦貫道路交差点)大膳池の近く迄続いております。(西の宿集落から約4.0km)この地域には今でも土塁の跡が散見できて、ここに島崎城へ入る関所(砦)が構築されていた様です。

  • 「竜巻城」のいわれ

再び小学校跡地から遠望すると、馬の峰(馬の背中の様な地形)と西の集落から東の城跡まで一望できます。静かな山あいの集落の感覚があります。この東側の端にあった島崎城は別名「竜巻城」と呼称されていた様です。この丘陵の地形と自然の形状を考証してみます。

馬峰丘陵の延長は約4kmになり、この馬峰の山並みが行方台地の北からの季節風と、筑波おろしの西風が香澄村の清水・永山の谷津を渡る気温の低い空気をさえぎり、南からの温暖な気流が新立山(弐の舘山)を越えて流れ込んで温暖な集落であったと思われます。

小学生の頃、学校より島崎城方面を見ると、野焼きの煙や農家の炊飯の煙が山並みの頂上まで上がらず、横に流れていた現象が思い出されます。空気が断層を造り、寒暖乾湿の交差する地域のため、竜巻・野嵐が起る地域だと思われます。特に春先は竜巻が起こり易く、昭和38年には東村で発生した竜巻が小学校を襲い、小学生が倒壊した校舎の下敷きになり亡くなる事故が起きました。この地形が竜巻の通り道と考えられます。

  • 馬峰切通し・大膳池 

次に、「馬峰切通し」開削について記してみます。天正19年(1592)、島崎城落城後、佐竹の治世は7年で終り、水戸徳川家に編入された訳ですが、この過渡的にこの地域の生活の過ごし易いことを知っていたので、旧島崎家の家臣や佐竹家に縁のある人々が、定住の地としてこの地を選定したと思われます。また反対に、板久の水辺の里を求めて島崎を去る人もいました。この状況の中で赤須村に土着した萩原鉄幹大膳が、湧水の出る沢に堤を作って溜池・大膳池を作り耕地の拡大を図り、またこの水利を宿の人々が山の脇に用水路を作り益々生産高を増収したと思います。時を経て、161年後の宝永2年(1752)島崎城跡の前の耕地(前谷津)にもこの用水を利用して生産高を計ろうと、この馬峰を開削して水を利用したのが「切通し」です。水戸藩南領の行政区なので、富田村庄屋の羽生惣右衛門(4代目)が請け負い北陸の敦賀の農民により延長100m位の区間を、椎の木(9尺×3尺)でつなぎ埋設して通水したと記されています。昭和40年代の土地改良の際に、その木菅の入口が確認出来たそうです。この工事により、馬峰も切通しになり、段々と土取りにより今では県道大賀線が通っています。あの道の下に300年前の椎の木で作った「用水菅」が約15m下に埋没されています。尚、この工事により、馬の峰は通行出来なくなり、「ウシロネギ道」が開かれました。

  • 長国寺とその周辺 

次に、小学校敷地より西方を遠望すると芝宿の「長国寺」が見えます。(13代長国が創建)墓地内には、島崎の殿様の子孫が落城して115年後の宝暦2年(1707)に建立した供養塔があります。そして、昭和30年前後には長国寺の本堂の後の畑の方に、大きな塚(高さ7~8m)通称「一本松」があり殿様の墓と思っておりましたが、塚を掘り起こして畑にしましたが何も無かったとの事です。また、塚は島崎の津(港)に入る目印であったとの説もあります。宿・古宿から長国寺へ行くのには幅の広い道路があり、松の大木が両脇に並び通称「芝宿の並木(ナミキ)」と呼ばれたもので、北の砦から→赤須→古宿→城→宿→芝宿へとつながっていた関連道路です。

最後に

 小学校の跡地から島崎城跡をとりまく郷土の変化を思い出しまして、種々雑多思いのままに書いてみました。八代小学校から牛堀小学校へと学びの校舎は変わっても、「島崎城跡」は歌い継がれております。私達も、次の世代に島崎城跡を語り継いでいきたいと思います。

【旧八代小学校校歌】

♪旗雲なびく島崎城に 歴史なつかし緑の丘よ ああ日の丸つけた宇宙船 銀河の彼方めざましく♪

【牛堀小学校校歌】

島崎城の城跡で 歴史の風と語り合い このとこしえの牛堀の 文化にふれるときめきよ 僕も私も故郷を 愛しむ心を育てよう♪

島崎城跡を守る会 副会長 長谷川幸雄