武田軍に包囲された奥平貞昌(信昌)が籠城する長篠城を鳥居強右衛門が、夜陰に紛れて脱出し岡崎城の織田信長、徳川家康に救援を求めて走った道を その1 その2 でたどりました。その2 では長篠城から「脱出成功!」のノロシを上げたとされる雁峰山までをたどり、今回は雁峰山から奥平氏の拠点だった滝山城のある明見までをたどります。今回の参考資料は(1)「奥平氏と額田」額田町教育委員会発行2005年 (2)長篠城址史跡保存館の展示パネル (3)「郷土 強右衛門と金七郎、二人脱出説検証」 夏目 利美2007 です。
※強右衛門の道 その1は→こちら その2は→こちら その4は→こちら
強右衛門の道 その3では雁峰山(かんぼう山)から明見までの道をたどります
奥平貞昌は、武田の手を逃れて作手を退去して明見の地を拠点としていました。
長篠城の脱出に成功した強右衛門ですが、作手の野郷(のんごう)までは武田の勢力圏ですから、一刻も早く通過したかったのではないかと思います。雁峰山から野郷までは高低差の少ない山道が多く、野郷を通り尾根を過ぎると牧原までは下りの道ですので、急いで駆け降りたのではないでしょうか。牧原まで来れば奥平の勢力圏で、牧原から明見まではほぼ平坦な道です。味方の地である明見の奥平氏の屋敷に着けば、ここで馬を借りて岡崎まで急いだのではないかと思います。
強右衛門の道 雁峰山(かんぼう山)から野郷まで 現在の地図に昭和4年の地図の旧道を重ね合わせる
その2で雁峰山までをたどりました。雁峰山からは大田代→作手田代→作手杉平→赤羽根→野郷と道が続きます。上図は昭和4年の地図に残されていた道を現在の地図に重ね合わせたものですが、ほぼ直線の往時も存在した道で強右衛門も走った最短距離の道だったのではないかと想像しながらたどりました。
強右衛門の道 集落間を結ぶ山道は今も所々に踏跡が残る
強右衛門も通ったであろう道は里道と山道があったと思われ、往時の山道は写真のような植林はされてはいない山の道で、周囲には雑木が茂っている道だったのではないかと想像しました。
強右衛門の道 大田代の道 右は後世の車の道 田地の左に旧道
旧道を拡張して車の道となった部分、歩く道が残されている部分、今は使われなくなって踏跡も残っていない部分などがありました。
強右衛門の道 田代から杉平への峠 道は不明瞭
山道は踏跡が残っていない部分もありました。最近では長いあいだ、人が立ち入ることがほとんど無い山も多いので山仕事の道の踏跡も失われてしまう場合も増えているようですね。
強右衛門の道 野郷集落付近の大洞龍神社
野郷集落の近くに大洞龍神社が鎮座していました。昭和4年の地図にはこの位置に神社マークがありませんので、神社の造営は案外新しく、強右衛門は参拝していなかったかもしれませんね。
強右衛門の道 野郷から明見まで
野郷から牧原への道は本宮山スカイラインが通る南北の尾根を過ぎると西に下ります。この辺りの道はかなり踏跡が残っていました。牧原からは石原→中金→明見と男川沿いの道をたどりました。中金付近の道が男川右岸の亀穴を通っていた可能性もありますが、今回は中金を通る道をたどりました。石原地内で男川左岸に渡り久保城の下を巻く旧道をたどりました。中金を通る道は、武田軍が作手から退去した奥平氏を追撃してきて男川を挟んで駐屯したとされる万足平の旧蹟から男川を渡って明見に入ります。強右衛門もここまで来れば一安心です。
強右衛門の道 牧原から野郷への旧道の分岐点 矢印が旧道
牧原から野郷への歩く道は、作手への車の道ができるまでの間は使われていたようなので旧道が思ったよりも良く残されていました。ここから石原までは車の道(新道)と旧道が一部合流しながら明確に残されていました。牧原は味方の地ですから強右衛門もほっと一息ですね。
久保城の下を巻いて通る旧道にも以前は男川を渡る橋が架かっていましたが、今は車の道と橋が近くに設けられ、以前の橋は無く旧道も使われなくなっていました。
強右衛門の道 明見地内の旧道 西から 左奥上に滝山城
明見知内の旧道の周辺には奥平氏と家臣団の屋敷地がありました。長篠城に籠城した奥平勢の多くはここから出征したとされます。
写真の道を手前に進むと その1で紹介した道になります。 ※その1は→こちら
ところで、長篠城を脱出した強右衛門の伝承には、 ①強右衛門と鈴木金七郎が別々の日に救援の使者として家康のもとに向った説 ②強右衛門の単独行説 ③強右衛門と鈴木金七郎同行説 の三説が昔から語られてきました。
長篠城址史跡保存館を訪れた際に「郷土」という新城地区郷土研究会/編集の季刊誌が置いてあり「強右衛門と金七郎、二人脱出説の検証」夏目 利美2007という論考が掲載されていましたので、要旨を紹介します。
①強右衛門と鈴木金七郎が別々の日に救援の使者として家康の元に向った説
天正三年五月十四日強衛門が脱出、十八日に鈴木金七郎が第二の使者として脱出して家康の元へ
※長篠設楽原戦の100年以上経過した後で唱えられた。
②強右衛門 単独行説
※奥平家系図 三河物語 金七郎の記載なし。
③強右衛門と鈴木金七郎同行説
強右衛門に金七郎が同行し家康の元に向い、帰り道で分かれて別行動をとった。
※軍記もの、日記等が何種類も存在するが、いずれも写本で流布されたものである。
その1で紹介した明見を出て岡崎に向かう旧道から、西の岡崎までは車の道となって旧道をたどることが困難になっている可能性がありますが、機会があれば改めて想定される道をたどってみたいと思います。