「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

【寄稿文】武士の時代を築いた源氏の考証  第四編(4/5 編構成)

2022-12-04 18:08:26 | 歴史
第 4 編第3編からの続きになります。(4/5 編構成)

 武士の時代を築いた源氏の考証 第4編
(源平の騒乱で活躍した東国武士団) 
令和 4年 10 月 30 日
 森田 衛 (神栖市) 

第 1 節 頼家と 13 人の合議制
第 2 節 北条氏と比企氏の対立
第 3 節 梶原景時一族の鎌倉追放
第 4 節 有力御家人の排斥と対立
第 5 節 阿野全成誅殺される
第 6 節 比企能員の滅亡
第 7 節 第2代将軍頼家の追放・暗殺
第 8 節 実朝の御台所選定
第 9 節 畠山重忠・重保親子の討伐
第 10 節[森田1] 第3代将軍源実朝
第 11 節 北条時政の失脚と隠遁
第 12 節 侍所別当・和田義盛挙兵(和田合戦)
第13 節 北条政子・義時体制
第 14 節 実朝の親王将軍と官職昇進
第 15 節 第3代将軍・実朝の猶子=善哉(法名は公暁)
第 16 節 将軍源実朝暗殺
第 17 節 源実朝の暗殺により京は大騒動
第 18 節 東国武士団が武家政権を樹立 ―――――――――――――――――――――――――――――――――― 

頼家と 13 人の合議制 
 13 人の合議制は、2代目将軍・頼家が18歳という若さで鎌倉将軍(鎌倉殿)となった ため、その補佐役として、また、将軍の独裁政治に走らないように監視をすりために北 条氏を中心に作られたのが集団指導「13 人の合議制」であり、必ずしも頼家が幕政か ら遠ざけられたものではなく宿老たちがそれぞれの経験にもとづいて幕政に関与したと理解するのが正しい。
基本的には頼朝晩年の政治方針を忠実に継承しようと考えら れる。

北条氏と比企氏の対立
 頼朝から重要され、頼家の乳母夫となった比企能員が頼家の権威・権力を背景に 勢力を伸長させた。能員の娘「若狭局」は頼家の妾として建久9年(1198 年)、「一幡 (いちまん)」という男児を産んだ。 
 一幡が生まれた翌年に頼朝は出家 し死去した。 頼家には他に、頼朝が決めた「辻殿 (つじどの)」という正室がいて、1200 年 次男「公暁(くぎょう)善哉」を産んでいた が、辻殿の父はすでに死んでいたた め、頼朝という後見人を失うと、途端に 立場が弱くなった。
 そこで、頼家と能員 は「一幡」を嫡子・後継者にする動きを 加速させた。 一方の北条は、頼朝の次男・千幡(後の 3 代鎌倉殿・源実朝)の乳母夫の家であり、 将軍(頼朝)の長男(頼家)と、そのまた長男(一幡)を擁した比企と、頼朝の次男(千幡 =実朝)を養育した北条が、次期将軍を誰に推すかで主導権を争うのは必然だった。 
北条氏と比企氏は源頼朝亡き後、鎌倉幕府の中核を担った御家人の両翼だが、 「両雄並び立たず」で激しい政争を繰り広げた。

 

梶原景時一族の鎌倉追放 
 平氏軍として活躍していた梶原景時は、治承4年(1180年)、石橋山の戦いで破れ た頼朝の命を助けた。(潜伏先の洞窟で頼朝を発見したが見ぬ振り)理由は定かでは ない。
 そして、壇ノ浦で行われた治承・寿永の乱の最後の戦いで、景時は土肥実平を 通じて頼朝に降伏し、翌養和元年(1181 年)正月に頼朝と対面して頼朝の御家人とな った。
 梶原景時は東国武士にまれな文武両方に秀でた人物で頼朝に重用され腹心と して、時には御家人粛清の実行に手を染めることもあったため、御家人からは常に恨 まれる立場であった。 
 2代目将軍・源頼家と有力御家人達との関係は順調とは言えなかった。
そして、13 人の合議制に名を連ねる「結城朝光」は「忠臣は二君に仕えずと言う。先代将軍(頼朝) を失ったときに出家すべきであったが、ご遺志によりそれが叶わなかったことが残念で ある」と嘆いた。
 この言葉を伝え聞き、梶原景時は激怒した。「忠臣は二君に仕えず」と 発言したのは現在の主君である源頼家への反意であるとして断罪を求めたとされる。 合議制の設立から半年後のことであった。 
 驚いた結城朝光は、三浦義澄の嫡男「三浦義村」に相談すると共に、13 人の合議 制に列する「和田義盛」をはじめとする御家人達に呼びかけ、今度は逆に頼朝の代か ら側近として重要された侍所長官の梶原景時に反発する御家人 66 名による連判状を 作成し梶原景時の排斥を求めて2代将軍・源頼家に提出した。 
 正治元年(1199年)、源頼家は梶原景時に連判状を見せて申し開きがあるかとの 問に梶原景時は一切の弁明を行わず、一族を連れて所領のある相模国一ノ宮へ退い た。このことが将軍家への讒言者(ざんげん)と映り、他の御家人に恨まれる立場になっ ていったことが悲劇だった。 
 景時は、元々その職務の立場から恨みを買いやすい立場でもあったが、御家人た ちの不満に火を付けて煽ったのは北条時政の娘で「実朝」の乳母である「阿波局」で あった。梶原景時は、頼朝時代は頼朝の憎まれ役として非常に有能であった。 
 謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を 救う事が出来ず、景時は鎌倉から追放されることが決まり景時の鎌倉にある屋敷は解 体された。 
 正治 2 年(1200 年)正月 20 日、梶原景時は京都に上洛するために一族を率いて相 模国一ノ宮を出立するが、その途上にある東海道の駿河国清見関(静岡県静岡市)付 近で、その場に居合わせた在地武士の「吉川友兼」や相模国の「飯田義家」らに見付 かり襲撃された。 
 この戦いで子の「梶原景茂」、「梶原景宗」、「梶原景則」らが討死。梶原景時と嫡男 の梶原景季、次男の梶原景高は後方の山へ引いて戦うが力及ばず討死した。 梶原景時が主君と仰いだ源頼朝の死から 1 年後の出来事で、鎌倉時代初期の天台 宗の僧・慈円は『愚管抄』で景時を死なせた事は頼家の失策であるとしている。 

有力御家人の排斥と対立 
 正治元年(1199年)、頼朝の死後、伊豆北条氏台頭の道筋が形成され始め、執権 北条氏による合議制への移行が開始された。
頼朝の時代は義経・範頼の粛清をはじ め甲斐源氏の打倒のように源氏一門が対象だったが、この時期になると頼朝時代の 功臣たちの有力御家人、鎌倉武士団の排斥が注目される。
 こうして見ると頼朝の時代 と2代目頼家の代になると鎌倉幕府内での御家人達の勢力圏に変化が見られる。 正治 2 年(1200 年)1月、梶原景時が滅ぼされ、その直後、北条時政より年長の三 浦義澄が病死、4月には安達盛長が死去したことにより武士の宿老が減りパワーバラ ンスが崩れはじめた。その結果、実朝の北条氏と頼家の乳母夫・比企氏との対立が表 面化してきた。 

阿野全成誅殺される 
 源頼朝の兄弟のうち、頼朝の死後まで生き残ったのが阿野全成(あのぜんじょう)ただ 一人であった。 北条氏と比企氏の対立は政権争いであり、その矛先が彼(全成)の身の上に頼朝の 死後に(景時滅亡から 3 年後、建仁 3 年(1203 年)、暗雲が漂いはじめた。
  阿野全成は、2代将軍・頼家に謀反を疑われて幽閉され、ついには殺害されてしま った。2代目将軍となった頼家が自らの乳母を務めた比企一族を重用し始め、弟の実 朝の乳母となった「阿波局」と、その夫・全成と、その背後勢力ともいえる北条氏共々を 頼家が危険視し始めたためであった。 
 北条時政の妻「牧の方(りく)」の企みにより、全成が頼家を追い落として実朝を擁立 することで、その後見人として北条の勢力を拡大することもできたからだ。 頼家はこれを恐れて、建仁 3 年 (1203 年)5月に全成を謀反人として 捕らえ、下野国へ流罪に処した。
 それ ばかりか宇都宮宗綱の四男・八田知 家に命じて全成を殺害した。 益子町(栃木県)の「大六天の森」に 「阿野全成の五輪塔」(墓)がある。 さらに、比企能員が「阿波局(全成の 妻/政子の妹)」を引き渡せと言って捕え に来たが政子は阿野全成が謀反など あるはずがない。
 たとえあったとしても女子に関わることではない。 そのため絶対に妹は引き渡さないと追い返した。そんな中で、7 月には全成の三男 の播磨公頼全(阿野頼全)が京都の東山延年寺で源仲章・佐々木定綱らが遣わした 在京御家人によって誅殺されてしまった。



比企能員の滅亡 
 阿野全成の殺害により、北条氏と比企氏の政権争いは急速に加速した。 千幡(実朝)の乳母は、北条政子の妹・阿波局であった。
これにより「頼家、一幡は 比企氏」、「千幡(実朝)は北条氏」という対立構図がはっきりと見えてきた。 
 頼朝の死後、幕政は頼家を戴く比企氏の勢力と、実朝を擁する北条氏の力が対立す ることにより、東国武士団(御家人達)は、過去に平氏に付くか源氏に付くかの選択に迫られたが、ここに来ても鎌倉の内部抗争により、比企氏か北条氏か両者のいずれか を選択しなければならなくなった。 
 比企氏は、藤原氏の流れをくむ豪族で武蔵国比企郡(現・埼玉県比企郡)を領し藤 原秀郷の末裔を称されることから、伊豆の小豪族の北条氏よりも当時の規模は大きか ったと思う。 
 建仁 3 年(1203 年)、阿野全成事件前の 3 月頃から体調不良が現れていた二代将 軍・頼家は、7 月半ば過ぎに急病を発症し月末には危篤状態に陥った。 まだ頼家が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「9 月 1 日に頼家が病死したの で、千幡(実朝)が跡を継いだ」との報告が 9 月 7 日早朝に都に届き、千幡の征夷大 将軍任命が要請されたことが、藤原定家の日記『明月記』の他、複数の京都側の記録 で確認されている。
 これを受けた朝廷は千幡を従五位下・征夷大将軍に補任した。 そして、10 月 8 日、北条時政邸において 12 歳で元服し、後鳥羽院の命名により、 千幡は「実朝」と改称した。都へのこの情報は北条時政が流したものであろう。
  将軍・頼家の身に何かあった場合、本来であれば長男の「一幡」にすべて相続され るべきものが千幡(実朝)と一幡の二人に分割されたのだった。
 そして、北条時政は、頼家の弟・「千幡(実朝(12 歳)」と頼家の子・「一幡(6歳)」の 二人に平等に将軍職を譲ることについて評議し決定してしまった。
 「吾妻鏡」 一幡が、日本国総守護と関東 28 か国の総地頭職となり、千幡(実朝)には関西 38 か国の地頭職を譲ると発表された。
 これは頼家にもまったく知らされておらず、頼家も 比企能員も北条氏による挑発として激怒した。 
 そこで、千幡(実朝)に譲られることに不満を抱いた比企能員が、千幡と北条氏討伐 を企てるのだが、その計画を知った北条時政は先手を打って、薬師如来像の供養(将 軍家の病平癒祈願)にと自邸に比企能員を呼び出して殺害してしまった。 
 更にその日のうちに兵を整えた北条軍は一幡の屋敷を攻めて比企一族を滅ぼし一 幡も焼死したとしての記述がる。「愚管抄」 
 この時、北条に身方したのは、小山、畠山、三浦、和田そして土肥と殆どの御家人 が加わったとされる。これは即ち御家人達が将軍・頼家を見放したということに他ならな い。2代・頼家による鎌倉政権の運営をよく思っていない御家人が多くいたと言える。 

第2代将軍頼家の追放・暗殺 
 一人残された頼家は多少なり病状が回復して比企氏の事件を知り、北条時政討伐 を御家人に命じるが従う御家人はなく、建仁3年(1203 年)9 月、頼家は鎌倉からの退 去を決定されて伊豆国修禅寺に護送された。 
 そして、翌年の文久元年(1204 年)7 月 18 日、北条氏の手兵によって殺害された。 (享年 21 歳没)

源実朝の御台所選定
 鎌倉3代将軍・実朝の御台所選定は、独走する北条時政の最初の躓きとなる。 元久元年 1204 年)10月14日、京都まで御台所を迎えに行く使節が晴れがましく上洛 の途についた。
 そのメンバーの中には時政・牧の方の愛息政範も含まれていた。 政範は若くして従五位下・左馬権助の官位を得ており、時政を当主とする北条家の 後継者だったと考えられる。
 この期待の愛息を、時政夫婦は名誉ある使節の一員とし て送り出した。この時期、北条小四郎義時は、江間荘の在地領主「江間小四郎義時」 と名乗っていたのかも知れない。 
 ところが、政範は旅の途上で病に倒れ、入洛はしたものの11月5日に、16歳の若さ で帰らぬ人になってしまった。その一週間後に、京都の平賀朝雅の邸で平賀朝雅と畠 山重保の口論が起こり、その話を聞いた「牧の方」は娘婿・平賀朝雅の肩を持ち一方 的に畠山重保を敵視するようになったとされる。 

畠山重忠・重保親子の討伐 
 畠山重忠・重保親子の討伐は、鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人 粛清の一つとされる事件で、その発端は上記の、久元年(1204 年)11 月、京都の平賀 朝雅の邸で、三代将軍・源実 朝の妻となる女性(坊門信清の 娘/後鳥羽院の従兄妹)を迎える ために上洛した御家人(条政 範・結城朝光・千葉常秀・畠 山重保)の歓迎の酒宴が朝雅 邸で催された席で、朝雅と重 保が口論となった件で、集ま っていた者がなだめたことで その場は収まった。 



 しかし、平賀朝雅の方は遺恨を残していて、畠山重保のことを恨みに思い、妻の母 である「牧の方(北条時政の後妻)」に讒言(ざんげん)した。 (『吾妻鏡』) その話を聞いた時政は息子の義時と時房を呼び畠山親子に謀反の疑いありとして、 その討滅について相談するも、これまでであれば時政の命令には黙って従っていた 息子 2 人であったが、この時ばかりは異を唱えたのであったが、時政は謀反の罪で畠 山氏一族を討滅することを決意して最後には義時も同意せざるを得なくなった。
 本編の中で何度も繰り返し記述しているが、原因は、酒席での朝雅と重保の口論が もととされているが、実際には時政と重忠には、もともと武蔵国の支配をめぐる対立が あったとも言われ、時政にとって武蔵国の畠山は邪魔な存在であった。 
 その結果、元久 2 年(1205 年)6月、早くから幕府を支えてきた有力御家人の「畠山 重忠」「畠山重保」親子は、北条時政から「鎌倉に異変。至急参上されたし。」という偽 りの知らせで自領の菅谷館(埼玉県嵐山町)から誘い出され、畠山重忠は菅谷館から鎌 倉へ向かう途中で北条義時が率いる幕府軍に二俣川(横浜市旭区)で待ち伏せの三 浦・和田の討伐軍に囲まれ壮烈な最期を遂げた。 
 この時、畠山重忠の弟や親類は皆、遠くの所領に行っており戦場に従ってきたのは 僅かに百数十騎ばかりであり、これを見れば重忠に謀反心があったということは虚言で あったことが一目瞭然であったと北条義時は長年にわたる交友を思い涙を流したとい う。
 義時は珍しく父・時政に対して感情を露わにしたが、父・時政は何も答えなかったと いう。そして、北条時政「妻・牧の方」の二人の野心は、息子・義時との対立を生み、結 果的には、自らの身を滅ぼしてしまうこととなる。 

第3代将軍源実朝 
 元久元年(1204 年)10 月、源実朝は 12 歳 で元服の儀式を済ませ、同年 12 月、京より後 鳥羽の従妹でもある後鳥羽の寵臣・坊門信清 の娘(西八条禅尼)を正室(御台所)に迎える。 
 『吾妻鏡』によれば、正室は初め足利義兼 の娘が考えられていたが、実朝は納得せず使 者を京に発し妻を求めた。しかし実朝はまだ 若く(12歳)、この決定は実際には時政と政子 の妥協の産物とする説もある。
  それは、実母(政子)は源実朝には武家の 棟梁にふさわしい有力御家人の娘を妻として 迎えようと考えていたようだ。



  有力御家人の比企家から妻を迎えた兄・頼家が御家人の勢力争いの末に殺された。 そのことから源実朝は武家とは関係ない公家から妻を迎えようと思っていたようだ。 
 更に、兄・頼家は父(頼朝)に倣って政治に係わろうとして殺されたため、元久 2 年 (1205 年)に将軍になったあとも、実朝は一切政治に係わろうとはしなかった。 

北条時政の失脚と隠遁 
 畠山重忠を無実の罪で滅亡させたことは北条時政にとっては比企氏滅亡に次ぐ二 つ目の失敗であった。時政と「妻・牧の方」は、御家人たちの間に広がる批判的空気を 感じて危険な施策をめぐらした。 
 それは、畠山氏滅亡から二ヶ月後、文久2年(1205 年)7 月、北条時政と「妻・牧の 方」は実朝を暗殺し、頼朝の猶子である平賀朝雅を新将軍として擁立しようと画策して いるとの風聞が流れた。
 それを知った政子は結城朝光、三浦義村などを時政邸に派 遣して実朝を義時邸に移し守護した。 政権を牛耳るためとはいえ時政と「牧の方」の 2 人が企てた計画はあまりにも強硬な 策で時政の実子北条政子や北条義時らによって阻止され、北条政子・北条義時姉弟 らの反感を招いて時政はそのまま失脚することになる。 
 二つ事件、①畠山重忠の乱②「3 代将軍・源実朝を滅ぼし、娘婿の平賀朝雅を将軍 に担ぎ上げる」の原因を作り出した「牧の方」もまた、北条時政の出家に伴って伊豆国 へ追放された。後ちに北条時政と離縁し京都の藤原家へ再嫁した娘を頼った。
 以後、 「牧の方」はそこで贅沢に暮らしたと伝えられる。 北条時政の妻「牧の方」は、鎌倉時代初期に書かれた史論書「愚管抄」や、「吾妻 鏡」にその名が登場する。
 牧氏のもとから北条氏へ嫁いだため「牧の方」と呼ばれてい る以外、詳しい本名は不明で、「牧の方」と北条時政は 20 歳以上も年齢差があったと 言われる。結婚した当時、「牧の方」は北条時政の娘北条政子とほとんど変わらない年 齢だったと見られている。 
 畠山の乱に端を発した牧氏事件で北条時政を更迭・追放したことにより、鎌倉幕府 は時政の専制政治から義時・政子姉弟主導による政治が継続された。 建永元年(1206 年)、幕府は、頼朝の恩賞地は大罪を除き没収しないとした。 

侍所別当・和田義盛挙兵(和田合戦)
 義盛は三浦氏嫡流だが、三浦郡和田郷に移り和田氏を名乗ったもので、三浦 本家は叔父の義澄、その子義村と継いでいた。 幕府草創以来の功臣、和田義盛だが北条義時の執拗な挑発に無骨な義盛はつい に挙兵した。
 和田と三浦が力を合わせれば北条を潰せると踏んだ義盛だった。 建保元年(1213年)2 月、北条義時を排除しようとする陰謀に加担したとして、三浦 義村の従兄弟でもある和田義盛の息子 2 人と甥の「和田胤長が捕縛された。 
 その後、息子達は赦免されるものの和田胤長が流罪に処せられたため、和田義盛 は親族の三浦一族などを身方に付けて打倒北条氏を決起しようとした。 
 ところが、和田義盛を待っていたのは、三浦義 村の裏切りだった。三浦義村は親族側に与すること なく和田義盛が挙兵したことを北条義時に知らせ御 所の護衛に就いた。 
 その結果、3 代将軍の源実朝を擁して多くの御家 人を集めた北条義時が勝利し和田氏は滅亡した。 侍所別当として御家人の頂点に立つ和田義盛に三 浦義村の屈折した気持ちはわからなかった。 
 いや義村はかなりの策士だったとも言われる。 「和田合戦」と言われるこの戦いで、義盛以下全 員が壮絶な討ち死にをし、和田氏は滅亡した。 この戦いで土肥、土屋ら頼朝旗揚げ以来の中村 党、和田氏に加勢し没落していった。 

北条政子・義時体制 
 和田義盛の死で欠員となった侍所別当に義時を当てた。北条にとって最強のライバ ル和田氏が滅び、将軍と執権が互いに信頼し合う協調関係が確立し北条政子・義時 体制はしばらく安定した。 
 義時が執権となっても専制に走らなかったため、父・時政のような御家人の不信感 を招くような行動を慎んでいて官人の大江広元や三善康信、三浦義村の協力を得な がら、しっかりと3代将軍・実朝を支えた。 

実朝の親王将軍と官職昇進 
 建保5年(1217年)、幕府は大きな問題を抱えていた。それは実朝の後継者問題で ある。すでに実朝は26歳になっていて御台所が鎌倉に下着してからでも12年以上の 歳月が経っているにもかかわらず二人に間には一人の実子も生まれていなかった。 
 しかも、通常の権力者と違い実朝には御台所以外に妾(側室)を持とうともしなかっ た。御台所は後鳥羽院の従兄弟妹であった為に後鳥羽に気を遣ったのだろうか。 
 さらに、実朝は、摂関家とほぼ同格の扱いを受ける自分と、後鳥羽院の従兄弟妹に あたる御台所の間に生まれた子でなければ後継将軍にふさわしくないと考えていた。 
 こうした手詰まりの状況を打開する策として、実朝が驚くべき構想を打ち出した。 後鳥羽院の親王を鎌倉に下してもらって将軍に立て、自分が補佐をするという「親王 将軍構想」である。
 実現するかどうかも定かではないが後鳥羽院の承諾を得られれば、後継将軍問題が解決するばかりでなく親王を推載することで幕府の権威は著しく増大 することになる。 
 そして、建保 6 年(1218 年)3月、政子・時房が鎌倉を発った。その後、大江広元 (旧中原)と二度に渡って使者を朝廷に派遣した。
 その結果、「親王将軍構想」を後鳥 羽院は快諾したのだが、実朝と御台所に男子が誕生すれば、あるいは実朝が殺害さ れれば、一気に破綻する危うい合意だったことも確かである。 
 さもなければ、実朝自身は歌道の世界に居場所を見つけ朝廷文化に憧れ、特に和 歌には尋常ではないほど傾倒して今までの武士にはない貴族の高い官位を受けようと した。
 そこには、自分(実朝)には子がないために武家源氏の政権は自分の代で絶え るだろうから、せめて高い官位を受けて家名を残そうとした。 華やかな朝廷文化に憧れ無骨な武家社会から抜け出そうとしていた。 
 北条氏は、執権義時の官位が「従四位下」(右京権大夫)という中流貴族程度の身 分であり、政子は頼朝の後家将軍の生母とはいえ、無位無官の尼に過ぎないし後鳥 羽との個人的繋がりもない。ところが、実朝は摂関家とほぼ同格、つまり最上流の貴族 と同等の身分である。 
 しかも、後鳥羽から実名と御台所を賜り、個人的にも友好・信頼関係を築いてきたた め、後鳥羽院は、親王将軍交渉の使者となった政子に従三位、さらに、従二位を授け た。また、義房には後鳥羽院主催の 鞠会への参入を許し時房の蹴鞠の 技量を賞賛したという。 
 実朝は、建保 6 年(1218 年)、権 大納言-左近大将-内大臣-右大臣 へと昇進した。1年以内でのこうした 昇進は驚異的であり平清盛が太政 大臣になったのとは次元の違う快挙 であった。 
 しかし、こうした親王将軍の擁立、実朝の驚異的な官職昇進に異を唱える人物がい た。それは頼家の遺児「公暁」であった。


 
第3代将軍・実朝の猶子=善哉(法名は公暁) 
 公暁(善哉)は、正治2年(1200 年)に生まれ、母は賀茂重長の娘で辻殿(正室)だ った。父の頼家には他に比企能員の娘「若狭局(側室)という妻もいた。 
 元久元年(1204 年)、4歳のときに父・頼家が殺され、翌年1205年(元久2年)12月 には祖母の北条政子の計らいで鶴岡八幡宮寺別当・尊暁の門弟となり、その翌年に は将軍・実朝の猶子(ゆうし)として結んだ親子関係となり、建歴元年(1211 年)、出家 して僧侶になり、近江国で修行したのち、健保5年(1217 年)6 月、政子の命で鎌倉に 戻り鶴岡八幡宮寺別当となった。 

将軍源実朝暗殺 
 3 代「鎌倉殿」実朝は、建保 6 年(1218 年)に待望の武士としては初めての「右大臣」 の官位を授与され、その大臣就任官位を祝う式典が建保 7 年(1219 年)1 月、鶴岡八 幡宮で挙行された。 
 実朝の右大臣拝賀式の実施に伴い、前年の左大将拝賀式の時と同様に後鳥羽院 はこれを強力に支援し再び華麗な牛車や装束が京から鎌倉へ運び込まれた。 
 そして今回は、前年参列した近臣たちよりさらに身分の高い従三位以上の位階を持 つ公卿5人も鎌倉へ派遣された。 
  ・坊門忠信(実朝御台所の兄) 
  ・西園寺実氏(源頼朝の妹の孫) 
  ・藤原国通(妻が北条時政・牧の方の娘) ・平光盛(平頼盛の三男で源頼朝の助命を行った池禅尼の孫) 
  ・難波宗長(難波流蹴鞠の祖。2代頼家とも蹴鞠を行った) 

 このようにそれぞれ幕府と縁のある人が京から鎌倉へ下され、彼らは拝賀式に箔を 付ける参列者だったが、後の惨劇の目撃者となり後鳥羽院に報告する役目を担うこと になってしまった。 
 そして事件が起こった。夜になり神拝を終え退出の最中「親の敵はかく討つぞ」と叫 ぶ公暁(20 歳)に襲われ実朝は落命した。
 享年 28 歳。 更に、源仲章を北条義時と誤認して殺害してしまった。 公暁が実朝を殺害した理由は親の仇討とされ、父・頼家は「比企の乱」により伊豆に幽 閉された後に殺されてしまったという経緯がある。
  頼家の将軍職の後を継いだのは実弟の「実朝」だったための事件と考えられる。 公暁は、事件前に有力御家人のひとり、三 浦義村に対し「我こそは東国の大将軍である、 その準備をせよ」という書状を持った使いを出 し犯行後、公暁は三浦義村を頼った。 
 義村は「お迎えの使者を差し上げます」と偽 り、一方で義村は北条義時に報告し、その後、 義時の指示に従い公暁を討ち取った。 
 「親の敵はかく討つぞ」という名目なのだが、 父・頼家が死んだとき公暁は5歳であった。 誰から教えられたのかは知れないが彼は父 を殺したのは実朝だと信じていたのであろう。 
 さらに、当事13歳だった実朝が頼家の暗殺 を命令するということは考えにくい事でもある。 (坂井孝一氏『源氏将軍断絶』より) 公暁をそう信じこませた黒幕がいたのではないかと言われ、頼家暗殺の15年後の 事件であった。 
 この事件は文献で様々に取りざたされ、「三浦義村が公暁をそそのかしての北条打 倒説」、「将軍親裁を強める実朝に対する北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀説」、「北条 義時が黒幕として公暁を操ったという説」、もしくは「公暁個人が野心家で実朝の跡目 としての将軍就任を狙った公暁単独犯行説」などなど数多くあるが、いずれも確証は なく真相は不明だとされている。 
 不思議なことに重要な幕閣でありながら三浦義村はこの日、なぜか拝賀式の列に加 わっていなく、また、この時、北条義時も急病で途中退席し難を逃れているという点で ある。 当初、北条義時は将軍・実朝の牛車のすぐ前にいたのだが八幡宮の楼門を入った 直後に太刀持ち役を「源仲章」と替わったため北条義時と誤認して源仲章が殺害され た。
 なぜこの場で太刀持ち役を代わったのか想像しがたい。 なお、公暁の墓は現存せず、墓所についての史料もなく、公暁がどこに葬られたの かは不明とされている。源実朝の首は何処に祀られているのかも不明で謎の多い事件 でもあった。
 


源実朝の暗殺により京は大騒動 
 源氏、最後の将軍(実朝)が暗殺されたとの知らせが京に届くと京の都は大騒動とな り軍兵が競い起こったと言う。
 それは、北条が源氏を滅ぼした。この上は北条打倒ある のみと騒ぎ始めたが後鳥羽上皇の禁制によって治まった。 
 一方、鎌倉の北条義時は京を警戒して義理の弟伊賀光季を京都守護に特派し、そ の上皇の動向を抑えるため大江親広(広元の長男)を重ねて守護に送っている。 

東国武士団が武家政権を樹立 
 こうして源氏・鎌倉将軍の嫡流はわずか三代で途絶えてしまった。平家は平清盛が 太政大臣に昇りつめて僅か 18 年で滅亡し、源氏の頼朝が、建久3年(1192 年)幕府を 開いて以降、3代将軍・実朝の死までの 27 年間で源氏宗家も滅亡し3代でその血は 絶えてしまうという武家による政権の短さを感じる。

 計り知れない政子の悲しみ 
 実朝を失った政子の怒りと悲しみは極限に達したことであろう。それも当然である。 長女(大姫)と次女(三幡)を病で亡くし、長男・頼家とその子(一幡)には、比企・北条の対 立から非業の死を迎えさせてしまった。 
 その上、右大臣という破格の地位に昇った自慢の次男・実朝が、後援してきた孫の 公暁に殺されたのであるから政子の悲しみは計り知れない。 
 こうして頼朝による源氏の鎌倉幕府は途絶え、将軍亡き後、将軍に代わって政治を 引き継いだのが執権の北条氏で、源頼朝の妻・北条政子の父、北条時政と北条時政 の息子の北条義時、この 2 人が鎌倉幕府の重要な役職に就いて、その後は執権の北 条氏(執権北条氏・鎌倉北条氏)が鎌倉幕府を存続させて鎌倉幕府自体は 150 年間 近く続いた。 

鎌倉時代(征夷将軍一覧) 
----------------------------------------------------------------- 
代数   氏 名   (父)           (母)               在職期間       没年 
 1. 源 頼朝    源 義朝   熱田大宮司季範娘   1192~1199   1199(源氏) 
 2. 源 頼家    源 頼朝   北条政子                 1202~1203   1204(源氏) 
 3. 源 実朝    源 頼朝   北条政子                 1203~1219   1219(源氏)
----------------------------------------------------------------- 
 4. 藤原頼経  九条道家  西園寺公経娘掄子 1226~1244   1256(貴族) 
 5. 藤原頼嗣  藤原頼経  藤原親能娘近子     1244~1252   1256(貴族)
 ----------------------------------------------------------------- 
 6. 宗尊親王  後嵯峨天皇  平 棟基娘棟子    1252~1266   1274(皇族) 
 7. 惟康親王  宗尊親王      近衛兼経娘宰子 1266~1289   1326(皇族) 
 8. 久明親王 後深草天皇   三条公親娘房子 1289~1308    1328(皇族)
 9. 守邦親王 久明親王       惟康親王娘        1308~1333    1333(皇族)
 ------------------------------------------------------------------ 
※以後、南北朝時代に入り、足利尊氏が征夷大将軍となる。
 



 ――――――――――――――――――――――――――――――――― 
1上総 広常 1183 年 誅殺
2 梶原景時 (頼家乳母夫) 1200 年 一族ごと殲滅 
3 三浦義澄 1200 年 病没(一族は宝治年間に殲滅 
4 安達盛長 (比企尼娘婿) 1200 年 病没(のち子孫が霜月騒動を起こす) 
5 比企能員 (頼家乳母夫) 1203 年 一族ごと殲滅
6 北条時政 (初代執権) 1205 年 追放(1215 年没) 
7 中原親能 (政所公事奉行) 1208 年 病没 
8 二階堂行政(政所執事) 没年不詳 歴史舞台から消えている。 
9 足立遠元 (盛長の甥) 没年不詳 1207年以降歴史舞台に出てこない。 
10 和田義盛 (侍所別当) 1213 年 和田合戦で一族ごと殲滅 
11 八田知家 (源義朝十男) 1218 年 病没 
12 三善康信 (問注所執事) 1221 年 病没 
13 江間(北条)義時 (時政嫡男) 1224 年 病没 
14 大江広元(政所別当) 1225 年 6 月 病没 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 

第 4 編 (完) 以降、「武士の時代を築いた源氏と平氏の考証」の第 5 編に続く・・・・・・。 

≪参考文献(引用文献)≫ 
・その後の東国武士団 :関 幸彦 
・鎌倉殿と執権北条氏 :坂井孝一 
・源氏と平氏 :渡邊 保 (明治大学教授) 
・源氏と坂東武士 : 野口 実 
・文藝春秋、ニッポン教育再生会議:出口治明、呉座勇一 
・文藝春秋記事 : 本郷和人(東京大学史料編纂所教授)、同、本郷恵子 
・源氏と平家の誕生 : 関裕二 
・月岡芳年『芳年武者无類 平相国清盛』国立国会図書館デジタルコレクション 
・平氏と源氏」の人物
・合戦がわかる本 (PHP 文庫) 
・ベネッセ 教育情報サイト 日本の歴史特集 : 門川 良平 
・源氏と平氏 (日本歴史新書):渡辺 保 
・鹿島市ホームページ:源頼朝の台頭と鹿島氏 
・保元・平治の乱関係図 世界の歴史マップ 
・家系図作成専門会社 家樹 : 田代 隆浩(画像) 
・Yahoo 画像引用 
・玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所資料 
・鎌倉殿と執権北条氏 : 坂井孝一 
・鋸南町ホームページ 
・フリー百科事典『(Wikipedia)』 
・一般財団法人 刀剣ワールド財団資料 
・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 
・比企一族の歴史 郷土学部 B班 :木村誠 ・吾妻鏡 :竹宮 恵子 
・オレたちの鎌倉殿 :西股総生 
・清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳 :濱田 浩一郎 
・鎌倉幕府で栄華「比企能員」の滅亡招いた"大誤算 :濱田 浩一郎 

   尚、「島崎城跡を守る会」の会員様の内部学習の基礎資料の一部にお役立てできれ ばと作成したものであり、筆者は、歴史専門家でもなく、自己学習の範囲のもので あるため、種々の文献やイラストを大きく引用させて戴いておりますこと、ご了承下 さい。また、内容に誤った記述がされている部分等につきましてもご了承下さい。 
令和4年 11 月 1 日 
森田 衛 (神栖市) 「源氏と平氏」 生涯学習レポートより 
「武士の時代を築いた源氏の考証」の第 5 編に続く・・・・・・

【寄稿文】武士の時代を築いた源氏の考証 第三編 (3/5 編構成)

2022-12-01 15:12:12 | 歴史
-第3編      第2編からの続きになります。 
令和 4年 10 月 25 日 森田 衛 (神栖市) 
生涯学習:源氏と平氏レポートより
武士の時代を築いた源氏の考証 第 3 編 
(源平の騒乱で活躍した東国武士団) 

第 1 節 源頼朝により鎌倉幕府の成立 
第 2 節 守護・地頭の設設置
第 3 節 頼朝と義経の対立 
第 4 節 義経襲撃と頼朝追討の宣旨 
第 5 節 こんどは義経追討の宣旨 
第 6 節 奥州合戦 
第 7 節 なぜ、源頼朝と義経兄弟は決裂してしまったのか?
第 8 節 坂東武者の結束により誕生した鎌倉幕府 
第 9 節 陰謀渦巻く鎌倉幕府 
第 10 節 亀の前事件
第 11 節 北条義時が鎌倉に残った理由 
第 12 節 北条政子は頼朝と並ぶ権力を持つ存在
第 13 節 源頼家(万寿)の誕生 
第 14 節 上総介広常の誅殺事件 
第 15 節 富士の巻き狩りと曾我兄弟の仇討ち 
第 16 節 謀反を疑われた源範頼 
第 17 節 未成熟な鎌倉政権・政策 
第 18 節 頼朝の幕府体制の変化 
第 19 節 大姫の入内問題と朝廷工作 
第 20 節 政子(尼御台)の悲願  
第 21 節 三左衛門(後藤基清、中原政経、小野義成)の変発生 
第 22 節 13 人の合議制 


源頼朝により鎌倉幕府の成立 
 治承4年(1180 年)12月、源頼朝は鎌倉に自身の邸宅となる「大倉御所」と御所の 西に十八間の広さを持つ「侍所」を設置した。 
侍所別当となった三浦氏一族の和田義盛が、頼朝の前で311名の武士たちの名前 を記帳する着到の義を行い、頼朝は鎌倉の主「鎌倉殿」となり武士達は「鎌倉殿」を主 君とする従者「御家人と」なった。
  頼朝は、寿永元年(1182 年)、伊勢神宮へ四海泰平、万民豊楽の願書を奉納した。 その中に「無事上洛を遂げ、朝敵を防ぎ、世務を後白河院に返す」という意味のこと を明文している。
 すでに院宣によって朝敵となった身であるのに、こう書き記す頼朝の 意志力は強力であったと言える。ちなみに、伊勢神宮では平家の報復を恐れて奉納 の品だけ受け願書は返した。 
 寿永2年(1183 年)には、朝廷より東国(関東)の支配権が認められ、文治元年 (1185 年)の「壇ノ浦の戦い」でついに平氏を滅ぼし武士の最高峰に上りつめた。 
 建久 3 年(1192 年)に、鎌倉幕府が開かれた」とされているが、これは、源頼朝が「征 夷大将軍」に任命されたのが建久 3 年(1192 年)だったために通説では、この年に鎌 倉幕府が開かれたとされている。 
 しかし、諸国の統治を行う「守護」、荘園や公領で税の取り立てをする「地頭(じとう)」 は、文治元年(1185 年「壇ノ浦の戦い、平家滅亡」)から置かれていたため、現在では、 頼朝による武家政権(鎌倉幕府)は文治元年(1185 年)に開かれていたと解釈されるこ ともある事も付け加えて置きたい。「イイクニ」なのか「イイハコ」なのか興味深い所です。 

守護・地頭の設置 
 平氏滅亡後,諸国では騒乱が多く、その度に東国武士を派遣して鎮定することは諸 国の疲弊につながった。そこで、文治元年(1185)年11月、源義経・源行家追討の院 宣を受けた頼朝は、両名の捜索を名目にして守護・地頭設置の権限の申請し、後白 河法皇から許可を得た。 
 このことにより、守護は国ごとに 1 人置かれ有力御家人が任命され頼朝の軍事・警 察権は全国的なものに拡大し土地管理・年貢徴収・治安維持にあたった。 頼朝はこの守護・地頭を設置することにより全国支配への布石を打つことが出来き、 貴族の政治から武士の政治への展開の第一歩であった。
  源義経・源行家追討の院宣を院から出させ、両名の捜索を名目にして全国各所に 守護・地頭を置いた頼朝は非常に賢い策士であった。しかし、自分の兄弟を追討の矛 先にするとは。

頼朝と義経の対立 
 平家の滅亡後、義経は建礼門院と守貞親王、それに捕虜を連れて京へ戻り、範頼 は九州に残って戦後の仕処理を行うことになった。 義経は京に凱旋し後白河法皇はこれを賞して義経とその配下の御家人たちを任官 させた。
 これを知った頼朝は激怒して頼朝の許可なく任官した者たちの東国への帰還 を禁じた。 さらに、九州に残っていた梶原景時から頼朝へ、平氏追討の戦いの最中の義経の 驕慢と専横を訴える書状が届き義経が平時忠の娘を娶ったことも知らされ頼朝はさら に激怒した。 
 文治元年(1185 年)5 月、命令に反して義経は宗盛・清宗父子を護送する名目で鎌 倉へ向かうが頼朝の指示で腰越にて足止めされてしまった。 そして宗盛父子のみが鎌倉へ送られ頼朝と対面することとなった。
 義経は、兄・頼朝 への手紙(腰越状)を書いて頼朝へ許しを乞うが、同年 6 月に宗盛父子とともに京へ追 い返されてしまった。宗盛・清宗父子は京への帰還途上の近江国で斬首された。  
 讒言を受けた義経が兄の頼朝との和解のため鎌倉に入るべく一時宿所とし兄・頼朝 への手紙を書いた寺が満福寺であった。その満福寺が「相模国腰越」にあったため、 この頼朝への手紙は後に「腰越状」と呼ばれるようになった。

義経襲撃と頼朝追討の宣旨 
 頼朝は京にいる義経を成敗するため、御家人達を召集しようとしたが名乗り出る者 がいなかった。その理由はいくつかあったのだろうが、まず、義経を討っても御家人が 恩賞として手に入る所領もなく、兄弟ケンカに興味が無く、へたに口を挟めば後々面 倒なことになると考えたのではないだろうか。  その折、土佐坊昌俊が進んで義経成敗を引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発 前、下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託し、頼朝は彼に下野国の中泉荘を 与えている。 
 昌俊は弟の三上弥六家季ら 83 騎の軍勢で、文治元年(1185年)10 月 9 日に鎌倉 を出発し、同月17日、義経の家人達が出払っていて手薄となっていた京の義経の館 「六条室町亭」を襲撃した。義経は佐藤忠信らを伴い自ら討って出て応戦し、後に、源 行家の軍勢も義経に加わり昌俊らは敗退した。  義経は直ぐに後白河法皇のもとへ走って行き、事の次第と無事であることを告げた。 敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが義経の郎党に捕らえられ、10 月 26 日、家人と 共に六条河原で梟首された。(『吾妻鏡』) 
 義経は襲撃翌日の 10 月 18 日に、「頼朝追討の宣旨」を後白河法皇から受け取る と、直ちに挙兵の準備を開始するのだが、思うように兵が集まらずに戦わずして総勢 200騎余りを引き連れて早朝に京を離れた。
 なぜ頼朝追討の宣旨を法皇が出したのか。 京を離れる際、木曾義仲の時とは違い略奪も火付けも一切無く、まことに美しき義経 の撤退であったと噂された。 

こんどは義経追討の宣旨 
 頼朝は、文治2年(1186年)11 月には、ほぼ朝廷を脅すような形で、こんどは源義 経追討の命を出させた。平家滅亡後の朝廷の力はすべて失われ、力のある武士団の 言いなりとなっていた。
 これは、木曾義仲と源頼朝の争いの時も同様で力の強い武士 団の言いなりとなり「追討宣旨」を乱発する朝廷となっていたことが目に見える。 信頼していた後白河法皇に裏切られた源義経は、失意のうちに没落して文治 3 年 (1187 年)奥州藤原氏(藤原秀衡)のもとへ逃れることになった。 
 源(木曾)義仲の場合は、法皇を攻撃し幽閉する暴挙に出て半分脅すような形で、 寿永 3 年(1184年)、朝廷から「征東(せいとう)大将軍(征夷大将軍と同格)」の官位を 受けた。ともかく当時は「むちゃくちゃ」な朝廷による政権であったというか、すっかり権 力を失った朝廷であった。

奥州合戦 
 藤原秀衡を頼った義経だが、義経が奥州入りした 9 ヵ月後の文治 3 年(1187 年)10 月に秀衡は死去してしまった。 
 翌、文治 4 年(1188年)2 月に、義経の奥州への潜伏が発覚すると、頼朝は朝廷か ら藤原氏に対して義経の追討宣旨を出させた。 藤原泰衡は父の遺命に従いこれを拒否し続けただ、業を煮やした頼朝は、文治 5 年(1189 年)、こんどは藤原泰衡追討宣旨の発給を朝廷に奏上した。 
 追討宣旨に驚いた泰衡は頼朝の圧力に屈して、同年 4 月、陸奥国衣川館の義経を 500 騎の兵で襲撃してしまった。 義経方は「武蔵坊弁慶」など、わずか 10~20 の兵で抵抗するが、ことごとく敗れ、義 経は泰衡を憎むことなく官軍(追討軍)に討たれるよりはと一切戦わずに、正室の「郷 御前(さとごぜん)」とその間に生まれた娘(4歳)を殺害した後に自害した。
  奥州には来るべきではなかった義経であり、壇ノ浦の戦いの活躍からわずか 4 年後 の出来事だった。義経享年 31 歳。 鎌倉の頼朝に義経の首を送り、これで奥州の平和は保たれると思った藤原泰衡だ が、頼朝の目的は奥州藤原氏を討つことそのものであった。
  頼朝より「長い間、義経を匿った」、「源頼朝の許可なく源義経の首を取った」という 理由で、同年(1189 年)7 月に頼朝は奥州藤原氏成敗の追討軍を向けた。 頼朝軍編成の千葉介常胤(東海道軍)は、道々身方を召集しながら宇太・行方・岩 城・岩崎を回って阿武隈川の湊を経て大手軍と合流した。  もう一方の比企能員(北陸道軍)は、同じく身方を集めて越後から出羽国・念種が関 に出て合戦する作戦であった。 頼朝率いる大手(畠山次郎重忠軍)は、白河の関を越えて中道(東山道)を進み、その総数、約 284,000 騎「吾妻鏡」の襲撃を受け栄華を誇った奥州藤原氏は滅びた。 
 奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、建久3 年(1192 年)、頼朝によって自害に追い 込まれた弟の義経と奥州藤原氏らの鎮 魂のため現在の鎌倉市二階堂に奥州平 泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを 模して永福寺(ようふくじ)建立した。 この寺院は、鶴岡八幡宮・勝長寿院と ともに頼朝の三大寺院と呼ばれた。 (復元想像図 鎌倉市歴史文化交流館)

 「治承・寿永の乱」で平家が滅び、源氏内の抵抗勢力であった木曽義仲・甲斐源 氏・武田(一条)忠頼・弟の源義経など力のある武将がすべて消えて行き、更に北の王 者・奥州藤原氏を討って、敵がいなくなった源頼朝は征夷大将軍に任命され、いよい よ武士の頂点へと上り詰めることができた。 

なぜ、源頼朝と義経兄弟は決裂してしまったのか? 
 平家を討ち滅ぼし源氏の時代を果たした頼朝と義経は、もともとこの二人は、兄弟と はいえ母が違い年も離れていた。 
 平治の乱(1159 年)で、父の義朝が敗死したとき、義経はまだ乳呑み児で、すぐに 鞍馬寺に預けられ、頼朝は伊豆に流され、別々の環境で育ち顔を合わせたこともなか った二人であった。 
 頼朝は地方武士たちの社会でもまれながら政治家として成長するが、身寄りのない 環境で育った義経は、どうも自己欲求が強かったようだ。 そんな義経は、軍事の天才ではあったが、政治的には無頓着でもあったようだ。 
 とくに無断任官問題は鎌倉政権の根幹に関わる重大案件であったにも関わらず義 経はこの問題に気付いていなかったのかも知れない。 そもそも、頼朝の権力基盤は御家人たちとの主従関係で結ばれていて、御家人とな った武士たちは頼朝に忠節を誓い、頼朝の命令によって動き、そして、敵を討ち滅ぼ したなら敵から奪った所領や財産を恩賞として頼朝から御家人に与えられた。 
 これが、頼朝と御家人の主従関係の基本だった。義経が朝廷からもらった「検非違 使(けびいし)」のような官位・官職も戦功に対する恩賞に与えする。 頼朝の御家人たちが朝廷から官職を貰うには頼朝の推挙が必要であった。頼朝 の許しも推挙もなく御家人たちが勝手に朝廷から褒美をもらって朝廷のために働くこと になったとすれば頼朝と御家人との主従関係が維持できなくなる。 
 残念だが義経には、こうした問題を察するだけの政治的感覚がなかったのかも知れ ない。たしかに義経は、天才軍略家であり平家を滅ぼすことができたのは義経の策に 負うところが大きいのは間違いない。 
 しかし、天才であるゆえに彼のすばやく鮮やかな判断には独断専行の傾向もあった。 一ノ谷・屋島・壇ノ浦と三度の大きな合戦で平家を破ったにもかかわらず、安徳天皇と 三種の神器を奪還するという政治戦略上の目的が達成できなかったのも、義経が軍 事的な勝機を優先したから起こったことなのかも知れない。 
 軍事の天才ではあるが、政治的感覚がにぶく自己欲求が強い。そんな義経は、頼 朝から見れば無謀で危険人物にしか見なされなかったのかも知れない。  こうした義経と頼朝との微妙な関係に、たくみにつけ込んだのが後白河法皇だった。 
 もともと自前で武力をもたない貴族社会は、武士たちを互いに競わせながら都合よく 利用することで権力を維持してきた朝廷であった。 
 後白河法皇は、平家(清盛)⇒木曽義仲⇒頼朝⇒行家⇒義経といった具合に取り 込み自分の立場のみを考えていた貴族社会であった。 政治的感覚がにぶく自己欲求の強い義経をちやほやしながら、頼朝との対立に持 ってゆくのはそれほど難しくはなかったに違いない。
  一方、歴史専門家の新しい考えとして義経は政治的感覚がにぶいのではなく、 頼 朝からの鎌倉召還を拒み、京都で後白河院と密着する義経の行動に頼朝が危機感を 抱いていたことが対立の要因ではないかとの説も出ている。 

坂東武者の結束により誕生した鎌倉幕府 
 治承4年(1180 年)、源頼朝は鎌倉に自身の邸宅となる「大倉御所」と、武家政治の 中心となる「侍所」を設置し、文治元年(1185年)、平氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉に幕 府を開き武家の頂点を極め、後に征夷大将軍となったが、7 年後、頼朝は、建久 9 年 (1198年)12 月 27 日、稲毛重成が内室追善供養にと始めた相模川の橋の落成記念 式典に出席した帰路に体調をくずして落馬し、翌年 1 月 13 日に 53 歳で亡くなった。 
 落馬が原因でこの世を去ったのだが、鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡(あずまか がみ)」からは、頼朝の死の前後の部分がごっそりと欠如していることから、北条家によ る暗殺説も根強くあるという。
 当時、戦場で駈け廻る武士がそう簡単に落馬などする事 はあり得ないとの見方をする。馬上で心筋梗塞、脳梗塞に襲われたのであれば別であ る。 強運とも言える頼朝の挙兵と坂東武者の結束により誕生した鎌倉幕府には、実はい ろいろな因縁、思惑が入り混じっていても不思議なことではなかった。  「貴種」とはいえ何も持たない流罪人の身から周りに担がれ、武家の棟梁として海千 山千の坂東武者たちを束ね、兄弟や御家人たちを猜疑心で粛清し続けた頼朝は何を思い描いていたのであろうか。
 鎌倉幕府ほど暗殺、陰謀の繰り返された政権はなかっ たのではないだろうか。それから見れば何が起こっても不思議ではない。 頼朝自身もそれに気がついていた。それは『玉葉集』に頼朝の詠んだ和歌が載って いる。 
 「偽りのことの葉しげき世にしあれば、思うといふも誠ならめや」 (偽りの言葉ばかりの世の中だから、あなたが私を信頼しますよと言っても、本当でしょ うか。) まさに頼朝の人生観を表しているような歌であった。 

陰謀渦巻く鎌倉幕府 
 日本の歴史上、鎌倉幕府ほど暗殺、陰謀の繰り返された政権は無いとされるが、も ともと源氏一族が親兄弟間で、血で血を洗う骨肉の争いをしてきた歴史があった。 
 治承 5 年(1181 年)に平清盛が病死。すると、源頼朝は軍勢を携えて「源義仲」を討 滅。平家追討(源平合戦)の功労者であるはずの異母弟の源義経が、兄頼朝に追放さ れた後に攻め滅ぼされ、もう一人の弟(異母弟)源範頼さえ、後に謀反の疑いで伊豆 修善寺に幽閉され梶原景時に攻められて亡くなっている。 
 源義経を匿い、勝手に義経の首を撥ねたとして奥州藤原氏をも頼朝の軍勢により 滅亡してしまった。 

亀の前事件 
 鎌倉幕府ができて、頼朝の妻(政子)の父である北条時政が重要視されたかというとそうでもなかった。
 治承 4 年(1180 年)の「富士川の戦い」以降、北条時政は一旦歴史 の表舞台からは降りたように見えた。 しかし一族の間では事件が起こり、寿永元年(1182 元年)、北条政子は自身にとっ て初めての男児となる「源頼家」を出産の際に事件が起こった。
 「亀の前事件」である。 このとき頼朝は愛妾の「亀の前」を伏見広綱の住居(逗子)に匿っていて、出産後こ の事実を継母の「牧の方」から知らされた北条政子は激怒し、牧の方の父・牧宗親に 命じて伏見広綱の家を破壊させてしまった。 
 亀の前は広綱に連れられ、命からがら鐙摺(葉山町)の大多和義久の宅へ逃れたと されるが、亀の前のその後は不明である。 亀の前は頼朝の伊豆国での流人暮らしの頃から仕えており、容貌すぐれて柔和な 性格で気に入られ、頼朝は寿永元年(1182 年)の春頃から密かに亀の前を鎌倉に呼 び寄せて寵愛していた。 
 この「亀の前事件」に怒った源頼朝は、牧宗親を叱り付け、牧宗親の髻(もとどり)を切 って辱めた。 これに対して、今度は北条時政(政子の父)が自身の舅である牧宗親への仕打ちに 怒って頼朝に反発し、頼朝のいる鎌倉から一族を率いて伊豆国へ引き上げてしまった。 
 このことに頼朝は大いにうろたえて北条時政の次男・北条義時だけは引き止めた。 そして事件の始末として北条政子の怒りを鎮めるために自ら「亀の前」を匿うよう命じ たにもかかわらず伏見広綱を遠江国(静岡県西部)へ追放した。 

北条義時が鎌倉に残った理由 
 このとき、義時は父に従わず、鎌倉に残留していたことから「我が子孫を護る者」とし て頼朝から激賞された。 この時、なぜか息子の義時は父(時政)に従わずに鎌倉(頼朝の元)に残ったのか は不明だが、義時(北条小四郎)は時政の後継者とはみなされておらず、江間(江間 四郎(義時))という別の名を名乗っていたことも要因とされる。
 頼朝から江間の領地の 支配権を受けたため江間を名乗っていたことから、義時は分家して江間の領地の支配 権を受けていたために本家と別の行動をとったのであろう。 

北条政子は頼朝と並ぶ権力を持つ存在 
 このような処罰を下さなければならなくなったのは紛れもなく頼朝の失態であり、また 北条政子が強い権限を持ち、源頼朝と並び立つほどの存在であったことを知ることが できる。
 そのような存在感があったからこそ、のちに北条政子は頼朝亡き後、尼将軍と して幕政を仕切り家臣である御家人達をまとめ上げることもできた。 
 この打ち壊し事件は、政子の既成概念にとらわれず女性が現実において果たして いる役割を堂々と権利として主張した初めての女性であり、日本史上初めてのウーマ ン・リブであった。
 したがって、公の場に於いてもそれは貫かれ、鎌倉の御家人達の妻 は夫の隣に公然と席を用意されるなど、京における女性の立場とはすでにはるかに違 っていた。 

源頼家(万寿)の誕生 
 寿永元年(1182 年)8 月、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で頼 家は生まれた。鎌倉入り 3 年目に待望の後継者男子として周囲の祝福を一身に受け ての誕生であった。 
 政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を 行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛(鶴岡八幡宮の参道、若宮大路のなか で、二の鳥居から鶴岡八幡宮までの車道より一段高い歩道。)を作り、頼朝が自ら監督 を行った。 
 頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母 には最初の乳付の儀式に比企尼の次女(河越重頼室)が呼ばれた。梶原景時の妻の他、 比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族関係から選ばれた。 
 頼家(万寿)は、18 歳で家督を相続し鎌倉幕府の第 2 代鎌倉殿、更に 3 年半後に征 夷大将軍となった。建久 9 年(1198 年)には長子の一幡が誕生している。 

上総介広常の誅殺事件 
 前述により、頼朝の挙兵と坂東武者の結束により誕生した鎌倉幕府には、いろいろ な因縁、思惑が入り混じっていた。そのため御家人となった彼ら同士の中でも、邪魔者 11 は、すぐに消される運命にあった。 
 最大の軍事力で頼朝の旗揚げに最も功労した上総介広常もその自負から不遜な ふるまいが目立っていたと言われている。
 上総介広常を、『吾妻鏡』治承 5 年(1181 年) 6 月 19 日条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振 る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼 をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で接したとある。 
 その結果、寿永 2 年(1183 年)12 月、 御家人の中には謀反の企てがあるとの根拠 もない噂がではじめて頼朝に疑いを掛けられてしまい、結果的に広常は頼朝の命を受 けた梶原景時によって討たれ誅殺された。
 広常の死後は、上総氏は所領を没収され 千葉氏や三浦氏などに分配された。 その後、広常の鎧の裏から願文が見つかるのだが、そこには謀反を思わせる文章 はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を抹殺したことを後悔し即 座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。 

〈広常の鎧の裏からの願文〉 
 「前兵衛佐殿下 心中祈願成就 東国泰平」とあった。前兵衛佐殿(すけどの)とは 頼朝のことで、広常は頼朝の大願成就と、東国の平和を祈っていたのである。 
 頼朝はどこまでも「冷徹な政治家」、広常は坂東武者の典型である「不器用で荒削り 者」元来、源頼朝にとっての最大の武力基盤であった上総介広常がかえってその権 力確立の妨害者となってはと危険視され謀殺に繋がったといえる。 
 しかし、これは序章に過ぎずに、鎌倉幕府成立の功労者(御家人)たちは、その後、 次々と悲劇の運命が待っていたのだった。 

富士の巻き狩りと曾我兄弟の仇討ち 
 巻き狩りは、建久 4 年(1193 年)5 月 15 日から 6 月 7 日までの間、征夷大将軍たる 権威を誇示するためや軍事演習などの目的で行われた。 
 また巻狩りが行われた藍沢と神野の地は駿河国と甲斐国の国境付近に位置し、さら に甲斐国から東海道へ到るための主要な通過地点であった。 こ
 のように甲斐源氏が東海道に到る際に使用される交通路を掌握する意図があっ たという指摘もされている。 この間の 5 月 28 日に曾我兄弟の仇討ちが発生した。
 曾我兄弟の仇討ちは、頼朝 が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経 12 を富士野にて討った事件で、「赤穂浪士の討ち入り」と「伊賀越えの仇討ち」に並ぶ、 日本三大仇討ちの一つとも言われる事件であった。 

謀反を疑われた源範頼 
 曾我兄弟の仇討ちで、現場は大混乱となり鎌倉への使者は「頼朝も嫡子頼家も命 を落とした」と誤報が伝えた。 それを聞いて気を失いそうになった北条政子に対し、頼朝の弟・範頼は「私がいるか ら大丈夫です。」と慰めたという。 
 しかし、この言葉に頼朝は範頼の謀反を疑い伊豆修禅寺へ流罪に処し、永代鎌倉 への帰参は許さずとの厳しい物であった。 『吾妻鏡』によると、 曽我兄弟の仇討ちから約2ヵ月が過ぎた 8 月2日、頼朝に謀反 の疑いを持たれてしまった範頼は誓の起請文を書いて頼朝に提出した。 
 だだ、起請文の署名が三河守源範頼となっていたため、頼朝は「源の文字を使うの は、源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」 として激怒した。 その報告を受けた範頼は、あわてふためいたという。  伊豆に流された範頼がどうなったのか『吾妻鏡』から知ることはできないが、伊豆国 の修禅寺に幽閉された後、間もなく梶原景時ら北条時政の軍勢により攻められて自刃 したのだと伝えられている。建久 4 年(1193 年) 曾我兄弟の仇討ちは「源頼朝暗殺計 画」だったという説も浮上する事件でもあった。 後に、これら一連の出来事について頼朝の娘・大姫は嘆き悲しんだと言われる。 
 頼朝の弟・範頼、従兄弟の木曾義仲、さらに義仲の息子・義高(11 歳)を騙し討ちに する父(頼朝)について「神仏を恐れぬ所業」をなさると嘆いた。木曾義高と大姫は許 嫁の中であったといが、実際には木曾義仲に謀反の心がない証しとして木曾義高は 人質として頼朝の館に来ていた。 

未成熟な鎌倉政権・政策 
 鎌倉幕府が開かれた初期は何もかもが手探り状態で実験的な政権とも言え、我々 現代人が想像するような「江戸幕府」というような完成形の幕府ではなく、未成熟な幕 府であったようだ。 
 頼朝が創った政権は全て真っ白な状態で、参考に出来るのは京都の朝廷だけであ ったから試行錯誤の武家政権であっても仕方が無い話でもある。 頼朝政権の前に、平清盛による武家政権はあったのだが、それは天皇を中心とした 貴族の身分制度の中に取り込まれた半官半民的な政権であった。 
 では、平清盛の政権と源頼朝による政権での環境的な違いは何かと言うと、京都(朝 廷)との距離であった。都から遠く離れた関東に本拠地を置くことで物理的に朝廷から の影響力を避ける事ができた。 
 そもそも、頼朝の権限が及ぶ範囲は、頼朝と個人的な主従関係を結んだ武士(御家 人)の土地のみで、当然、頼朝との主従関係にない武士団も全国に多くいて多くの土 地は皇族・貴族や寺社の支配下にあった。 
 鎌倉時代の頼朝と御家人の繋がりは、「御恩と奉公」という主従関係で出来上がっ た。御恩とは「将軍が御家人のこれまでの領地を認めたり、新たな土地を与えたりする こと」であり、奉公とは「御家人が将軍や幕府のために働くこと」だった。 
 いざ、戦(いくさ)ともなれば、御家人は将軍のために駆けつける。「一大事が起きたと き」という意味で使われる「いざ鎌倉」とはここから生まれた言葉で、戦乱の世にあって は自分の領地をいつ誰に奪われてしまう事態が起こっても不思議ではなかった。 土地を将軍から与えられるのは御家人にとってとても重要なことであった。 

頼朝の幕府体制の変化 
 乱世をかき乱すだけかき乱した、天狗と言われた後白河法皇は、建久 2 年(1191 年) の年も押し迫った年の暮れに床に伏した。そして翌年 3 月に崩御の時が来たのであっ た。
 源頼朝が「日本一乃大天狗」と評した策謀家として知られ、平清盛や頼朝と対立し たこの時代のキーマンの一人であった。(亨年66歳) 頼朝は法皇の死を待っていたように、一条能保からの飛脚により征夷大将軍を任命 する知らせが届いた。
 頼朝は建久 3 年(1192 年)に朝廷から征夷大将軍に任命された のであった。 頼朝は幕府体制をさらに整えるためには朝廷の力を上手く使うことが必要と考え、 晩年に自分の娘「大姫」を後鳥羽天皇の后とする朝廷工作に乗り出し、京都重視の姿 勢を鮮明にしている。 
 これらの体制作りは平家時代の政権と何ら変わらないものであり、その京都ばかり見 ている頼朝の行動が結果的に東国の御家人たちの不満へと繋がっていくことになった。 

大姫の入内問題と朝廷工作 
 建久6年(1195年)春、東大寺の大仏殿落慶供養に出席するため上洛した頼朝は、 妻の政子、長男の頼家、長女の大姫を伴っていた。 頼朝の家族一同を同伴しての上洛には、都雀(みやこすずめ)の見物客が多く集まり、 牛車を廻せないほどの賑わいをみせた。 
 頼朝の子供たちは、初めて見る大仏に目を輝かせ、京のかぐわしい文化の香りを夢 14 中でかいだに違いない。 この上洛の真の目的は、大姫を後鳥羽天皇の妃にすることだったともいわれ、この 上洛では、兼実と敵対関係にある丹後局と源通親に接近し、大姫の入内運動を行っ ている。 
 当時、大姫は17歳前後(頼家・14歳前後)ではなかったかといわれ、頼朝は、 これまで関白九条兼実との協力体制を築き、朝廷と幕府の関係を円滑に運営しようと した。 
 特に、後白河法皇亡き後、征夷大将軍に任ぜられたのは兼実の力によるもの だった。 しかし、建久8年(1197年)7月14日、大姫は病によりこの世を去ったことによって頼 朝の京を制するために行った朝廷工作の夢は断たれた。
 更に、頼朝が行なった大姫 の入内運動の結末は、親幕派の兼実を失脚させ、反幕派の通親の権力を増大させる 皮肉なものとなった。 
≪源頼朝系図≫ 

政子(尼御台)の悲願 
 正治元年(1199 年)「絶対的な権力者」だった頼朝が、53 歳という若さで急死した。 頼朝の死後、長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれ る。
 頼家は、乳母夫の比企能員にすっかり取り込まれたことに危惧していた。 能員の娘三人のうち、二人が乳母となり、もう一人は妻室「若狭局」はすでに「一幡」 をもうけていて、このままでは比企氏に鎌倉を牛耳られると思い始めた。 

 三左衛門(後藤基清、中原政経、小野義成)の変発生 
 頼朝の死から10日もたたない内に世情不穏となり、正治元年(1199 年)2 月、京の 都では新右大将 権大納言・源通親(土御門通親)が院中に立て籠って警護の兵が集 まるという騒ぎとなっていた。
 騒ぎとなった原因は、源通親が自らの右近衛大将就任と頼朝の嫡子・頼家の左中 将昇進の手続きを取ったためであった。 一条家の二代が相次いで亡くなったことを良いことに勝手な振る舞いをし、一条家 を冷遇したと不満がでていた。
 彼を狙ったのは、「一条能保・一条高能」の遺臣であっ た。 そして、兵革(戦いの準備)の疑いあり」「京中騒動」の風説が駆け巡って緊迫した情 勢となり、鎌倉に京から飛脚が送られてきた。
 しかし、鎌倉では2代将軍・頼家の継承 もまだ落ち着かない中で対応に追われた。 将軍・頼家(18歳)は京のゴタゴタなどは捨て置けばよい。討ち合って双方が倒れ れば好都合だと言うものの、御家人・大江広元(鎌倉 13 人の一人)は、征夷大将軍とはこ のような騒ぎを治める義務があると進言した。 
 それでどのような手を打つかが問題であったが、どこをどうひっくり返しても、今の京 では「通親」の力を持つ者はいないとし、ひとまず、通親を立てて身方する他はないと して鎌倉から中原親能(13 人の合議制の一人、弟に大江広元)が上洛して騒動の処 理を行い、後藤基清・中原政経・小野義成という3名の御家人らが正治元年(1199 年) に乱を企てたとして捕縛され失脚し京都は平静に戻った。
  鎌倉では、源頼家は周囲の期待に応えようと、これまでの習慣を無視した独裁的な 政治を行うようになり、それに不満を募らせたのが御家人達だった。源頼朝が没した後 は、「御恩と奉公」の信頼関係が崩れた。 源頼家が将軍となってからわずか 3 ヵ月後、源頼家の独裁的な政治に危機感を抱 いたのが母・北条政子だった。 

13 人の合議制 
  将軍・頼家の権力を抑えなければ、と言う話が御家人達から持ち上がり、頼家の独裁政治を抑えるために北条氏を中心に作られたのが集団指導「13 人の合議制」だっ た。
 将軍に代わって政務を行うために作られたが、毎回 13 人全員が揃って会議を行 ったわけではなく、また話し合いによってまとめられた意見の最終判断は、将軍・源頼 家によって決定されたと言われている。 
 13 人の合議制の運用期間は、正治 2 年(1200 年)には解体し約 1 年と短いものだ が将軍の発言力を弱めるには十分な期間となった。 
  これがきっかけとなり幕府将軍の発言力は低下し、13 人の合議制は、後に「北条氏」 によって行われる「執権政治」の基盤となった。 

≪鎌倉殿の 13 人(1199 年制定)≫ 
1 梶原景時 (頼家乳母夫) 1200 年 一族ごと殲滅
2 三浦義澄 1200 年 病没(一族は宝治年間に殲滅(せんめつ)) 
3 安達盛長 (比企尼娘婿) 1200 年 病没(のち子孫が霜月騒動を起こす) 
4 比企能員 (頼家乳母夫) 1203 年 一族ごと殲滅 
5 北条時政 (初代執権) 1205 年 追放(1215 年没) 
6 中原親能 (政所公事奉行) 1208 年 病没 
7 二階堂行政(政所執事) 没年不詳 歴史舞台から消えている。 
8 足立遠元 (盛長の甥) 没年不詳 1207年以降歴史舞台に出てこない。 
9 和田義盛 (侍所別当) 1213 年 和田合戦で一族ごと殲滅 
10 八田知家 (源義朝十男) 1218 年 病没 
11 三善康信 (問注所執事) 1221 年 病没 
12 江間(北条)義時 (時政嫡男)1224 年 病没 
13 大江広元(政所別当) 1225 年 6 月 病没 
第3編 (完) 

以降、「武士の時代を築いた源氏の考証」の第 4 編に続く・・・・・。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――― ≪参考文献(引用文献)≫ 
・その後の東国武士団 :関 幸彦 
・鎌倉殿と執権北条氏 :坂井孝一 
・源氏と平氏 :渡邊 保 (明治大学教授) 
・源氏と坂東武士 : 野口 実 
・文藝春秋、ニッポン教育再生会議:出口治明、呉座勇一 
・文藝春秋記事 : 本郷和人(東京大学史料編纂所教授)、同、本郷恵子 
・源氏と平家の誕生 : 関裕二 
・月岡芳年『芳年武者无類 平相国清盛』国立国会図書館デジタルコレクション 
・平氏と源氏」の人物
・合戦がわかる本 (PHP 文庫) 
・ベネッセ 教育情報サイト 日本の歴史特集 : 門川 良平 
・源氏と平氏 (日本歴史新書):渡辺 保 
・鹿島市ホームページ:源頼朝の台頭と鹿島氏  
・保元・平治の乱関係図 世界の歴史マップ 
・家系図作成専門会社 家樹 : 田代 隆浩(画像) 
・Yahoo 画像引用 ・玉川学園・玉川大学
・協同 多賀歴史研究所資料 ・鎌倉殿と執権北条氏 : 坂井孝一 
・鋸南町ホームページ ・フリー百科事典『(Wikipedia)』 
・一般財団法人 刀剣ワールド財団資料 
・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 
・比企一族の歴史 郷土学部 B班 :木村誠 ・吾妻鏡 :竹宮 恵子 
・オレたちの鎌倉殿 :西股総生 
・清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳 :濱田 浩一郎 
・鎌倉幕府で栄華「比企能員」の滅亡招いた"大誤算 :濱田 浩一郎 尚、

  「島崎城跡を守る会」の会員様の内部学習の基礎資料の一部にお役立てできれ ばと作成したものであり、筆者は、歴史専門家でもなく、自己学習の範囲のもので あるため、種々の文献やイラストを大きく引用させて戴いておりますこと、ご了承下 さい。また、内容に誤った記述がされている部分等につきましてもご了承下さい。

令和 4年 10 月 25 日 
森田 衛 (神栖市) 「源氏と平氏」 生涯学習レポートより