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遠江・釜原城 南北朝期に落城の伝説があり、戦国期の武田・徳川に改修されたとされる城郭

2021-11-02 | 歴史

釜原城は静岡県御前崎市新野にあります。釜原はカマッパラと読みます。城主や築城時期は史料がなく不詳とされますが、付近にあった寺に残された伝記では南北朝期に落城したとされ、戦国時代の築城ともいわれ戦国時代以前に付近を支配していた新野氏の築城との説もあるようです。
 戦国期には武田・徳川による高天神城の争奪戦に関連して改修利用されたと考えられているようです。
今回の参考資料は(1)世城館跡』静岡県教育委員会 1978 と  現地案内板です。


釜原城 新野川が流れる南北の谷筋を通る街道を扼する位置にある。戦国期にはその役割が変わった
 案内板によると武田・徳川の高天神城争奪戦の時には西に向けて馬出から出撃できたようです。遠州の城址の多くが後世に茶畑として利用され、改変が行われていますが、今残されている釜原城の城郭遺構も茶畑などの造成によって改変を受けていました。     ※新野城(八幡平の城)はこちら


釜原城 現地案内板の縄張図          ※図を反時計回りに90度回転
 城趾見学の駐車スペースには案内板が立っていました。城道は後世の茶畑の開墾やDOCOMOの中継局の建設などで、軽トラが入れる道が本曲輪の奥までありましたが城趾見学は案内板のある入口に車を停めました。


釜原城 「トンノヤ」にある井戸   東から
 資料によると、図2の殿之谷は「トンノヤ」と呼ばれる地区で、居館があった場所とされ、屋敷の前方には井戸があり落城時に金の釜が投げ込まれたという伝承があるそうです。写真の囲みの井戸がそれを指すのかは確認できませんでしたが、たぶんそうだろうと想像しました。居館があった時代には詰城として釜原城があったと考えられそうですね。


釜原城 本曲輪と出曲輪は尾根道で離れているので一城別郭ともいわれる
 現地案内板によると尾根西の出曲輪は馬出装置とみられる
と記されていました。西端部は県道37号線の工事で改変もあり観音堂跡、庚申松は確認できませんでした。案内板で見晴台と記されている場所は資料によると地盤が崩れたとされ曖昧な地形となっていて見晴台と確認できませんでした。そのかわりと言う訳でもないのでしょうが出曲輪に見晴台の表示板がありました。
 図3には観
音堂と庚申松の間を下る道が描かれ、資料では搦手道の可能性を記していましたが、現地では明確な道は発見できませんでした。なお軽トラの道は尾根の中間点Cまででした。


釜原城 二の曲輪 東から 茶畑として利用されていたかも 右手に軽トラ道、その右にDoCoMoの中継局
 二の曲輪は南の尾根に延びる曲輪でした。先端部から南東の細尾根を下る道があったように見えました。


釜原城 本曲輪と二の曲輪間の大堀切a    東から 今は軽トラ道で埋められている
 二の曲輪から本曲輪へ向かう道は軽トラ道になっていましたが、往時はここに大きな堀切があったようです。側面に降りてみるとその痕跡が確認でき表示板もありました。


釜原城  本曲輪 西から 奥にDoCoMoの鉄塔 中央に軽トラ道
 本曲輪は広い平坦面で、ここも茶畑として利用されていたように見え特段の城郭遺構は見当たりませんでした。曲輪の東西には大堀切が掘り込まれ、北側の細尾根には堀切が設けられて防御は厳重だったようです。南側は急角度の崖を守りとしていたようでした。


釜原城 本曲輪西側の大堀切b 東から   今は軽トラ道で埋められた  大堀切の西側には土塁があったかも
 本曲輪と出曲輪の間160m程は細尾根が続いていました。本曲輪東側と同様に大堀切は軽トラ道で埋められていました。側面に降りてみると大堀切の痕跡が確認でき、表示板も立っていました。写真ではわかりにくいですが大堀切の向こう側の軽トラ道で開口されたように見える地形がありました。ヒョットすると土塁があたのではないかと想像しましたがどうでしょう。


釜原城 出曲輪 北東側の眺望がすばらしく、高天神城方向にも展望は開けている
 西尾根の先端に出曲輪はありました。樹木が伐採されている北東方面の展望が開け、ここが見晴台と言っても良いようでした。ここから西側は下りの地形で、図3にある観音堂跡や庚申松、その間を通る搦手道を探してみましたがハッキリとは確認できませんでした。


釜原城 堀切①  本曲輪北側の小尾根の一つに設けられている 
 本曲輪の北側には小尾根が三本ありそれぞれの小尾根には堀切が設けられていました。堀切①はその中央部の小尾根の堀切で左手上が本曲輪です。


釜原城 堀切② 西側の小尾根に設けられている堀切 左手上に本曲輪
 堀切②は風化があり少し埋まっているようでした。往時はもう少し深かったのでしょうね。


釜原城 堀切③ 東側の小尾根に設けられている浅い堀切 左手上に本曲輪
 堀切③の西側には小平場があり、その関係か堀切③はもともと浅かったように見えました。

南北朝期にトンノヤに居館を設けた小領主の詰城として釜原城が築かれ、その後落城して廃城となっていたのを高天神城をめぐる武田と徳川の攻防戦で改修利用されたと伝えられますが、付近に新野城や新野左馬之助の墓所が在るのでその間の歴史に新野氏が関与して関与しているのではないかと想像してみました。

釜原城は茶畑の造成などで遺構が部分的に失われていましたが、城郭としての骨格は残されていましたので楽しく見学することができて良かったです。