「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

堀之内大台城址発掘調査  「現地説明会資料」」

2021-02-13 08:14:09 | 歴史

大台城址発掘調査 現地説明会資料   

昭和59年1月16日(月) 資料作成 西ヶ谷恭弘先生・玉井輝男先生・栗野俊之先生

 大台城址発掘調査団・茨城県牛堀町教育委員会  (調査期間 昭和58年11月14日~昭和59年1月17日)

 島崎堀之内城(大台城)の築城

天正19年(1591)島崎城にあった島崎氏を亡ぼした佐竹義宣が、行方・東北地方の平定に乗り出し、文禄4年(1595)から慶長元年(1596)頃に、小貫頼久に命じて当城を築いた。

小貫頼久は、佐竹氏三奉行の一人で、行方の蔵入地を支配し、その本拠として当城が利用された。

慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封で廃城となった。

従って、在城期間は7ヵ年と短い。出土遺構・遺物はこの年代を示す文化遺産として注目される。

 島崎堀之内城(大台城)の特色 ※当初、堀之内大台城は島崎堀之内城と呼ばれていた。

(1)関東で初めて見つかった主殿建築礎石と枯山水庭

●一曲輪で、枯山水庭に囲まれた台上に主殿(6間に3間)が検出され、九間の対面所と付属室が確認された。

●枯山水庭は、主殿を三方から囲む池(小砂と砂敷)汀線のテラス状遺構、貴人を迎えるための砂盛、踏脱石、枯池を隔てての推定四阿(あずまや)からなる。

(2)東国の城で初発見の墓石・石塔転用礎石群

主殿建築の礎石は、五輪塔・宝筐院塔・石塔・下総板碑石材が転用されている。畿内地方では、織田信長の二条城、明智光秀の福知山城、荒木村重の伊丹城に検出されている。

(3)戦国末期の優れた築城技術が結集

  • 土塁が12~15層以上の版築状であること。
  • 土塁上の塀が屏風折れであること。
  • 土塁外側に空堀をめぐらすかわりに犬走りを二段  設ける。
  • 優れた縄張(築城設計プラン)であること。
  • 枡形・喰い違いの虎口など、城門の出入口が厳重であること。

(4)大規模な城門・廊下橋(推定)が存在した。

●一曲輪虎口からは、礎石5個をもつ櫓門もしくは、大規模な藥医門が存在した。(雨落ち溝も検出)

●二曲輪南側堀切の底の砂岩層からは、60~80cm四方の4個の橋脚が出土、礎石上は長屋状の橋台と思われるテラスが検出された。

(5)天守建築相当の櫓建築柱穴と礎石が検出。

●一曲輪東南土塁コーナーからは、建築的な土塁壁面と櫓台が検出され、城内側三層、城外二層造りの天守相当の櫓跡が確認された。

(6)二曲輪からは古墳時代の集落が検出。

●二曲輪台上からは、城郭遺構の下方から、古墳時代の5棟以上の住居址が検出、各棟からはカマド・甕・土器が多く出土している。

 【まとめ】

この他、長屋状掘立建物(カマド含)や、溝状遺構が検出され、まさに日本城郭史上、最大級の発見となった。

 【主なる出土遺物】

永楽銭、古瀬戸陶片、古備前陶片、渡来磁器(染付・呉須)、鉄砲玉、鉄クギ、灯明皿、菊花文火鉢片、砥石、甕、鬼高式土器、カワラケ類、ほか多数。

 


「牛堀小学生城跡見学会」の実施

2021-02-11 08:18:16 | ボランティア活動

潮来市立牛堀小学生の島崎城跡見学会が実施されました。

令和3年2月10日午後2時より、潮来市立牛堀小学6年生35名の生徒と付き添いの先生が島崎城跡の見学に訪れました。昨年に引き続き「城跡見学会」に会員7名が案内と説明を行いました。

この機会を通じて、地元故郷の歴史に興味を持って頂き学校の「校歌」同様、語り継いでいって欲しいと願っています。

【旧八代小学校校歌】(牛堀小学校前身)

旗雲なびく島崎城に 歴史なつかし緑の丘よ ああ日の丸つけた宇宙船 銀河の彼方めざましく♪

【牛堀小学校校歌】

♪島崎城の城跡で 歴史の風と語り合い このとこしえの牛堀の 文化にふれるときめきよ 僕も私も故郷を 愛しむ心を育てよう♪

 

 

 

 


「お投げの松」物語 ~潮来市(旧牛堀町)の昔ばなし~

2021-02-10 08:43:58 | 歴史

「お投げの松」物語 ~潮来市(旧牛堀町)の昔ばなし~

400年も昔、牛堀がいくつもの村に分かれていた頃、島崎村の山の上にお城があった。そこは、前に夜越川、後に山々が連なった自然の要塞で、それはそれは立派な山城であった。殿さまの名前は、島崎左衛門尉、桓武平氏の流れを組む立派な武将で、たいそう領民から慕われていた名君であった。良く晴れた日のこと、殿様は家来を連れてお堀の外へ田んぼの様子を見に出かけた。まったく偉い殿様で、百姓に交じって草取りまでしていたという。

そんな時、きれいな白い蛇をみつけたお殿様は、もっと近くで見ようと思って、田んぼのあぜ道へ入ろうとした。すると一人の百姓が走り寄って来て「そっちに行くのは危ねえだ」「その蛇は神様の化身だ」と殿さまを止めた。白い蛇を諦めて殿さまが帰ろうとした時、沼地でうっかり足を取られてしまった殿様は、足元に蛇の群れが、うようよと気味悪くのた打ち回っているのが見えてビックリした。やっとのことで沼地から抜け出した殿さまが帰ろうとした、その時、突然家来に近づいて来た白い蛇があった。とっさに家来は、棒で突いて蛇を殺してしまった。その家来は二日後に訳の分からない熱にうなされ、苦しみもだえて死んでしまったそうだ。

1591年、とうとうこの島崎にも、豪族佐竹氏の兵が攻めてきた。この戦いで島崎氏は追い詰められ、最強を誇った島崎城に火の手が上がり次々と燃え落ちていった。

それを見ながら殿さまは、何故か家来の殺した白い蛇を思い出しひどく後悔した。そこで蛇を殺した場所の辺りめがけて、天守から一番殿さまが大切にしていた立派な盆栽の松を投げ落とした。

その後、殿さまは城と一緒に滅んだのだが、その盆栽の松はしっかり根付き大きな松に成長した。

しかし、誰もこの松を切ろうとする者もいなかった。ところが土地改良が行われ、松の周りが渇き田になってしまうと、今まで元気だったこの松も、とうとう枯れてしまった。

地元の人たちが枯れた松を切ってみると、まるで蛇が住んでいたかのように大きな室ができていたそうだ。 

今でも「白い蛇は神様の化身だから金輪際殺してはならない」とこの地方で言い伝えられている。(了)

「お投げの松」の場所

当時の松のスケッチ~昭和40年代に松食い虫の病気で枯れてしまい現在は3代目

 

現在の「お投げの松」画像


♪♪「島崎城跡保全活動応援ソング」の歌詞紹介♪♪

2021-02-06 08:19:43 | ボランティア活動

 

島崎城慕情 しまざきぼじょう 島崎城跡保全活動応援ソング

茨城県潮来市の地域ボランティア「島崎城跡を守る会」の活動応援ソング。

youtube#video

 

 

♪♪♪「島崎城跡保全活動応援ソング」の歌詞紹介♪♪♪

作詞家 高塚和美氏の島崎城跡関連の歌詞作品、三点を紹介します。

1.「島崎城址」

①果てなき戦(いくさ)に 刃(やいば)折れ   平氏はいずこも 敗れたり

この世の宿命(さだめ)に 朽(く)ちたとて   島崎城址よ 何思う

②時代は変われど 今もなお  左衛門播磨(はりま)の 夢の跡

曲輪や虎口を のぞき見て   鳶(とんび)がきれいな 輪を描く

③行方台地を 駈(か)けめぐり  勝ちどきあげたは 幻か

映えある栄華を 偲びつつ   島崎城址よ とこしえに

2.「島崎盛衰記」

①島崎城を たずねれば   曲輪の跡が よみがえる   桓武平氏を 祖とあおぎ

ここぞとばかりに 杭を打つ   ああ 高幹(たかもと) 左衛門尉よ

②にわかに起こる 時の声   騒ぐは鳥か せせらぎか   勝って兜の 緒を締めて

上戸のお寺に 名を残す   ああ 長国 郷土の誉れ

③瞼(まぶた)を閉じて 立たずめば   武士(もののふ)達が ひざまずくたとえ時代の 流れとて

討たれし主は 無念なり   ああ義幹(よしもと)  徳一丸よ 

3.「島崎城慕情(しまざきぼじょう)

①島崎城の 城跡は  風がそよいで 歴史を語る

高幹(たかもと)立ちて 成幹(なりもと)築く  曲輪に空堀 虎口を望む

この地はまさに 武士(もののふ)の夢

②戦に明けて また暮れて   馬を休ませ 兜を締める

昨日は鹿島 明日は麻生  島崎長国 左衛門尉は

上戸の寺に その名を残す

③哀れをさそう お手投げの  松は時代に 埋もれて眠る

儀幹(よしもと)お里 徳一丸の   無念の思いを 偲んではるか

香澄の里に 夕日が沈む

以上、三点の作品の中から③の「島崎城慕情(しまざきぼじょう)」が「島崎氏」の歴史や城主の名前を歌詞の中に表現されており、また「島崎城跡」のイメージにあっているとの理由により選ばれ、山口正光氏の作曲・編曲を依頼してこの作品が完成しました。

島崎城慕情(しまざきぼじょう)楽譜

 

「島崎城跡を守る会」の会員の愛唱歌として、島崎城跡の保全活動と共に末永く歌いつないでいって欲しいと願っています。

カラオケ版】

島崎城慕情カラオケ しまざきぼじょう カラオケ  島崎城跡保全活動の応援ソング

茨城県潮来市の地域ボランティア「島崎城跡を守る会」の活動応援ソング。

youtube#video

 

 

 


「堀之内大台城」の紹介 ~島崎城落城後に佐竹氏により築城された~

2021-02-03 15:46:09 | 歴史

堀之内大台城」の紹介 ~島崎城落城後に佐竹氏により築城された~

  文禄3年(1594)、佐竹領国にも太閤検地が実施され、翌年この結果に基づき豊臣秀吉から545,765石9升にのぼる“朱印状”が与えられた。これは当時全国8位にランクされる大名となった。このうち行方郡の総石高は26,371石である。これをもとに佐竹氏は、家臣に知行の割替えをし充行状を発給した。この時から行方郡南部は、重臣小貫大蔵丞頼久に委任され、大台城がその本拠となった。

 大台城の築城は文禄4年(1595)に開始され、慶長元年(1596)に完成した。完成までの数年は落城後の島崎城を改修して使用していたもので、発掘調査によると食料、武器が島崎城にそのまま放置され、数多くの五輪塔、宝篋印塔、板碑などが大台城の暗渠材等に転用されたようだ。

 落城から築城に至る空白の時期に、秀吉の朝鮮出兵がある。文禄元年(1592)、領国経営の中心地を太田城から水戸城へ移したので、佐竹氏にふさわしい城下町づくりが急務だった。

城郭の整備、邸宅づくり、家臣の屋敷の建築、商工業者の町割り、鍛冶や鑓造りなどの職人集めなどさまざまな新規事業に追われたことだろう。

 大台城は霞ケ浦に面し、行方台地の先端を占有し築城された。一曲輪を東南に二曲輪三曲輪が連郭され、周囲は版築の土塁と犬走りというテラスがめぐらされた。空堀などはないが、北側の二曲輪へ続く屋根には堀切が穿たれている。一曲輪の西側の凹地に囲まれた一面は、枯山水の庭園が営まれ、一段高い所は主殿であった。櫓、城門もあったが、大台城は東国においてはほかに類のない舶載青花、青磁、茶陶、瓦器をはじめ、鉄砲の部品と鉄砲玉などが出土している。

 佐竹氏にとって新領土とした鹿行地方に対しにらみをきかせようと、当時にあっては最新の技術を導入して築城、威圧を示すに充分な大台城であつた。しかし、慶長7年(1602)佐竹氏は秋田へ転封され、わずか7年間にして敢えなく幻影と化した。                                (ふるさと牛堀の歴史より)

※堀之内大台城跡は、現在、潮来市立牛堀中学校が建てられており、校門脇に大台城跡の記念碑が建てられております。

また、発掘調査で得られた史料をもとに、主殿が同じ茨城県坂東市にある「逆井城址」に復元されております。

堀之内大台城 一曲輪想定復元模型  (牛堀公民館蔵)

復元された堀之内大台城の主殿(逆井城)