島崎義幹太郎左衛門尉と佐竹氏の考証(寄稿文) 前編
(行方台地を奪いあった強者の終焉)
茨城県神栖市在住の森田衛氏の投稿文「島崎城レポート」を紹介します。
はじめに
中世期の鹿行(鹿島・行方)の地域は、大部分が洪積台地で北浦と霞ヶ浦から延び出る無数のヤツ(浸食谷)によつて、複雑に刻みこまれて舌状台地を造り出した。
この時代、このような舌状の台地に城館を構える領主構想は非常に国内で多く見ら れる。これらの台地を城館の築城場所として選ぶ理由の一つには防御上の利点があるためだと思う。
そう考えると徳川家康の「江戸城」整備も江戸前島という日比谷入り江の舌状台地を 利用して築城された。現在では埋め立てが進み日比谷入り江の姿は消えている。
常陸国の鹿行地域は、そのような地形を舞台に、10世紀中期、平将門に象徴するように早くから武士団が形成され、その中でも桓武平氏系統の大嫁氏はその代表であった。
高望王(平氏)直系の平繁盛の子維幹(これもと)から始まり常陸国の次官名の大掾を名字として名乗っていた。そんな状況下(時代に)、常陸国(茨城県)南部の霞ヶ浦周辺の地には、俗に「南方三十三館」と呼ばれる大掾氏一族が集まり幡居した館が多く見られる。
平維幹(にれもと)が「大橡」という役職を受け常陸国を治め運営し始めた。
当時、国(県)には一番上の長官にあたるのが「守(かみ)」、次官が「介(すけ)」そして二等官が「(じょう)」 四等官が「左官 (さかん)」と四階級に階級が大きくわけられていた。
これだけで考えると、大橡職は二等官の低い地位のように思えるが、常陸国の場合、 国府は石岡にあり、そこには通常「守(かみ)」が居なければならないのだが、常陸の国は親王人国といって天皇の息子が長官につくことが慣わしになっていたようだが、理由は解らないが実際は天皇の子息は常陸国には来ることはなかった。
この辺りの事情も理解できる。
更に、次官の「介」も形骸化しており、実質この常陸の国を運営して切り盛りしているのが「大掾氏」という役職だった。その実質上の常陸国のトップにあたる役職に、代々、これ以降「名字」が「大掾氏」と呼ばれるようになり在地の支配者として地位と財力を欲しいがままに君臨し、戦国時代の終りまでこの地で勢力を張っていた。正確には茨城県北部の武将佐竹氏が豊臣秀吉から常陸国を安堵されるまでのことである。
その大縁氏から鹿行(ろっこう)地域 (現、鹿島市、行方市他)に土地を貰って「行方氏」 一族の子孫が分立していった。それが「南方三十三館」と言われる国衆達であった。
※中でも、行方地域で頭角を現したのが島崎氏⑦であり、鹿島郡地域で頭角を現したのが鹿島氏⑫であった。
行方氏 (島崎氏)の始まり
行方氏の祖は忠幹で、そして宗幹(景幹) 続き、島崎氏の祖は平・宗幹(行方氏)の次男(高幹)が行方郡牛堀町(現・潮来市)島崎郷の地に居住して島崎の祖となった。
父・宗幹は寿永3年(1184年)源義経軍に従い屋島(源平合戦)で戦死している。
島崎氏をはじめ鹿行地域の領主(行方四頭・鹿島氏)はすべて平氏(家)を祖先としているのだが、しかし、鹿行地域の武将}源義経(源氏)の軍に随行し平清盛(平氏)軍と対時したのであった。
佐竹氏と南方三十三館主が頼朝軍に随行した経緯
源頼朝は治承4年(1180年)、平清盛を討つため挙兵し関東で、まず覇権をねらった。千葉の上総介広常(平広常)などは平氏であったが頼朝に服従した。
次いで、常陸太田方面の奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を当時、支配していた常陸国北部の佐竹に頼朝は自分に従うように使者を出した。
こうして源頼朝は、東国武士団の帰属を図ったが、常睦国では源氏である佐竹隆義・秀義父子が平清盛に反旗を翻した。その結果、兄義政は大矢幡 (石岡市)の手前にて謀殺され、弟の佐竹秀義は頼朝の帰順勧告に従わずに金砂山城に立て篭もるのだが、頼 朝軍に攻められ落城し、源頼朝に帰順せざるを得なくなった。鹿島一郡に地盤を築いていた鹿島氏は、早い段階で頼朝方に転じてこれに従った。
平家の知行国であった常陸国の在庁官人を輩出していた常陸平氏は親平家の立場であったとみられ、鹿島政幹も多気義幹や下妻広幹、行方宗幹らとともに当初は平家(平清盛)方であったと見られているが、しかし、政幹は早い段階で源頼朝方に転じたため、養和元年(1181年)に源頼朝は鹿島政幹を鹿島社惣追捕使に任じた。また、政幹の息子である宗幹や他の板東平氏と共に郎党一千騎余をつけて鎌倉ヘ送り、頼朝軍に参加して宗幹は屋島の戦い(源平合戦)で戦死した。
日本の歴史の中では、この源氏と平氏が力を合わせて一緒に戦ったり、敵として相まみえたりしながら歴史が動いていった。本来、島崎氏のルーツは平清盛や平将門と同じ平氏一族のはず、なぜか当時、源頼朝に従軍し平清盛と戦う方向に舵を切った。
これを考えると、伊勢平氏の清盛と常陸平氏一族の戦いになり、「源平合戦」でなく「平平合戦 (平氏と平氏の戦い)」の様相が強くなってしまう。
平氏が平氏を倒し、源氏が平氏に身方をする。歴史の動きは、いつ何が動くのか予測不能であった。
源頼朝との関わりに関しては、常陸平氏の基盤の地(潮来)に、頼朝が文治元年(1185年)、武運長久を祈願して創建した長勝寺が造られたことに頼朝と潮来の関わりの強さが伺える。その後、長勝寺は水戸藩主水戸光囲が再建したと伝えられる。
行方四頭の誕生
常陸平氏・宗幹(行方氏)の長男「為(冩)幹」が小高に所領を貰い、三男の「家幹」 が麻生、四男「幹政」が玉造、そして潮来の島崎郷に次男の「高幹」が領地を貰って、それぞれの地名をとって、小高氏・麻生氏・玉造氏・島崎氏という「行方四頭」と言われる館が現れた。 その土地を貰って、そこに住み始めると、そこの土地の名前を名字にしたようだが、根っこは皆一緒だから一族間の結びつきは当初大事にされていた。島崎氏・鹿島氏系図を見ても解るようにその子孫には、「幹」という字「モト」が条前の一字に取り入れていった。 これを通り字といい、殆どが幹・幹・幹と付けば、これは同族だとわかる。
島崎城の誕生
島崎城の築城は建久2年(1191年 )頃ではないかと思われる。
初代 高幹(たかもと)一攻幹(まさもと)一長幹(ながもと)一
忠幹 (ただもと)一 時幹(ときもと)一頼幹(よりもと)一
高直(たかなお)―氏(幹(うじもと)一満幹(みつもと)一
重幹(しげもと)(利幹)一成幹(なるもと)一国幹(くにもと)一
長国(ながくに)一安国(やすくに)(忠幹)一利幹(としもと)(安幹)
氏幹(うじもと)(安利)一義幹(よしもと)(安定)17代まで。
第17代安定が、天正19年(1591年)佐竹氏により謀殺され
鹿行の地から消滅してしまった。鹿島城主、南方三十三館主も同様である
島崎氏はこの高幹を初代にして、約400年間にわたり行方(なめがた)の地で勢力を伸ばしていった。そして戦国時代の後半には行方の旗頭と呼ばれるまでに島崎氏は成長していった。ちょうど関東地方が戦国時代に突入する15世紀中頃、京都に、「室町幕府」が有ったが、関東を治めるにあたって、一番、最初に武家政権が営まれた鎌倉時代の「鎌倉」 を室町幕府も重要視していた。そこで、関東を治めるために「鎌倉府」というものを置いたとされる。室町幕府が「本部」とするなら、言わば「支部」みたいなものなのだが、ただ、その支部は重要な支部であって、そこの長官には足利将軍家の血を引く一族を任命した。そして補佐役として、関東管領というものが置かれた。
15世紀の中頃の鎌倉公方(くぼう)は、足利成氏(しげうじ)であり、関東管領は上杉憲忠(のりただ)であった。だが、次第にこの二人が争うようになってきて、とうとう戦争状態に入った。そして関東は二者に分かれて戦う戦乱の時代へ突入していった。(享徳の乱)
享徳の乱 (1455-1483)は、28年間断続的に続いた内乱。鎌倉公方・足利成氏が 関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し関東地方一円に拡大した。
結果、足利成氏は鎌倉から茨城の古河に根拠を移して「古河公方」と呼ばれるようになり、島崎氏はそれに付き従って行動するようになった。これまでは、比較的平穏な鹿行地域であったが、争う戦乱の時代へと突き進んで行く運命にさらさられることになる。
霞ヶ浦周辺の大嫁氏一族は、子から孫へと細胞分裂を繰り返し、版図を拡大したのだが、鎌倉時代の初期から数えて400年、戦乱興亡の戦国の世(西暦 1500年代)ともなると鹿行地区でも血族間同士の争いが起こり始めた。
大永2年(1522年)、14代城主・島崎安国は、永山の日吉曲王神社の祭礼の夜の宴会の最中に、夜陰に紛れて境にあった「境川(現、夜越川)」を越して同族の長山 (永山)城を奇襲攻撃して滅ぼしてしまった。
理由については定かではないが島崎氏は長山氏の存在が邪魔になり、抹殺の機会を伺っていたのであった。長山城に関しては「一べい城」伝説という伝説がこの地方にはある。(悲しい物語です。)
その後、戦国時代の16世紀に入ると、島崎氏は急速に勢力を拡大して行き、他氏を圧倒して行方地域最大の国人領主に成長して行った。
長山城の築城年代は定かではないが長山氏によって築かれたと思われる。
長山氏は大嫁氏の庶流行方氏の一族で、行方幹平の次男知幹与一次郎が行方郡・長山 村に住んで長山氏を称した事に始まると考えられる。
いずれにしても、島崎氏にとっては、「目の上のたんこぶ」だった長山氏を排除でき たということは島崎氏にとって大きな転換期になった。
これによって、島崎氏は外側に向けて進出することが可能になり、それに合致する かのように島崎城を拡張して行き、長山氏を滅ぼした2年後には島崎氏は代替わりを して、「利幹」が代を継ぐ(15代)のだが、ちょうどその時、隣の「鹿島氏(鹿島城)が内 紛状態になつており、そこ干渉して「安幹」は出兵している。
さらにその後、北方の小高氏と同族だった玉造氏が領地争いを始め、鹿行地方の国衆は二つに分かれて戦うようになり「唐ヶ崎合戦」というのが発生した。
その時、島崎氏は小高氏側に立って参戦している。 数百年間、兄弟一族が力を合わせて守ってきた行方台地であるが戦国末期に至っては残念ながら『行方台地を奪いあう強者』衆に変貌して行ってしまった。
唐ケ﨑合戦 :玉造氏と小高氏の所領をめぐる争いがおこり、紛争処理にあたった府中 大禄氏の処置に不満を持った小高氏は、小田氏に進通じて紛争を有り展開させようとした。小高氏には、下河辺氏・麻生氏・島並氏・島﨑氏・山田氏・武田氏等が味方し、唐ケ﨑、物見塚、大木戸へ押し寄せる。小田氏の軍勢も南野庄から渡船に小高城へ入る。
対して玉造氏には、手賀氏鳥名木氏等が味方し防戦する。また、府中大嫁氏からは弓削為宗が軍勢を率いて玉造に向かい、小川氏・芹沢氏等が後詰の役をするという状況であった。唐ケ﨑における戦闘がどれほどのものだったかは不明だが両軍の主力部隊が全面衝突したわけはなかった。対陣途中で小田氏の軍勢が急速帰陣したため決定的な勝敗をみないまま対陣が解かれ、形勢不利と見た小高氏は小田秀幹氏を頼って逃れ、島﨑氏は府中大掾氏に詫言を申し入れた。当面の解決策をして芹沢秀幹鮮小高城へ入り、行方氏を称して地域支配の任務にあたった。後、小高氏は芹沢秀幹に詫言を申し入れようやく小高城へ復帰した。 『旧、玉造町史』
茨城の中世文書に「鳥名本文書」とうものがあり、その中では「安国以来、島崎氏は地方を攻め取って勢いが盛んで、古河公方(当時の政治的に一番の権威)の制止もきかない。という内容が記されていると言う話が何かの書物で目にした。
鹿行地域も、戦国時代に入ると同族間の争いが更に活発になり、まさに「戦いの世」 ということになる。中央政権の影響を受けたのだろうか。?非常に残念な方向に鹿行 地方が動き出した事は間違いない。
ただそれは、島崎氏が外側に向けて軍事行動を起こして拡大した。ということに外ならいのか、それとも本家の大嫁氏の勢力が減退して常陸国の南方地域をコントロール 出来ない状況に来ている折りに島崎氏が鹿行地域で強大な力を身につけた結果から なのか、またまた、行方四頭(小高氏・麻生氏・玉造氏・島崎氏)と言われた領主達が、そ れぞれ「行方台地を奪いあう強者」に豹変して起こった結果なのか推測の範囲である。
そして、天正12年(1584年 )に、島崎氏は、行方郡中心部の麻生城主で、同族の 麻生氏をも滅ぼすのだが、麻生氏も、すんなり滅ぼされた訳ではなく霞ヶ浦対岸の稲 敷市には土岐氏(江戸崎城主)という有力な国衆がいて、城主・土岐治英に助けを求めたが力及ばずに落城し麻生氏は滅亡した。
島崎氏と大生 (鳳凰台城)氏
前述により常陸平氏一族が、小高氏、麻生氏、玉造氏、島崎氏等「行方四頭 」と言われる館が現れ、特に島崎氏が鹿行地域で強大な力を身につけたことを紹介してきたが、島崎氏15代利幹(としもと)(安幹)太郎左衛門尉大炊介の次男・利定が養子に出て、大生右衛門慰平長定の後の大生城(鳳凰台城)を継いでいる。 養父の大生長定と島崎利幹 は親戚の関係にあっため「利定」が大生家の養子となった。(大生左京亮平利定が大生家28代藩主となる。)
大生氏 (家)と大生神社
大生氏が行方郡(潮来市)大生の地に鳳凰台城と名付けた城を築いたのは、第14 代の大生八郎平玄幹 (はるもと)と思われ、この玄幹は、一説には鹿島二郎政幹の次男であるという説もある。 玄幹は寿永2年(1183年)源頼朝に奉仕して、頼朝の信頼を極め、大生神社 [武甕槌命 (タケミカヅチ)]を鎮座・崇拝し神社の一切の行事を「源頼朝」より命ぜられたとされる。
ここで興味深い事は、大生神社の祭神は「武甕槌命」であり、景雲2年(768年)の時、称徳天皇 ?)の病気の平癒祈願のため、大和の国(奈良県)に遷座してしいた「武甕槌命」を大同2年(807年)に大和国 《春日大社》より潮来市の大生郷に遷座し、その後、勅命により鹿嶋市に遷座され、その地名をとって鹿島神宮と称したとの言い伝えがある旨の記載が潮来市教育委員会の立てた案内板に記されていた。
また、大生神社は、行方地方では最古の社殿建造物であり文化財に指定されている。更に、この周辺には、大生古墳群(おおうこふんぐん)と呼ばれる古墳群が広がっていて古墳期から豪族が盤居していたことが伺え知れる。
その数は、前方後円墳・方墳・円墳など大小 110余基からなり県下最大規模を誇り、築造時期は古墳時代中期(5世紀)と見られる。
これらの古墳の被葬者は、大生神社の奉斎氏族のオフ氏(多氏・飯富氏)一族と見られている。また、各前方後円墳がいずれも大生神社または鹿島神宮を向いているという見方をする人もある。
一方、鹿島神官の祭神がタケミカヅチであると記した文献の初見は、『古語拾遺』 (807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也という記述である。
ただし『、延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」においても「鹿島坐健御賀豆智命」 と見えるが、この「春日祭祝詞」は春日大社の創建といわれる神護景雲 2年 (768年)までさかのぼるという説などもあるが、今回の学習目的は「島崎義幹太郎左衛門尉と佐 竹氏の考証」という目的で進めているため「祭神・武甕槌命」に関する件は次回以降の学習の課題としたい。
本題に戻り、第27代・大生右衛門慰平長定は、室町時代の応永23年(1416年 )に関東地方で起こった上杉禅秀の乱(前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱)に於いて戦死し、第 28代・大生左京亮平利定は、康正(こうしょう)年間 (1455年~1457年)の鎌倉騒動の際に戦死。
更に、第 29代・大生右衛門慰平清定は、両上杉家による抗争「長享の乱(山内顕定が扇谷定正)の家臣の領土に進撃」に参戦し戦死した。
第31代鳳凰台城主・定信は、島崎城が麻生城主に攻められた時に活躍し島崎城を守っている。
天正19年 (1591年)の行方三十三館の仕置き事件が起こった時、大生弾正平定は 同じ常陸大嫁氏の流れをくむ一族ではあったが、時代の流れの中で佐竹氏の一族に列し、無印五本骨軍扇の家紋を受けるまでに佐竹義宣に信頼されていたため、その時代 (南方三十三館)に滅亡することなく大生郷の鳳凰台城主領地を安堵することが出来た。
しかし、慶長7年(1602年)佐竹義宣の国替えにより、大生氏も禄を失い先祖伝来の居城 (鳳凰台城)を自ら壊して一介の百姓として帰農したと伝えられるが、一説には徳川幕府、佐倉藩土井利勝の家臣となり、大生の姓では何かと不利に成りかねない事を考慮して一族は以後、大野の姓を名乗ったという。
島崎氏の郷土支配は城主17代 に及ぶが、室町から戦国期にかけての郷土に関し ては、俗称「大殿様」で知られる大生氏が島崎氏時代にその家臣として代々大生(おおう)の地を領し続け島崎氏滅亡後は徳川に仕えた。
水陸交通と幸に恵まれた行方台地
では、なぜ霞ヶ浦、北浦の沿岸に「南方三十三館」と言われるほどの城「館」が集まったかと言うと、古代常陸国はヤマト王権の影響を受けながらも、水睦の幸に恵まれた「常世の国」と称されていて住みやすい土地柄だったからであろう。
当時はまだ霞ヶ浦という呼称はなく、水域ごとに香歎の海、行方の流海、佐我の流海、信太の流海などと呼ばれていた。
産業革命以前の社会において、人や物資の移動で主要な役割を果たしたのは、やはり水運であった。河川や湖沼などは、人と人、物と物を結びつけていた。
関東地方での内陸の水運は現代入が想像する以上に発達し、それらがうまく運用されていたようだ。江戸時代は、東北の諸大名と江戸を結ぶ東回りの航路は銚子沖を通 り、房総半島をぐるりと回わる必要があり、風待ちや海流の関係もあり多くの困難と犠牲を伴うものであった。
それでこれに変わるコースとして那珂湊(なかみなと》または銚子湊まで運ぱれた物資を、川舟に切り替えて北浦・霞ヶ浦を経て、内陸部の大小の河川づたいに江戸まで運ぶコースがあった。
当時、これらの河川舟運は「奥川廻し」といわれ、外洋コースよりもはるかに有利であったため大いに利用されていたようである。
逆に、これらの河川は人を物理的に隔て、隔てられた地域では独自の地域的文化を育ませせる一面を持っている。(外圧を受けにくいため独自の国造りが可能)そのことが、常陸国南部の「南方三十三館」が存在し発展した理由なのかも知れない。
さらに、大生神社や鹿島神宮はヤマト王権の東国開発の祭神として位置づけられ、 常陸国は陸奥平定の重要な拠点だった。当時の東海道は霞ヶ浦周辺の陸路、水路を経て国府(現、石岡市)に達して陸奥方面に向けての交通や荷物の運搬手段として重要な役割を果たしていた。
それらのことから、霞ヶ浦沿岸の人々は各地の津に拠り、漁労、水運による商い、湿 田農業に勤しむ一方、中央と地方の権力(常陸平氏や在地武士団)や香取神宮、鹿島神宮による複雑な支配を受けながらも、課税根拠や住民移動の規制が弱かったことから豊かな暮らしを営み自由でのびのびした気風を培っていた。
当時は中央の統治権力が東国に及びにくい地政学的背景があるものの、平将門の 乱、関東管領の上杉氏や北条氏の支配、小田氏や佐竹氏の台頭、南北朝期の争乱、戦国期を経て、天下統一への過程で常陸国・霞ヶ浦周辺(鹿島・行方地域)も次第に騒乱の渦に巻き込まれて行くにつれて強大な外部圧力に屈せざるを得なくなった。
そして、400年間に渡って繁栄した「南方三十三館」の国衆たちも霞ヶ浦の湖面の 泡のごとく行方台地から消えていく悲痛な運命が到来した。
常陸国北部の源氏、佐竹氏の存在
常陸国南部の豊かな土地で繁栄を続けた鹿島・行方地域に大きく影響を及ばした常陸国(茨城県)北部の大名「佐竹氏」についても触れて置かなければならない。
ところで単純な質問となるが、徳川幕府の成立以前、関東の戦国大名は聞かれると、 北条氏(北条早雲)、上杉謙信、武田信玄、南奥の伊達政宗などの常陸国外縁部にルーツを持ち関東に出兵を繰り返してきた戦国武将の名を耳にする。
なぜ、本来の関東(茨城県)の武将の名がパット頭に浮かばないのか、考えられるの は知名度のある武将がいなかった。?または、戦国中期頃まで南関東の多くの地域は (小田氏、結城氏、宇都宮氏、小山氏、那須氏、新田氏)などが北条氏によって制圧されていた事が要因となったのだろうか。
しかし、東国(関東)に於いて北条氏に対抗出来た武将がいなかったかと言うと、実 はそういうことでもないと思える。誰かと言うと茨城県の北部を領していた河内源氏系の佐竹氏である。
豊巨秀吉の政権下では、54万 6千石の大名にまで取り入られた常陸国の佐竹氏だ。 佐竹氏が中央の権力と関係を密にしてくるのは、本能寺の変で倒れた織田信長に代わって豊臣秀吉が全国統一に乗り出した時期に、佐竹氏は秀吉との結びつきが強くなり佐竹氏の飛躍の基礎となり短期間とは言え北関東の大々名として君臨した。
中でも、佐竹義重・義宣親子の時代が佐竹氏を取り巻く情勢が特にめまぐるしく動 いた時期でもあり、佐竹家の全盛期と言えるであろう。
島崎氏・佐竹氏の連合協力体制
豊臣秀吉との結びつきがそれほど強くなかった時期の佐竹義重の活動原動力の特 徴は、連合勢力を主導して近隣の旧来の領主層(島崎氏他南方三十三館)等を糾合した勢力拡大の形を義重は形成していた。
これは、「勢力下」に入る、あるいは「影響下」に入る。と言う場合でも本勢力(佐竹氏)は、明確に他氏を家臣化したり、支配下に置くのではなく、それまでの島崎氏、小高氏、麻生氏、玉造氏、などの領主としてのあり方を許容した連合勢力として位置付ける手法であった。
この手法には利点と弱点があり、利点は、連合下の領主たちは、それぞれ独立した領 主としての性格や体面を保持し自立的な活動を行うことが出来る余地を残していた。そのため、勢力を比較的に拡大できる反面、連合勢力の結びつきには弱体な面(マイナス)もあつた。島崎氏を筆頭に「南方三十三館」の場合、佐竹氏との関係は連合勢力(同族的地縁共同体)の立場にあった。特に島崎氏の場合は、先に佐竹氏とは血縁関係もあり同族的地縁共同体的な立場が許されていた。そのため鹿行地区の国衆は自主性と自立を持ち行動し外部から干渉されることも少なかったのだが、この関係が続くのも秀吉の北条征伐の時期頃までであった。
新編常陸国誌の文の中で気になるのは、「各自立ノ志ヲ抱ケリ」の部分である。広辞林によると、自立とは「服従の関係を脱して自主の地位に立つこと」、自主とは「他の保護または干渉を受けず、自力で処理することができること」とある。
鹿島・行方の各館主達は皆がそのような考えを持ち、共に行動していたこどこなる。 「服従の関係を脱して他の保護または干渉を受けずに自力で処理していく状態とは、 あらゆる面で一個の独立した氏族(勢力)とみることができた。
佐竹氏にとって重要な時期
天正 17年(1589年)、豊臣秀吉の天下統一が翌年に迫った時期に佐竹氏の当主は 義重から義宣に家督が相続された。
しかも、佐竹氏をめぐる情勢は当時、容易ならざる折も折のことで奥羽の伊達政宗、 相模の北条氏直という強豪を腹背に受けて抗争中のことであった。
また同時に、中央の権力者の豊臣秀吉は、四国・九州を平定し残るは関東・東北のみとなったのだが、小田原に拠る北条「氏政」や「氏直」、東北には米沢城の伊達政宗、山形城の最上義光という武士団がいた。
さらに、この年(1589年)、佐竹義宣は秀吉から小田原征伐への出陣命令を受けていた。伊達政宗と対峙していたためにすぐに秀吉の命令に従える状況ではなかった。
豊臣秀吉による小 田原征伐
秀吉は、天正 15年 (1587年)「関東・奥羽惣無事令」を発し、大名間の争いを私的 なものとし、武力紛争の停止と平和的解決を関白政権にゆだねることを命じていた。 そして、秀吉は北条氏に氏政・氏直のいずれかの上洛を求めるのだが、北条は、上洛の要求に応えなかったことから秀吉との関係は更に悪化していった。
そんな中に沼田領問題が起こった。ここは信州上田城争いを本拠とする真田氏の 所領だったが北条氏の侵攻での場となった。
結局、秀吉が沼田城の三分の二は北条領、三分の一は真田領とする採決をして決着したにもかかわらず、この真田領の支城名胡桃城を氏政家臣が奪い取してしまった。
そこで、ここは真田氏にとっての墳墓の地であるとして徳川家康に訴え出た。
このことが秀吉に小田原征伐の絶好の口実を与えることとなってしまった。「関東・奥羽惣無事令」違反として、天正 18年(1590年)3月、秀吉は大軍を整え小田原に向かうことになった。
秀吉軍の約 18万の大軍に小田原を包囲され、約 100日に及ぶ籠城戦の後、小 田原城を開城 (7月)し北条氏は滅亡した。
常陸国内では、天正17年 (1589年)11月 28日 、佐竹義宣は、秀吉から小田原征伐への出陣命令を受けたが、当時、伊達政宗と対峙していたためにすぐに命令に従うことが出来ない状況下にあつた。
しかし、姻威の宇都宮国綱から急迫した情勢(秀古自らが京を出立したという知らせ)を受けて、奥州自河で政宗軍と戦い在職中の義宣であったが、矛を収め運命に係る決断をして小田原参陣へと態度を決めた。
佐竹氏は、翌年5月には宇都宮国網らを含めた 1万余の軍勢を率いて小田原ヘ 向かつた。同月25日、石田三成らに迎えられ、27日 、秀吉に謁し、危機一髪の難を逃れることが出来た。
「危機一髪の難」とは説明するに及ばず、秀吉の命令に背いて参陣しない場合どうなるか、その領地は没収されて没落させられる秀吉の怖さを佐竹氏も知っていた。
この佐竹軍勢の中に行方の島崎氏も参加し太刀一振り馬一頭を献上したとの記録 が残っている。島崎氏の参加理由には、霞ヶ浦を挟んで稲敷方面は北条の勢力下になり、島崎氏は防御に使える自然の砦、霞ヶ浦はあるものの敵対勢力と北条氏に圧力を掛けられていたため、やむなく佐竹氏に頼ったのかも知れない。
そのような事情も島崎側にあり佐竹氏と一緒に秀吉に拝謁に行ったのではないだろ うか。小田原参陣の佐竹氏傘下の常陸諸将の中には、佐竹一族の東・北・南と宍戸・真壁・畑田らの将が名を連ね秀吉方に太刀・馬・金などを献上している。
ところが、常陸南部を代表する、小田原氏治、大掾清幹、江戸重通等らの有力な豪族は、秀吉の動員令に姿をみせなかった。小田原包囲に先立ち北条氏が手を打って動誘したとか、家中統一が乱れ小田原参陣ができなかったという説もある。
そして、義宣は、石田三成指揮の下で忍城 (現・埼玉県行田市)を攻め、忍城水攻めの際の堤防構築にあたっている。
佐竹氏、従属を認められ・・・報償
小田原の役後、天正18年 (1590年 )、秀吉は、佐竹義宣に対し次のような朱印状を与えた。これは義宣に対して常陸国内での地位に確実な保証を与える重要な文書である。
常陸国並下野国之内所々、当知行分弐拾壱万六千七百五拾八貫文之事、 相添目録別紙令扶助之訖、然上者、義宣任覚悟、全可令領知者也。
天正十八年庚寅八月朔日 (朱印)(秀吉) 佐竹常陸助殿
上記朱印状により、佐竹義宜は、秀吉から常陸国と下野国の支配を認められた「当知行分21万6千7百 58貫文」(25万 5,800石 =佐竹義宣 11万 石、佐竹義重 1万石、 佐竹義久、1万石、与力家来分 12万 5,800石)を安堵された。
これは、佐竹氏領である常陸北部および旧小田氏領だけでなく、江戸氏や大嫁氏、更には、大嫁氏一族の島崎氏「南方三十三館」の領主たちの所領を含んでいたとみられる。
このことは、島崎氏他、行方・鹿島の両郡の国衆は自主性、自立性を持った独立した存在から、この時点から佐竹氏の配下という位置づけに変わった事を意味するものでもあった。
しかし、実態としては、秀吉から安堵された領国エリアに含まれる常陸大嫁氏「南方三十三館」、江戸氏、額田小野崎氏などは強固な自立性を保持する国衆が存在している状況に変わりはなかった。
これら高い自立性を保持した国衆達は、ときには佐竹氏に従い、ときには反旗を翻すなど、強固な自立性を保持して戦国時代まで生き抜いた行方国衆である。
さらに重要なことは、常睦大嫁氏、江戸氏の両氏が15世紀において佐竹本宗家の権力機構の中核に位置し領域権力として佐竹氏の動静に大きく影響を与えてきた存在であったが一夜にしてその立場(力関係)が逆転した。
佐竹氏にふりかかる軍役賦課
義宣が家督を継いで以降、佐竹氏をめぐる情勢は大きく転換した。統一政権に従 属することにより常陸国での存続を認められたのだが、それは同時に政権が要求する さまざまな責務を履行しなければならない立場に置かれたことである。
前項で説明記述のとおり、実態としては領国が統一されているわけでなく、佐竹氏 の安堵された領地内には、常陸大嫁氏「南方三十三館」、江戸氏、額田小野崎氏などは強固な自立性を保持する国衆が存在している状況で豊巨政権の要求へのすみやかな対応(軍役・資金面)は現実的に困難な状況にあった。
そういった中で、佐竹氏が即時の対応を求められたのが「軍役負担」つまり軍事動員への出兵であった。天正 19年には「九戸一揆」人戸政実の乱への対応として出兵で再度の奥州出兵を行った。更に、翌年文禄元年(1592年)には朝鮮出兵の動員指示を受け、これに義宣に対応している。 後編に続く
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