7月30日、潮来市内の鹿嶋吉田神社の祭礼が4年振りに開催されました。
鹿嶋吉田神社との関係につきましては、島崎氏由来記によりますと、宝永12年、神輿修造時の棟札に「応永廿癸巳嶋崎彦四郎殿夫婦二テ先年之神輿朽損ル故修造ス」と見える。潮来町史はこの彦四郎について、九代満幹の二男で、上杉兄禅秀の乱で兄大炊介重幹(太郎安定)とともに、鎌倉公方足利持氏に味方して、駿河国佐原で応永23年に討死した次郎重時と比定している。
「潮来と鹿島香取(大正7年発行)」には、吉田神社の神輿に嶋崎安定彦四郎夫婦寄進の棟札あり、安定は国幹の弟、嶋崎城主にして大炊介と称す。応永年中の人しなりとある。潮来町史の棟札写真には安定の名前は見えず。町史の比定が妥当か。
また、鹿嶋吉田神社由緒によると
鹿嶋明神は古代より吉高村の産土様であったが応永二十年(1413)島崎彦四郎公が御神輿を造営寄進された折り、此の時の御輿に大同元年(806)刻まれておった由、その后水戸義公(黄門様)の時代に村落合併事業があり、元禄九年洲崎村の産土諏訪神社(元延小敷地、現在日産営業所)を理由あってその祭神を変え現在の新宮地へ合わせ祀った。
下って明治十年(1877)制度改革され鹿島吉田神社と公称さらに制度改まり昭和二十一年宗教法人令に基づき神社本庁に届出。
更にまた昭和二十七年宗教法人法により神社本庁及び登記所へ登録登記された。(以上、由緒書より一部抜粋)
鹿嶋吉田神社の祭礼風景を紹介します。
島崎の殿様が古高村神輿を新たに寄進して下さった昔話が残っているようですし大平氏や柏崎氏、今泉氏、片岡氏、小島氏等が居を構えていたとされています。