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三河・百々砦 南北朝期の山城か?石垣の平坦地が存在する興味深い城館にワクワク

2020-07-14 | 歴史

百々砦は愛知県岡崎市岩戸町にあります。
 この城には数年前、城巡りを初めて間もない頃に訪れていますが、そのときは場所の確認と何段かの削平地が有るだけという印象でした。今回は資料として「愛城研報告第2号」愛知中世城郭研究会 1995 を片手に出かけましたので、より詳しく以前は気づかなかった遺構も見学ができました。

築城時期や百々砦城主の詳細はわかっていないようですが、資料によれば所在地の場所や遺構の状況から南北朝期の城館と推定されています。


百々砦 城道は不明で新東名の高架下に駐車し、適当な場所からエィヤッ!と登る
 明確な城道はわからなかったので、適当な場所から登りました、かなり急斜面で大きな岩がゴロゴロしていました。矢作川の支流の乙川対岸には天野氏の居城と伝わる岩戸城がありました。


百々砦 自在龍神の小祠と石碑と龍神の石造物と案内板
 図1の自在龍神の位置に設置された案内板によると「岩戸邑の城主・天野大膳が戦いに敗れ戦死し、その妻がこの山に逃れ白龍となった」とされていました。
 岩戸城の天野氏は南北朝期に来住し岩戸城を築いて代々居住したと伝わりますので、百々砦との関連を伺わせる伝承のように思いました。


百々砦 概略図 意外に遺構が残っている。資料の縄張り図に私見を追加して作図
 以前訪れたときは数段の削平地が有るだけという認識でしたが、今回は資料の縄張り図を見ながら見学しましたので、新たな気づきがいくつもありました。


百々砦 資料の縄張り図に示されているⅠ’郭の虎口A
 風化が有るため明確ではありませんが、資料に示されている虎口を確認できました。土壇は虎口との関連がありそうでした。


百々砦 Ⅰ郭とⅠ’郭の中央部に段差がありⅠ郭のほうが高い
 資料ではⅠ’郭とⅠ郭は一体の平坦面として描かれていましたが、中央部に低い段差があり残欠の石垣らしい石積も見えましたので④を加筆しました。


百々砦 Ⅰ郭北西隅の岩塊群③とⅠ郭北辺の切岸
 
百々砦の地盤は岩石が豊富で人手が加わっていない岩が意味ありげに見える場所が多数ありました。③も元々あった岩塊をⅠ郭に利用したのかもしれません。


百々砦 Ⅰ郭 北東隅の虎口状地形①を平場②から見る
 資料には描かれていませんが、Ⅰ郭の北東隅には折れて入る虎口のように見える地形がありました。④の段差を考えるとⅠ郭の虎口はA,Ⅰ郭の虎口が①だったかもしれないと想像してみました。
 平場②の東側には竪土塁のような細尾根が南上まで伸びていて、まるで城域を囲んで守る土塁のようでした。


百々砦 Ⅱ郭の石垣 一部が崩れているがよく残っていて見どころ。 東から
 Ⅱ郭の北辺には石垣が残っていました。Ⅲ郭の北辺には石垣が見られないので、資料ではⅡ郭には居館があった可能性があるとされています。Ⅱ郭の北東隅部には湧水地Bが有ると資料では示されていますが、それらしい地形は有るもののB付近で水を見ることはありませんでした。


百々砦 Ⅲ郭北辺の段差。石垣はなく風化が進んでいる
 Ⅱ郭の北辺は石垣で段差がハッキリ残されていますが、Ⅲ郭の北辺は風化で段差が曖昧になっていました。


百々砦 城域西側の法面には何条もの竪堀状地形⑦が見られる
 竪堀状地形⑦は法面が一部分崩れた自然地形のようにも見え、資料では描かれているものの積極的に竪堀とは評価してありませんでした。更に浅い竪堀状地形は図示したよりも多く存在していました。


百々砦 最上段のⅣ郭 西から
 Ⅲ郭から斜面を挟んだ上部にきれいに削平されたⅣ郭がありました。山城でよく見かける後世の山畑の跡のようですが、百々砦は岩だらけの山で耕作地ではなかったように見えました。
 Ⅳ郭の上部にも岩の多い平坦地がありましたが、これは自然地形のようでした。戦時には見張りが立つ程度の利用がされた可能性はありそうでした。

百々砦は縄張り図がないと見落としてしまう遺構が多くありましたが、今回は25年以上前に縄張図の作図をしていただいた先輩方に感謝しつつ興味深く詳細に見学できました。