東海古城研究会から派生した、名古屋歴史歩きは20回を数えます。
信長が桶狭間合戦に向かった美濃路とその周辺を7回にわたって歩いてきましたが、今回で熱田神宮に到着し美濃路と東海道の分岐点に達しました。
名古屋城の建つ名古屋台地から南に伸びる熱田台地。古代には台地の周辺には海が迫り、埋立と土砂の堆積で次第に陸地化し現在地形になり、海ははるか南となりました。
当日資料から、現在の国土地理院地図に古代の海岸線をトレース
熱田台地から古代の海岸線は崖になっていて、台地のヘリに寺社が立ち並んでいたようです。古くは台地上に大型古墳も築造されており、東海地区最大の前方後円墳(断夫山古墳)もありました。この大地の背骨の部分に美濃路は通っており、台地の南端で東海道と結ばれています。

美濃路の朱点と東海道との分岐点 写真右手に旧上知我麻神社
美濃路南下しながら桶狭間に進軍した信長は、上知我麻神社に兵を集結して熱田神宮に戦勝祈願したとされます。その頃、東海道は確立されていなかったようなので、ここから桶狭間への道は「諸説あり!」のようです。

上知我麻神社の旧地 今は更地になっています
現在の上知我麻神社は戦後に移転し、ここから約200北に造営されています。信長は、鳴海方向の煙を見て丸根、鷲津砦の陥落を知ったとされますが、今では建物が立ち並び全く見通せなくなっていました。

信長が熱田神宮に奉納した信長塀
戦勝祈願し勝利を得た信長がお礼に奉納した塀が今も残ります。今は一部が壊されて、短く残っていると思っていましたが、普段人があまり行かない西側に長く残っているようです。

誓願寺 頼朝生誕の地とされ、産湯の池、井戸などが見られる
源頼朝の生誕地として有名な誓願寺だが頼朝の頃、この地は熱田大宮司の別邸だったようです。いま見られる井戸や池は近年になって再現した縮小版で、旧来は大きな邸宅があり、後に誓願寺が造営されたということです。頼朝は熱田大宮司の別邸で誕生したと確認できました。
熱田から桶狭間への進軍路は「諸説あり!」ですが、次回は「真説・信長の進軍路」の案内をしていただけるとのことで楽しみです!
※名古屋歴史歩きの開催情報は東海古城研究会の会員さん対象のメール情報で配信されています。このメール情報はベテラン役員さんの情報網で集めた城郭関連の全国各地の発掘調査、セミナー、シンポジュウム、イベントなど幅広い情報を配信していただけます。
信長が桶狭間合戦に向かった美濃路とその周辺を7回にわたって歩いてきましたが、今回で熱田神宮に到着し美濃路と東海道の分岐点に達しました。
名古屋城の建つ名古屋台地から南に伸びる熱田台地。古代には台地の周辺には海が迫り、埋立と土砂の堆積で次第に陸地化し現在地形になり、海ははるか南となりました。

当日資料から、現在の国土地理院地図に古代の海岸線をトレース
熱田台地から古代の海岸線は崖になっていて、台地のヘリに寺社が立ち並んでいたようです。古くは台地上に大型古墳も築造されており、東海地区最大の前方後円墳(断夫山古墳)もありました。この大地の背骨の部分に美濃路は通っており、台地の南端で東海道と結ばれています。

美濃路の朱点と東海道との分岐点 写真右手に旧上知我麻神社
美濃路南下しながら桶狭間に進軍した信長は、上知我麻神社に兵を集結して熱田神宮に戦勝祈願したとされます。その頃、東海道は確立されていなかったようなので、ここから桶狭間への道は「諸説あり!」のようです。

上知我麻神社の旧地 今は更地になっています
現在の上知我麻神社は戦後に移転し、ここから約200北に造営されています。信長は、鳴海方向の煙を見て丸根、鷲津砦の陥落を知ったとされますが、今では建物が立ち並び全く見通せなくなっていました。

信長が熱田神宮に奉納した信長塀
戦勝祈願し勝利を得た信長がお礼に奉納した塀が今も残ります。今は一部が壊されて、短く残っていると思っていましたが、普段人があまり行かない西側に長く残っているようです。

誓願寺 頼朝生誕の地とされ、産湯の池、井戸などが見られる
源頼朝の生誕地として有名な誓願寺だが頼朝の頃、この地は熱田大宮司の別邸だったようです。いま見られる井戸や池は近年になって再現した縮小版で、旧来は大きな邸宅があり、後に誓願寺が造営されたということです。頼朝は熱田大宮司の別邸で誕生したと確認できました。
熱田から桶狭間への進軍路は「諸説あり!」ですが、次回は「真説・信長の進軍路」の案内をしていただけるとのことで楽しみです!
※名古屋歴史歩きの開催情報は東海古城研究会の会員さん対象のメール情報で配信されています。このメール情報はベテラン役員さんの情報網で集めた城郭関連の全国各地の発掘調査、セミナー、シンポジュウム、イベントなど幅広い情報を配信していただけます。