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三河・横山屋敷と伊賀山屋敷 松平家忠日記ゆかりの地として興味深い

2019-08-10 | 歴史

横山屋敷と伊賀山屋敷は愛知県岡崎市甫母町にあります。
 松平家忠日記で知られる松平家忠の三代前の深溝松平・松平忠定が米津氏と戦い小美と保母の地を奪い領したと伝わります。
 その後、忠定の子好景が姫ヶ城を築き、忠定の子定政が保母松平の祖となったと言われます。
小美と保母の間を流れる乙川は下流の岡崎城付近で矢作川に合流しています。  ※小美は「おい」と読みます。
 
  図1 小美と保母周辺地図と横山屋敷、伊賀山屋敷の位置  図のクリックで拡大
 図1の米津小美城は米津氏の居城とされる地元の伝承地です。
小美城は深溝松平家家臣・板倉氏の居城とされます。板倉氏は後に徳川家康に従い京都所司代などを務めます。
 姫ヶ城の地は、古くは1000年ほど前、京から三河守として派遣された大江定基が当地で亡くなった姫を埋葬したと伝わり、後に深溝松平の好景が城を築いたとされます。城は横山屋敷の詰の城と考えられます。

胎蔵寺と姫ヶ城への道
 胎蔵寺は大江定基が姫の菩提を弔うために建立したとされ、保母姫ヶ城への道があります。


横山屋敷 深溝松平は保母地区の鉢地川を境として北側と小美地区を領したようだ
 
写真手前の鉢地(はっち)川を境に屋敷地が広がっていましたが、現在遺構はありません。地図で見ると、隣接する伊賀山屋敷との境界が鉢地川だったことがよくわかります。伊賀山屋敷地区は別系統の松平氏が領していたようです。

 
伊賀山屋敷 乙川方面(北側)から伊賀山屋敷を見る 乙川の河岸段丘上にあるのがわかる
 伊賀山屋敷の遺構は残っていませんが、小字名はそのものズバリの伊賀山屋敷です。三河に広く派生した松平一族の一員が治めていたと思われます。ちなみに横山屋敷の比定地の小字名は横山屋敷です。

 松平家忠日記では、度々 小美に出かけて川で漁をしたと出てきますが、保母の親戚に泊まって乙川で漁を楽しんだのではないでしょうか。

※三河には、家康の関東移封までの家忠日記に登場する地名が沢山登場しますので、おいおい紹介したいと思います。