城と歴史歩きを楽しむ

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伊豆・韮山城 伊勢宗瑞が築き没した遺構がよく残る城郭

2019-07-06 | 歴史
韮山城は静岡県伊豆の国市韮山にあります。
 今回は東海古城研究会の一泊二日の見学会で訪れました。あいにくの雨で見学路は川のように雨水が流れていました。幸い見学路の整備が進んでいますので支障なく見学出来ました。
 山下には韮山反射炉で注目を集めている江川邸がありますが、江川邸の観光案内所のボランティアガイドさんの「何が面白くてこんな雨の中、お城へ行くのかねぇ~」の声を背中に聞きながら江川邸を素通りして進みます。

韮山城は伊豆を手中に収めた伊勢宗瑞が韮山に城を築き、勢力を蓄え関東進出の足掛かりとしたと伝わる城です。後北条氏として小田原に進出した後も宗瑞自身は韮山城に住み続けここで没しました。
 秀吉の小田原侵攻に対して箱根の山中城と韮山城は西に対しての重要な軍事拠点となり周囲の山に砦を築き守りを固めました。秀吉軍はそれを囲むように多数の付城を築きましたが、小田原城が開場するまで落城せず持ち応えたことで知られます。


韮山城 本丸に立つ案内板の地図 抜粋し加工・加筆 北が下になっていることに注意! 図のクリックで拡大
案内板によると、一般に訪れる韮山城は「韮山城主郭」とされ秀吉の小田原侵攻に備えて築いたとされる天ヶ岳砦、和田島砦、土手和田砦、江川砦を含めて「韮山城」としているようです。山下の韮山高校は発掘調査で御座敷と呼ばれる屋敷遺構が検出されました。
 韮山城の北側と西側、御座敷には防御施設がほとんどないように見え、付城も東の山地に集中しています。
往時の地形は定かでありませんが、狩野川の河原と深田で攻撃のしにくい状況があったのではないでしょうか。付近には頼朝が幽閉されたと伝わる蛭ヶ小島があります。


韮山城 案内板によると主郭とされる部分です。 前出図の部分を加工・加筆 下が北に注意!
江川邸の駐車場から城池の堤を通って三の丸への道を登り城内へ入ります。今回は案内板の韮山城主郭を「韮山城」とします。


韮山城 三ノ丸 広い平坦面を持つ曲輪 周囲には土塁が残る
三の丸はテニスコートとして使われているため、平坦面の遺構は確認できませんが、周囲には土塁が残されていました。ネットフェンスの外側に土塁遺構がありますので、見逃さないようにしたいものです。


韮山城 二ノ丸 曲輪の周囲に土塁がよく残る見どころの一つです
三ノ丸から権現曲輪を見学して二ノ丸へ登りました。二の丸も広い平坦面を持つ曲輪でした。曲輪の四方を囲む土塁は往時の高さは風化で減じていると思いますが、しっかり残されており土塁幅も広いものでした。
 二ノ曲輪から堀切を越して本丸へ向かいます。


韮山城 本丸 南からの景観
南尾根から振り返って見ると、本丸と西側の切岸が見えます。切岸下の道は手前側(南)へ進むと伝塩蔵へ達します。天気が良ければこの辺りからは富士山を奥にした絶景が見られますが、今日は富士山がお休みでした。


韮山城 伝塩蔵 焔硝蔵であろうとされますが、伝承名は塩蔵です
土塁で囲まれた遺構は見どころですが、残念ながら立ち入りが禁止されていました。遺構の崩落等があるのでしょうか? 修復工事の予定なども見当たらないので、立入禁止の解除があるかどうかも不明でした。 ※何らかの情報を現地に表示してほしいですね。


韮山城 南側に堀切が三条切られている・・・とされる
韮山城から天ヶ岳砦へ続く尾根を断ち切るように堀切1、2、3があり、そのうち1は現在道路として使われています。
 絵図にも描かれ、確かに三条の堀切のようですが2、3に比べて規模が違いすぎるので、今見る姿は廃城後の早い時期に通路として使われた地形で、もとは尾根が土塁状に成型されていたのではないかと思いました。あるいは親水公園の工事で拡張した? よく見る堀切は城館側の規模が大きいので堀切があったとしても他の2条と同程度の規模か、小さく浅いものだったのかもしれないと想像しましたがどうでしょう?。※この項目の写真は別の日に訪れた時のものです。

韮山城を訪れたのは今回が三度目でしたが本降りの雨の中で眺望はゼロでした。よく残された遺構を改変しない整備が行き届いていたので見学そのもの支障なく行われ新たな発見もありました。※伝塩蔵だけは残念!