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伊勢・今徳城 遺構の残りは部分的だが意外に見どころがある。城主子孫の居宅が現存

2020-04-22 | 歴史

今徳城は三重県津市安濃町今徳にあります。今徳はコンドクと読むそうです。
 応永年中(1394~1428)北畠氏の家臣奥山平太夫貞兼が築城したと伝わります。城址北側は穴倉川と北大谷川が合流し安濃川となって流れ下り削リとった河岸段丘に築かれていました。
 今回は「三重の中世城館跡」三重県教育委員会1976と「改訂版 津の城跡50選」2016 を資料として出掛けました。
 城主奥山氏のご子孫の奥山邸がある場所を城地の中央付近だと考えると、かなり大きな城域だった可能性があるように思いました。


今徳城 台地の高低差で四囲を囲まれた中心に奥山邸があると想定してみる
 南側は東西に走る道、東側は台地の縁、北側は安濃川、西側は②の凹みを掘りに見立てると奥山邸がほぼ中心になりますが、どうでしょう。資料では東西150m、南北120mほどと推定しています。

 
今徳城 昭和24年の空中写真 地形はほとんど変わらないが一部の耕作地が住宅地になった
 奥山邸の「白壁」は現地で奥山邸を見ると西側の長い白壁が目立ったので記入しました。
資料で南光寺には城址碑と供養塔があると紹介されていましたので、見学に立ち寄りました。南光寺の西側の裏に城址碑と城主奥山常陸介供養塔が有りました。
 空中写真でAとしたあたりに、堀や土塁が残っていましたが、①のあたりは新築の集合住宅などが建っていました。


今徳城 城域西側の堀状地形② 昭和50年代に石積で農地化されたが堀状の痕跡は残る
 城域の西側を画すると想像した②の地形は安濃川から沢状の地形が入り込んでいたようですが、今は耕作地化されていました。②の堀城地形が往時どこまで入り込んでいたかはわかりませんが、昭和24年の時点では現状とあまり変わりはないようでした。


今徳城 ③の地形は一見すると堀のように見えるが、違うかもしれない
 空中写真を見ると、このあたりは耕作地化されていたようですので、住宅地化されるときに盛土がされ、埋め残されたのが③の堀状の地形になったのではないかと思いました。


今徳城 中央に堀⑤、右に土塁④、左に土塁⑥ 南から。今徳城の見どころ遺構です
 資料では大きな期待ができなかったのですが、現地の遺構は想像以上のものでした。土塁⑥と⑤の堀底の高低差は最大3mほど有りました。


今徳城 土塁、堀の断面を北端部の東から見る。手前に③から続く溝状の地形がある
 ④、⑤、⑥の遺構は北端で東に曲がっていました。往時は更に東に伸びていたかどうかは溝③や耕作地化で失われたためか不明でした。先程の堀状地形③はここでは溝状の地形になって安濃川へ接続しているように見えましたので③は排水溝と考えましたがどうでしょう。


今徳城 北辺の残欠土塁⑦と溝状地形
 ①の北辺には残欠土塁⑦が見られ、外側は崖下に切れ落ちていました。内側には浅い溝が続いていましたが、先程の溝③とつながっていていましたので、堀切ではなく排水溝と考えて良さそうでした。


今徳城 北辺の土塁外側は崖状に切り立っている。崖下には細い平坦地が有りその先は安濃川になる
 今徳城の立地は川に守られた台地が基本でしたが、土塁外側の崖は防御の施設として、とても有効だと思わせるものでした。切岸は防御の要といいますが、ここでは垂直の崖でした。


今徳城 城域北東辺 端部の地形 風化があるが垂直に削られていたように見える
 北辺の崖状の地形と同様に北東辺も切岸は垂直に削り取られてい多様です。ここから東側は低地になっていましたが、安濃川を利用した舟運があったとすれば、船着き場があったのかもしれないと勝手な想像をしてみました。

今徳城は見どころの遺構が一部が残され、周辺の地形と合わせて見学すると、往時の姿をある程度想像することができ結構楽しめました。
※今徳城の北東100mには連部城がありますので、同時に訪れることができます。
 連部城については改めて取り上げたいと思います。









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