清水城は愛知県北設楽郡設楽町西納庫にあります。
築城は南北朝期に足助荘の代官菜倉氏によるとされます。南朝方で活躍した菜倉氏でしたが南朝勢力が衰えると遠江へ退去したと伝わります。
その後、作手奥平氏の勢力拡大で納庫地区に奥平氏が進出し名倉奥平を名乗りこの地を支配しました。名倉奥平氏は徳川家康の信任が厚く、後に尾張徳川家の家老となりました。
清水城も奥平氏の支配下になったと思われ、現在残る城郭遺構は名倉奥平氏による修築が加わっているものと考えられます。
※名倉地区の現在の地名は納庫となっていますが、名倉、菜倉などの名称が登場します。いずれも読みは「なぐら」です。
今回は「愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ 東三河」の図と「定本 東三河の城」の記事を片手にでかけました。
名倉地区 城砦ネットワークの概要図 多くは名倉奥平時代のものです。
作手奥平氏が進出してからも境目の地区として織田、今川、武田、徳川の勢力が度々入れ変わったのに合わせて所属を変えた名倉奥平氏ですが、最終的には徳川に属し家康の関東移封に従って名倉奥平氏はこの地を離れました。
清水城主の墓 清水城の近くの山に清水城主の墓と伝えられる墓が祀られている
地元出身の方の案内でおとずれることができました(図2参照)。今も折々に香花がたむけられているようでした。
形状から時代を推測する知識がないのでわかりませんでしたが、名倉奥平氏が進出してくる前の清水城の城主を想定した墓の伝承ではないかと思いました。なんとなく・・・
清水城の近くには駐車スペースがありません。
図2 道の駅なぐらへ駐車して清水城主の墓経由で城址見学へ向かうと安心です。
田舎道は案外駐車に困る場合が多いですね、安心できる場所へ駐車しましょう。また住民を見かけたら「城巡りで来ました」と積極的に声をかけましょう。これを怠るとなぜか駐在所のミニパトを見かけることが多くなるように感じます。
※道の駅なぐらから清水城主の墓経由で清水城までは15分位です。
清水城 稲荷神社の参道の鳥居をくぐって城址へ向かって登る
城址の中腹に稲荷神社の小祠が祀られています。そこはすでに城域にはいっています。右手に主郭Ⅰを巻いて進むと北側の堀と土塁の遺構が見られます。小祠を左に登ると虎口から郭Ⅰに入ります。
清水城 Ⅰ郭の北側の堀と土塁が見どころ。 堀はかなり埋まっているように見える
清水城の見どころはⅠ郭北側下の堀と土塁です。この堀と土塁が清水城の見どころです。土塁は北方向にも伸びていますが、後世の土取りや改変などで原状が失われているためその意味合いがつかめませんでした。
清水城 Ⅰ郭(本丸)の城址碑 足助荘名倉郷といわれた南北朝のころ、菜倉左近蔵人が築城。本丸、二の丸が残る とある
初期の築城は菜倉氏だとしても、名倉城砦ネットワークの殆どは後の名倉奥平氏に属したので、清水城の現在見ることができる遺構も名倉奥平氏の修築が加えられたものではないかと思います。
Ⅰ郭が主郭だったようですが、Ⅰ郭面には土塁が見当たりませんでした。北側下に残る堀と土塁が、往時は周囲をぐるっと取り巻くことで切岸を作り出し防御の機能を持たせていたことも考えられそうです。
清水城 西側下のⅡ郭とⅠ郭を横から見る。人物と比較すると高低差が2.5mほどある。
写真右手上のⅠ郭(本丸)の西側下にⅡ郭(二の丸)がありました。この曲輪にも土塁は見当たりませんでしたがⅠ郭へ登る虎口らしい地形が残ります。Ⅱ郭とⅠ郭の高低差が2.5mほどあり切岸が防御の要となっていたようですが、写真のように今はかなり風化して緩やかな切岸の法面となっていました。
Ⅱ郭の西側にも平坦面がありますが、後世の耕作地と評価されているようです。今は植林されていますが城郭遺構と後世の山畑との見分けは難しいと思います。特に戦後の食糧難の時代には、今では想像が難しい場所にも畑地を切り開いていたので、城郭遺構かどうかは慎重に見る必要があると思います。
なお、植林のために山地を平坦地に加工削平することはほとんどないので、平坦地に植林されている場合は畑地だった可能性を考慮することが必要だと思います。
清水城は名倉城砦ネットワークの一つとして訪れました。名倉奥平氏一族の居城と砦、名倉奥平氏に属して集落を治める土豪の屋敷地などが混在し、ネットワークが形作られていたと考えられています。
清水城の遺構の北側は改変前の状況が判りませんが、背後にそびえる山上の黒岩砦との関連なども有ったのではないかと考えると興味が尽きませんでした。