平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。
2.島崎城はいつ頃築城されたか?
では、島崎城はいつ頃築かれたのかというと、江戸時代でいうところの一番の中心、「本丸」にあたる所の「一の曲輪」が発掘された資料の中に、15世紀の中頃の物が含まれています。
15世紀の中頃というのは、ちょうど関東地方が、戦国時代に突入する時期でもあります。京都に、「室町幕府」というのが当時はありましたけれど、関東を治めるにあたって、一番最初に武家政権が営まれた、鎌倉時代の「鎌倉」を室町幕府も重要視します。
そこで,関東を治めるために「鎌倉府」というものを置きます。室町幕府が「本社」ならば、言わば「支社」みたいなものです。ただ、その支社は重要な支社でありまして、そこの長官には、足利将軍家の血を引く一族を任命します。そして補佐役として、関東管領(かんれい)というものを置きます。ちょうど、15世紀の中頃の鎌倉公方(くぼう)は、足利成氏(しげうじ)という人物で、関東管領は上杉憲忠(のりただ)という人物です。
この二人が争うようになってきて、とうとう戦争状態に入ります。そして関東は二者に分かれて、合い戦う戦乱の時代へ突入していきます。これを「享徳の乱」といいます。この時期の島崎氏の当主は誰かというと重幹と言います。島崎氏は鎌倉公方足利成氏に従っております。
結果、足利成氏は、鎌倉から茨城の古河に根拠を動かして、「古河公方」と呼ばれるようになり、島崎氏はそれに付き従って行動します。成氏からみると、島崎氏は「俺の為に良く頑張ってくれたなあ、かわいい奴め、褒美をやるよ、俺の名前から一文字やるよ、名乗っていいぞ。」大変名誉な事でこれを「通り名」とか「諱(いみな)」と呼びます。古河公方から一文字「成」を貰っている島崎氏、そういう風に結びつきが強い。戦乱の世の中で、戦が多くなってくるので島崎城も築かれていくのではないか考えるわけです。
そして、それを示すように、出土品もその時代の物が見られるようになってきます。
ちょっとしばらくした、15世紀の後半になると、大台城の西出城で痕跡が確認されます。どうやら、15世紀の後半に西出城は砦として築かれたみたいです。
その時に出土した常滑焼、貯蔵用に用いる甕(かめ)、そういったものが出ております。では、この{西出城}はどの勢力が築いたのか?問題になるのですが、それを解く鍵は、西出城の構造にありました。
図6は、西出城の構造を分かりやすく作った図です。私が調査に入った頃は、南曲輪かすっぽりと削られて分からない状態でした。基本的に「北曲輪」と言われる独立した一つの空間、そして「南曲輪」と言われるもう一つの空間、これを繋いで機能していく。さらに、東側と西側すっぽりと切れ落ちていき、北側だけが緩やかな傾斜になっている。敵が攻めて来るとしたら、北側なのです。それを見越して西尾根と東尾根を派生させて、西尾根の先端には「物見台」という施設が置かれています。
敵が来た場合、迎撃する為に小規模な空間が用意されている。「わぁー」と来たら敵を囲い込むようにして殲滅していく。そういう様な、卓越した軍事思想が見えてきます。その、西出城から北を眺めたのがこの写真(大台城西出城から臨む長山城)です。
私が西出城の調査をやっている時に、上から長山城を見るのが大好きでした。
気分は「戦国武将」ですよ。一緒に調査に参加したおじちゃん、おばちゃん達からすれば「また、うちの先生は戦国武将になったみたいだ。仕事してよ」と思っていたのかも知れません。
ここに立って、実際その空気を吸って見てみると、「この西出城は何の為に築かれて、そして何を考えていたのか?」ということが、おぼろげながら見えてきます。
これを見ると、まさに西出城は長山氏との闘い、攻撃、そういったものを意識しているものだ、とそういう風に認識できます。
ということは、西出城は島崎氏が造ったものだと考えるのが自然です。じゃあ、島崎氏の誰が作ったのか。「長国」という人物が衝突の時期に当たります。
この「島崎長国」という人物は、文武両道に秀でた、「島崎氏中興の祖」と言われる英傑でありまして、長国寺の創建としても知られている人物です。一枚目の系図の所に長国氏の絵です。颯爽と馬に乗った姿が伝えられています。
それから少し時期を下りますと、16世紀に入りますと、どうやら大台城の西出城ではお城が少し増強されたみたいです。
お城の一番重要な部分を「虎口(こぐち)」といいます。その「虎口」が版築といって質の違う土を突き固めて頑強に造る、そういう工法があります。それを使って増強されているのが、発掘調査で分かってきました。島崎長国の息子の安国の時期にあたっているんですね。
ですから、長山氏との間に軍事的な緊張状態がそこには出来ていた、ということが言えるかと思います。
そして息子の安国氏は、太平2年(1522年)に、永山の日吉山王神社の祭礼の夜の宴会の最中に、島崎勢は夜陰に紛れて境にあった川を越して、長山城を奇襲攻撃して滅ぼしたと伝えられています。
宴会の最中に、お酒を飲んでいて長山城が落城しますので、長山城のことを「いっぺい城」、更に境の川を「夜越川(よろこしがわ)」となったと伝えられています。
その辺の真偽は分かりませんけど、この太平2年を境にして、西出城では焼き物が出なくなります。
ですから、おそらく長山城を奪取したことで、戦線が北西に押し上げられて、西出城の機能も、せいぜい見張り番を置く程度に変化したと思われます。
一方、長山城を見ますと、中心部が残されています。生活をしていたと思われる所は、その北側ですが、そこは残念ながら工業団地※かすみ運動公園※となって失われてしまっております。
中心部の構造を見ますと、二つの独立した空間を並列させて、機能させている状況が読み取れます。
先程言った。西出城と「グランドプラン」は同じ様な風に私は見ております。
長山城は、結構、部分的に見ると複雑に造ってあるので、戦国時代の後半以降、改修を受けたという意見もあります。
しかし、先程のプランを見ると、意外と古いのかも知れません。長山氏を滅ぼした16世紀の前半に、島崎氏が手を入れている可能性もあるのかなと思います。
あるいは、この辺のお城の造り方が、二つの並列した空間を持って来るのが好きだったのか。その辺については、今後への課題かなと思います。⇒つづく