「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「考古学からみた島崎氏と城郭」講演録2回目

2021-06-24 19:34:31 | 歴史

平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。

  1. 初代の高幹氏はどこに住んでいたのか?

資料の図7に「城館跡分布図」の1に島須の「島崎城」があり、その北方5の所に大生の所に「大生城(鳳凰城)」という城があります。そのすぐ側に「新城」というものがあります。潮来市と行方市の境に「鴨山城」という城があり、更に延方に「大平館」というのがあります。また、島崎城の西、正確には北西には「大台城」と一番西端に「大台城西出城」と呼ぶ城があります。さらに北西に進むと3の「長山城」というものがあり、出城を本城に加えますと、だいたい地域で6ケ所、行方との境界に立っている鴨山城をくわえますと7ケ所のお城の跡が知られています。

その内、実際に発掘調査が行われたのは、この島崎城と大台城、そして鴨山城ということです。資料の島崎城の写真は、南側から島崎城の一番大事な部分中心部を撮った写真になります。

島崎城は北から南へ半島状に突き出した台地上に築かれております。城域は宅地とか耕地になっておりますが、全体的には良い保存状態になっています。

根小屋地区とか古宿・芝宿・宿、そういった地名、城下集落を物語る地名が残されています。歴史学はもとより考古学・地理学さらに民俗学多方面に渡って注目される城郭遺跡です。

資料図3の嶋崎城の構造を見ますと、一番の中心部を台地の先端において、堀と土塁を見ることができます。

「土塁」というのは堀を掘ると土が出ます。その土を内側に積むことによって、防御力を高める、そういうものです。

それによって、順次区画をした「曲輪(くるわ)」をつくります。曲輪というのは堀とか土塁によって区画された守りたい空間のことです。それを繋げて行く構造です。

この中心部の中で比較的大きな空間がこの「三の曲輪」です。

この北側には深さが10m位の「大堀」と呼ばれる、大きな堀が今でも確認されています。その地を境として、南側が主な島崎城の住居で、その外側が「外郭」と呼ばれるところです。

ここでは、島崎城の「西出城」という所が構えられています。そういうような全体の構造です。外郭部をみますと、ちょうど外郭部は「古宿」という地名になっています。

「農村集落センター」があって、その裏には高さ2m位の土塁が残っていました。

一方、台地の裾を見ますと小規模なテラスがいくつか確認され、根小屋という地名が残っています。

そこには、家臣団の屋敷に充てられたのだろうと考えられております。

このお城に対して、一番最初に考古学的に調査されたのは、昭和43年の事です。

送電線の鉄塔の部分を調査されております。昭和61年以降、6回ほど歴史考古学者の西ヶ谷恭宏さんが、この中心部で部分的な調査を実施しています。

外郭部の方はと申しますと、道路建設に伴い発掘調査が4回程行われております。

図の内野遺跡は、今から22年前空から撮った写真です。

この部分を内野B遺跡として調査しております。その後、内野遺跡第2次、第3次、第4次として3回調査を進めて参りました。

 一方、「大台城」が発掘されております。

牛堀中学校をつくるために、昭和58年にやはり西ヶ谷先生により調査されております。図5の大台城のここの部分がお城の中心になり、江戸時代でいう所の「本丸」にあたります。この城の一番西端の部分に大台城の「西出城」があります。

この西出城を調査したのが私であります。その北に「北出城」があったということが分かってきております。

残念ながら学校の建設とその後の開発により、今は平地になっています。本日は、これらの発掘の成果というものに、文献史料で見ていきたいと思います。

最初のテーマの、初代島崎高幹はいったいどこに住んでいたのか?との疑問です。

あれ島崎城じゃないの?とおっしゃる方もおられると思います。

一般に、お城に領主が住むようになっていくのは、戦が多くなってきて大体15世紀に入る頃からです。

それまでは、館、いわゆる屋敷に住んでいて、有事の時にお城を作って、砦のようなものを作って立て籠る。そういう風にして使用する。つまり「生活」と「軍事」が切り離されていた訳です。

では、最初の頃の館ってどんな形でしょうか?ということですが、茨城県で調査発掘された、館と考えられるものを二つほど持って来てみました。

ひとつは、水戸市にある「白石遺跡」と龍ヶ崎にある「屋代B遺跡」です。

白石遺跡は東西約77m、南北80mの範囲を深さ20㎝の浅い溝で区画している。

そういう様相が分かっています。鎌倉時代から次の南北朝時代の初めの頃の館という風に考えられています。

一方、屋代B遺跡は、龍ヶ崎ニュータウンを建設する為に調査を行いまして、遺跡のほぼ全域が発掘されています。

つまり、全貌が明らかになっています。調査では「土器」とか国内で焼いた「陶器」とか出土しており、貿易で持ってきた物、海外で作られた物も多数出土しております。

この遺跡は、鎌倉時代から戦国時代の終りまで使われた、という事が分かって来ました。ただ、ずっと同じものを使い続けた訳ではありません。時期毎に姿を変えています。この、一番最初の段階、館の時代とも言えるでしょうか、図8と図9が館の図面です。屋代遺跡の堀の跡を描いているのですが、幅2.5m、深さ1.5mですから白石遺跡よりは、しっかりしたので囲い込まれております。そして規模が、だいたい東西90m、南北100m位になっておりますが、土塁は報告されておりません。

その代わりその側には、墓地が見つかっております。時期については、鎌倉時代の後半から南北朝の初めの頃に位置付けられています。この白石遺跡と屋代B遺跡は、ほぼ同時期に使われた、ということが分かります。お気づきかと思いますけど、上から見ると方形、四角に囲まれているのが特徴として見られます。

この時代の館の特徴として、茨城県ではこの様な特徴の建物が多いです。

では、島崎氏に話を戻しまして、島崎氏の館どこにあったのか?

当初、内野B遺跡を調査する時に、そこの地名は「古宿」と書いてあるんです。

じゃあ、ここにあるのではないの?で発掘しました。そうした所、鎌倉時代13世紀の「梅瓶(めいぴん)」の欠片が出てきました。皆さん、よく分からいのではないのかと思い、参考資料として「梅瓶」の形が分かる写真を持ってきました。

これは、鎌倉の今小路西遺跡という所で出土したものです。いわゆる「酒瓶」です。渦巻の文様がみることができます。ちょうど瓶の肩の部分にあたります。

じゃあ、島崎氏の最初の屋敷は、内野B遺跡の周辺にあったのか、そう簡単に話は進まないのです。出ているのはこれ一点でして、当時の建物の跡は見つかっておりません。また、この様な溝も確認されていません。この「梅瓶」というのは中国の景徳鎮(けいとくちん)という所で焼いた焼き物の可能性が高いのですが、「高級品」です。

鎌倉時代に外国で焼いたにしても、その時代だけではないのです。その後、武士のステイタスシンボル、これを持っていると偉い人物になれるというか、権威の表すものとして、その後の時代にはずっと飾られるものです。

ですから、これ一点発掘されたから鎌倉時代の遺跡だ、ということには残念ながらならない。物は違いますが、同じものが大台城の西出城でも発見されております。

じゃあ、西出城が島崎城の屋敷だと良いんですけど、今度大台城には13世紀の後半には、火葬の「お墓」がつくられています。

骨壺として作られた、常滑焼の甕(かめ)の欠片がでてきました。ですから、鎌倉時代の西出城では、「墓地」になっていた可能性があります。梅瓶というのは、お墓に収められた可能性があります。建物もありませんし、そのような状態です。残念ながら、今の段階で高幹がどこに住んだのか分かりません。そういうと、皆さんの中で「お前どうだろう。いい年をして分からないじゃすまないじゃないか。」と怒られるかもしれません。

これはあくまでも私の推測・想像の世界なのですが、この島崎城の中で気になる所があります。この古屋曲輪(こやくるわ)という今集落があるこの辺の一帯、あるいはその下の平坦な所が多い、「大構」この辺にひょっとしたら眠っていたのではないのか?と想像しています。

当然、地形に制約を受けますから、大きければ一辺が100m程度、小さければ60m程度の範囲を囲いこんだ、何かが最初にあってのではないかと推測します。

ただ、ここで大事な事がいえるのは、この島崎城周辺において、「梅瓶(めいぴん)」という、当時の貿易で持ってきた「高級品」を持てる人物が居た、というのは確実だと思います。⇒つづく

 


「考古学からみた島崎氏と城郭」講演録1回目

2021-06-24 06:54:31 | 歴史

平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。

はじめに

今から24年前の話ですが、今日の話の中心となります、島崎城の外側の部分の発掘調査を担当致しました。

私は遺跡の発掘調査、つまり考古学の調査を生業としておりまして、「お城が大好き」なんです。そして「国衆」と言いまして、戦国大名まではいかない、中規模の人々そういった勢力にすごく魅力を感じております。

この鹿行地方というのは、その国衆たちが割拠する、そういう地域の一つであります。その居城の一つを調査する訳ですから大変うれしく感じました。

調査は暑い夏に行ったのでが、充実した日々を過ごしたことを、昨日の事のように思い起します。そのご縁で、その後島崎城の外側で三回程、さらに、牛堀中学校の近くの大台城西出城、いわゆる砦の発掘調査を行っています。

その間、何回か講演をさせて頂いたり、当時の牛堀町史にあたる「ふるさと牛堀」に、「島崎城の想像図」そんなものを描かせて頂きました。ただですね、今日的な研究水準からみると、少し訂正をしなければいけない部分、考えなおさなければいけない部分も出て来ております。

さらに、長い月日が経ってきましたけれど、島崎氏あるいは島崎城の研究というものが残念ながら進化していない。周りにあまり知られていないということがあります。すごく寂しいし悲しいです。それは調査を担当した者として、私にも責任があるのかなあと思います。

ですから、興味のある人には一層興味を持ってもらう、興味のない人に興味を持ってもらえるような、一般の人に向けた島崎氏あるいは島崎城の歴史を、発信できたら良いかなあと思っていました。

そういった矢先に、今回のお話の機会を頂いたわけであります。そこで本日は、改めて資料を見直しながら、現時点で分かってきたことを整理しまして、当時の中世史の一旦を皆様にお伝えできればと思います。

本日は資料を配布しましたので、資料に基づき説明に入ります。

本日の島崎氏について、一つ質問いいですか?島崎氏ご存知の方、会場に何人くらいおりますか?(会場・挙手)

ああ、うれしいですね。大勢いますね。

さすが地元ですね、多くの方が知っていらしてありがたいです。

ここに、島崎氏と長山氏の系図をだしております。島崎氏の系図につきましては「島崎盛衰記」という軍記物語にあるのですが、その他いくつか知られております。

ここでは「新編常陸国史」という本をもとに書かれたもので、「ふるさと牛堀」に掲載された系図を中心に、話を進めて参ります。この島崎氏の系図につきましては、研究途上でして系図ごとに微妙に違います。

ただ、一貫していることは、桓武天皇の血を引いた平氏であるということ。「平氏」というと西の方という印象があるかも知れません。平安時代の終りに、平将門という人が反乱を起こします。それを鎮圧したのが平貞盛です。貞盛とその弟の重盛、この子孫が根を降ろしまして「常陸平氏」と呼ばれるようになっていきます。

ちなみに、何年か前に大河ドラマの主人公を努めた、有名な平清盛という人物がいます。この平清盛は貞盛の子孫でして、「伊勢平氏」と呼ばれます。私は千葉県に住んでおりまして、「千葉氏」が根を降ろしますが、この義文からの流れを受けております。

島崎氏の子孫の維幹が、茨城の「大掾(だいじょう)」という役職につきます。

大掾というのは国(県)には、一番上の長官にあたるのが「(かみ)」、次官が「(すけ)」そして三等官が「(じょう)」四等官が「左官(さかん)」と四階級に大きくわけられます。

なんだ、大掾になったって三等官じゃないかと皆さん思われるかも知れませんが、実は常陸の国の国府は石岡にあり、そこには守がおります。

ここ常陸の国は親王人国といって、天皇の息子が長官につくことになっています。

しかし、実際は茨城県には来ません。次官の介も形骸化しており、実質、この常陸の国を運営して茨城を切り盛りしているのが「大掾氏」という役職なのです。

その実質上の茨城県のトップにあたる役職に、代々、これ以降名字が大掾氏と呼ばれるようになり、戦国時代の終りまで勢力を張って行きます。

その大掾氏から行方、今の行方郡に土地を貰って「行方氏」というのが一族で分立していきます。

ちょうど、宗幹という人が源平の戦いで源義経とかが活躍して、平安時代から鎌倉時代の転換期の頃です。この息子の為幹が小高に所領を貰い、家幹が麻生、幹政が玉造そして潮来の島崎郷に高幹が領地を貰って、それぞれ地名をとって小高氏・麻生氏・玉造氏・島崎氏という家が起こってきます。資料をみてお気づきになると思いますが、皆、今の地名と同じです。

その土地を貰って、そこに住み始めるとそこの土地の名前を名字にしていく、根っこは皆一緒ですね。

だから、一族間の結びつきは大事にしていく。皆さん、幹(みき)という字が「もと」と言いますが、これを名前の一字に取り入れています。これを通り字というのですが、殆どが幹・幹・幹とついております。

そうすると、これは同族だなとわかる訳です。島崎氏はこの高幹を初代にして、約400年間勢力を伸ばして、そして戦国時代の後半には、行方の旗頭と呼ばれるまでに成長していきます。

今日のテーマはこの島崎氏を見ていくわけですが、

■初代の高幹さんはどこに住んだの?

■島崎城はいつ築かれたのか?

■島崎氏はどのようにして戦国時代を生き抜いたのか?

■城郭から見ると島崎氏はどう映るのか?

■島崎城の終りと言うのはどうなのか?

これを主なテーマとして見ていくことにしましょう。⇒次回につづく。

 

 

 


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