城と歴史歩きを楽しむ

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三河・久保城と周辺 奥平氏の存亡を賭けた「久保城の密談」が行われた城

2019-03-07 | 歴史
久保城は愛知県岡崎市石原町にあり、所在地は城山と呼ばれています。
 三河奥平氏が作手地区から勢力を広げ、宮崎地区を領した時に拠点となった城です。その後武田軍の南下によって奥平家も難しい去就の選択を迫られていました。武田の軍門に下るか、あくまで家康方に踏みとどまって戦うか、一族の存亡を賭けた密談がここ久保城で行われたと伝わります。結局、一族を密かに二分して生き残りををかけることと決し、武田に人質を出すことになりました。この人質が後に武田によって13歳で見せしめのため殺害される奥平仙千代です。


久保城付近の図   国土地理院地図をカシミール3Dで加工加筆
久保城を取り巻くように男川が流れ、対岸には小代城があり、西側の尾根上には古城砦があったとされます。


昭和の久保城 削平地は田となった 宮崎小学校側から写す 『奥平氏と額田」より引用
今は二の曲輪部分は企業の研修施設となり往時の姿は一部失われているが、山側の背後を断ち切っている大きな堀切が現存しています。また主郭部には櫓が建てられて城址の雰囲気を出しています(模擬櫓)。川沿いには帯曲輪状の田がありましたが、城郭遺構かどうかは判然としません。現在は植林がされて写真の地形を見ることは出来ません 残念!


主郭部の櫓
模擬とはいえ木造の立派な櫓で、地元の大工さんの手によるものとのこと。今は登れますが、風雨にさらされているので、傷んでくると他所でよく見る「立入禁止」の櫓になってしまうかもしれません。


背後の山側の大きな堀切
思いがけない堀切の遺構に出会った感じです。東と北を川が取り巻き急な崖になっていますし、西側は深い沢があり、南東の山側だけが久保城の弱点になっているので、ここを大きく掘り切って防禦を固めたと思われます。


小代城と古城砦 小代城は宮崎小学校となっている
小代城は宮崎小学校となり、往時の土地形状も失われています。古城砦は小代城の詰城の位置づけと考えられます。どちらも伝承の城と砦のようで確たる資料はないようですが、ここの地名は「古城」です。

旧道は久保城付近で渡河していたようで、以前は久保城の北下に橋があり道もありましたが今は橋は新道に変わり橋も道も失われてしまいました。

奥平氏は、戦国を生き抜き長篠設楽原の戦いでは長篠城を守り、江戸期には豊前の中津城城主となり明治まで続きました。

※参考文献 『奥平氏と額田』 額田町教育委員会 2005