小田城は愛知県新城市作手守義にあります。 小田は 「こだ」と読むようです。
作手奥平氏の領する、いわゆる作手地区の北端部にあり作手菅沼あたりから笠井嶋へ抜ける主要なルートの峠道を守る城として奥平氏の一員によって築かれたとされます。
作手地区は武田氏と徳川氏の境目の土地で、奥平氏はその所属について難しい選択を迫られ、一時は武田に下るも最終的には徳川に属して繁栄し江戸期には大名となりました。
小田城は小田の集落に屋敷を構え、詰の城あるいは街道の監視所としての役割を果たしていたと考えられます。
※今回は「定本 東三河の城」(以下 本)の記事と図を片手に訪れました。
小田城 街道Aは今も地図上で確認できる。 街道Bは失われた峠道の想像図。
本によると、小田城の城道は城の西側を通る峠道の峠から登るDだったとされます。今回は図1の集落から洗心荘の脇を通るルートを登り傾斜のゆるい南東尾根から城に向かいました。
小田城 集落から洗心荘の脇を抜けエイヤッと踏み込みCのルートで南西尾根に向かいます。
笠井嶋への道は確認していませんが、本によると江戸時代には笠井嶋への主要な街道で、車の道が出来るまでは明治になっても使われていたとされます。戦国時代にも主要道として使われていたことでしょう。
小田城 見どころは東と南を守る二重の堀と二重の土塁です。
南東尾根から主郭に向かうと土塁と堀がそれぞれ二重になっていました。写真は内側の堀切と土塁ですが、主郭の堀切からの切岸の角度はかなり緩やかになっています。風化によって切岸が崩れ堀切が埋まったのか表面観察だけでは不明でした。
現状の角度の切岸では防御性が弱そうに思えました。
※ここでは堀切と呼んでいますが、扇型45°にぐるっと主郭を取り巻いていますので横堀、もしくは空堀というのが適切かもしれません。
小田城 主郭 小さな石の祠があるが、現在お祀りされているかは不明。主郭の半円形の平坦な地形が残る。
小田城は、地元では通称城山と呼ばれている山上にあります。主郭は削平されていますが遺構らしいものは残っていませんでした。小さな石の祠がありましたが今もお祀りしているかどうかわかりませんでした。主郭平坦面にも植林がされていますが、間伐がされていないため陽の光が少なく、雑木などが見られませんでした。城址見学には好都合ですが、山の健康度は良くないですね。
小田城 主郭から下がった平坦地は曲輪か? 自然地形の削り残しにも見える
小田城は主郭の東から南にかけては二重の堀切と土塁を築いてしっかり防御しています。また北側は笠井嶋へ向けて当貝津川まで切れ落ちる急斜面の自然地形で守られていますが西側は街道の峠道までほぼ無防備でした。 峠道を守るために築かれた城という意味がここでわかりました。
城は敵が東から来るのに備えているように見えますが、東から来るのは武田の兵または武田に属する奥三河の兵だったのでしょうね。
作手地区の北端にポツンとある山城の意味は、地図と縄張り図だけでは理解できませんでしたが、本の記事と図を片手に見学することで、小田城がポツンとあるのではないことと、その役割と歴史を知ることができました。
山奥の小規模な城なのに、見事な二重の堀切と土塁を見ることができ期待以上で良かったです。