大平城は静岡県浜松市北区にあります。新東名高速道路が開通し浜松SAがありますが、SAの北側直近に見える山塊が大平城です。浜松SAにはスマートICが併設されているので、ここから約1.5Km走るだけで大平城の駐車場です。
駐車場には城址碑、案内板などが立っています。なお大平は「おおいだいら」と読むそうです。
大平城 図1 国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
大平城の築城は南朝方の拠点だった三岳城の支城として応暦二年(1339)にはすでに稼働していたとされます。宗良親王がこもる主城三岳城が北朝方に攻め落とされると宗良親王はここ大平城に一時逗留したとされます。
その後大平城は歴史に登場することがないので、現在見ることができる遺構はそのころのものだという通説があるようです。
「静岡の山城ベスト50を歩く」では曲輪と堀の規模から永禄末期~天正初頭ごろと推定されるとしています。
遺構の曲輪には土塁が見られないなど、古い形の山城のような気がしましたが、さてどうでしょうか?
大平城 五体力神社参道の石段を登ると社殿が現れる。右手裏に城道が続く
大平城の城道は主に図1のAとBの二つのコースがあります。Bは大手道ですが、倒木があるのでAのコースを使うようにという表示がBの入り口にありました。
五体力神社は大正八年に地元有志が宗良親王を守ってここで散った五人の勇士を祀って造営したと説明石碑がありました。
ここから出曲輪を通って、大手道との出会いへ向かいますが、出曲輪の遺構はこの季節のせいか、雑草に埋もれてほとんど確認出来ませんでした。※出曲輪は現地案内板にありますが「静岡の山城ベスト50」の図にはありません。
大平城 本曲輪には本丸標柱が立っている。いわゆる遺構はないが地形が残る
大平城の曲輪には土塁の遺構は見当たりません。ここ本曲輪も輪郭がはっきりしない削平地が残されていました。
大平城 東曲輪の東端部の尾根を断ち切る堀切
今回の見学では目立った堀切を4条、ごく浅い堀切を1条みることができました。この堀は「静岡の山城ベスト50」で1号堀切と名付けられています。最近は整備がされていないらしく、堀は樹木の枝で埋まりシダ類が繁茂していました。高速道路からすぐ訪れることができるようになったので、整備されると人気が出るのになァ~、と残念に思いました。以前の整備がいついつ頃かわかりませんが、空堀と表示していたであろう看板も文字が読めない状態でした。
大平城 2号堀切 掘った土は外側へ土塁状に積み上げてある。堀には水がある ヌタ場?
2号堀切は北尾根を随分下がった場所にありました。堀の中央部には写真のように水がありました。水の深さは判りませんでしたが、よく見る猪のヌタ場にしては深すぎるように思いました。本曲輪からずいぶん離れた川に近い場所まで降りていますのでひょっとしたら城の水場かもしれないと勝手に想像しました。
大平城 3号堀切 北西尾根を断ち切る大きな堀切 一番見やすかった
今回の見学で、一番はっきりと見える堀切が3号堀切でした。この季節でも堀底まではっきり見えてGood!でした。
シダ類は木を切って日当たりが良くなると繁茂するので、毎年整備しないとアッという間に冬でも地表を覆いつくしてしまいます。見学時には樹木が邪魔だと思う時もありますが、地表の確認には植林の大きな樹木があるほうが、見やすい場合も多いですね。
大平城 4号堀切 西曲輪の尾根を断ち切る堀切 風化が進み原形が判りずらい
西曲輪の平坦面から少し下がって4号堀切があります。看板が立っていますが今はもう字が読めませんでした。多分「空堀」と書いてあったのでしょう。
「静岡の山城ベスト50」によると付近に竪堀があるはずなので同行者と一緒に探しましたが、残念ながら竪堀と確信できる地形は発見できずに終わりました。
大平城 堀切① 西尾根先端の細尾根にある浅い堀切地形 上から
「静岡の山城ベスト50」では描かれていませんが、かなり風化して浅くなったと思われる細尾根を断ち切っている堀切状の地形が残っていました。明確な遺構ではありませんが、一応堀切と考えておきたいと思いました。
大平城は、地元では宗良親王ゆかりの城址ということで認識されており、尾根筋、法面には多数の遺構があるとされています。下の写真は山下の駐車場の案内板の図ですが、全てが城郭の遺構として機能していたのか、少し疑問が残るように感じました。
夏草の季節に訪れて雑草に文句を言を言うよりも、見学に適したシーズンに訪れたら、さらに興味深い遺構が確認できる城郭だと思いました。