城と歴史歩きを楽しむ

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伊勢・木田城 鈴鹿川の河岸段丘先端部に築かれ、北を向いた山路氏の城

2019-07-13 | 歴史
木田城は三重県鈴鹿市木田町にあります。 南に流れる鈴鹿川の河岸段丘が北側から鈴鹿川に流れ込む支流によって両側を削り取られた舌状の台地上に築かれています。
 木田城は伊勢の豪族神戸氏の家臣山路氏の一族が築いたとされます。山路氏は織田信長の伊勢侵攻の時、木田城東方2kmの巨城・高岡城で織田軍と対峙し守り抜いたとされます。ここ木田城がその時どのように働いたかは不詳ですが、城は鈴鹿川をバックにして北からの敵を意識した構造になっていました。
※今回も伊藤徳也氏の「再発見 北伊勢の国の城」を片手に出かけました。


木田城 国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
木田城の西側Aと東側Bは耕作地となり農道が通り城域の一部が改変されました。時が流れ今はAは更地状態、Bは部分的に耕作地が残る状態でした。城のある台地の南側は崖となって、崖下に集落が形成されていました。


木田城 大堀切と土塁 農道で断ち切られたようだ
木田城の見どころは東側の大堀切です。少し埋まっているようですが長さ50mに亘って続く堀と土塁は圧巻です。南端部は農道によって改変を受けていますが、本来は南端の崖まで伸びていたと思われます。


木田城 大堀切は、少し埋まっているようで上幅17m、下幅7mの箱堀のように見える
薬研堀ならば、現況よりも3m以上深かったのではないでしょうか。


木田城 H形に残る土塁が珍しい
曲輪は東西に土塁で仕切られて二つあったように見えましたが、武者隠しなどの遺構との関係で土塁がH形に残されていました。土塁は城の全体を囲うように西側、北側、東側に設けられていましたが南側は崖と集落、鈴鹿川で守られているためでしょうか、土塁はなかったようです。


木田城 城址北側には土塁で囲まれた東に口を持つ小さな曲輪が築かれていました。とても興味深い遺構で「再発見 北伊勢の国の城」によれば“武者隠し”となっています。北側の敵に備えての防御の要だったとおもわれました。


木田城 路肩の駐車スペースから農道を歩く
木田城に至る農道がありますが、軽トラの道ですので、路肩の駐車スペースに車を停めて歩きました。