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学生対象の雑誌がある。
いや、厳密には、現況を知らないので、『あった』なのかも知れないが。
ともあれ、私が高校生の頃は、雑誌名に学研なら『コース』で、旺文社なら『時代』が付いた。
ただ、三年生向けには『高三コース』に対して、『蛍雪時代』だったかと記憶している。
私は学研派だったので『高三コース』を毎月読んでいた。
それに、ある時『朝日新聞奨学生募集』のとじ込み葉書が付いていた。
それは、朝日新聞の販売店に住み込んで3年働けば、大学4年間の学費を出してくれ、それなりの給料も支給される、という内容だった。
それを見たとき『これや』と思った。
我が家は、倹約な家庭ではあったけれど、両親共に商売に精を出して、貧乏ではなかった。
だから、私の学費や生活費くらい余裕で出してくれる甲斐性はあった。
ただ、4人兄弟の長男である身としては、それに甘えてばかりでいいものかどうか、そのくらいの事は考えていた。
なので、瞬時に決めたのである。
そして父親に「おやっさん、これで東京行くわ」と。
しかし、それを今振り返るに、果たしてそれは、大学合格が決定した後なのか、それともそれ以前なのかが判然としない。
私が明治大学法学部の合格通知を受け取ったのは、もう3月に入ってからではなかったか?
これも厳密には、大学からの通知以前に、受験の帰途申し込んだ、在校生のバイトの様な『合否結果電話通知』という有料の仕組みによって、先にそれを知ることになる。
当時(1975年)は、当然ネット環境などあろうはずもなく、大学からの通知を待つか、発表時に現地に出向いて確認するしか方法がなかった。
そこで出来た仕組みが、依頼を受けた代理人が合否を確認した上で電話で知らせるというもの。
希望者は、受験番号と電話番号、そして代金を支払って契約成立となる。
当時、一体いくら支払ったか?
多分、500円程度?いや1000円?それはもう記憶にない。
いずれにしても、そんなものを申し込んだのには、【手応え】があったからだろうと思う。
ただ、それにしても、3月に入っていたのではないだろうか?
とすれば、もう『高三コース』を読むことはなかった筈。
では?
『受かったら』という前提で申し込んだものだろうか?
待てよ、受験日は2月のごく早い時期だったから、合否発表は2月内か?
とすれば、最後の『高三コース』で知ったのだろうか?
いずれにしても、そんな経緯で、私の東京生活は新聞配達青年から始まる。
ということは、一般の大学生の様に4月直前の上京では間に合わない。
なので、少なくともそれより半月くらいは先の旅立ちではなかったか。
大学生として花の東京へ出ていくのだからと、母が「背広くらいこうていけ」とある程度の金をくれた。
そこで私は、当時新居浜にもあった『VANショップ』で求めたジャケットと革靴を身に着けて新居浜駅のホームに立つ。
同級生の中では一番早い旅立ちなので、ごく仲の良かった友人たちが見送りに来てくれた。
その中には当時のガールフレンドもいる。
彼女は尾道の短期大学に入学が決まっていた。
従って、そこから遠距離恋愛が始まる。
つい湿っぽくなりそうなところを、気のいい仲間たちのお陰で陽気に別れることができた。
そして、仲間の列の後方では、駅まで車で送ってくれた父親が見守ってくれていた。
よく見れば、泣いているような。
後年、本人曰く、戦時中に出征する自身の長兄を見送った時を思い出したのだそうだ。
いよいよ列車が来て、それに乗り込む。
やがて列車が発車する。
段々とみんなの姿が遠くなる。
それと同時に私の、それまでの余所行き顔が消えてゆく。
ついに仲間と離れた。
もうじゃらじゃら言い合う高校生ではなくなった。
単純に寂しいというのではない。
敢えて例えるなら『よし!』という感覚か。
当時は、まだ国鉄と呼んだ時代。
橋はまだ掛かってない。
高松駅を降りたら、長い通路を歩いて高松港に着岸している宇高連絡船に乗る。
1時間ほどで宇野港に着く。
宇野線に乗り換えて、やはり1時間ほどで岡山駅に着く。
そこから新幹線に乗れば、後は東京駅だ。
学生の分際で指定席は贅沢だと考える質なので、当然自由席。
案の定、空席はなく、3時間ほどはずっと通路に立ったまま。
そう、当時は、新居浜駅から東京駅まで8時間ほど掛かった。
大仰に言えば、一日仕事だ。
だから、帰省する度、当分は東京に戻りたくないと思ったものだ。
風のように過ぎ去ってゆく窓外の景色を眺めながら、私は心の中で『星雲の志』という言葉を何度も呟いていた・・・
続く
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学生対象の雑誌がある。
いや、厳密には、現況を知らないので、『あった』なのかも知れないが。
ともあれ、私が高校生の頃は、雑誌名に学研なら『コース』で、旺文社なら『時代』が付いた。
ただ、三年生向けには『高三コース』に対して、『蛍雪時代』だったかと記憶している。
私は学研派だったので『高三コース』を毎月読んでいた。
それに、ある時『朝日新聞奨学生募集』のとじ込み葉書が付いていた。
それは、朝日新聞の販売店に住み込んで3年働けば、大学4年間の学費を出してくれ、それなりの給料も支給される、という内容だった。
それを見たとき『これや』と思った。
我が家は、倹約な家庭ではあったけれど、両親共に商売に精を出して、貧乏ではなかった。
だから、私の学費や生活費くらい余裕で出してくれる甲斐性はあった。
ただ、4人兄弟の長男である身としては、それに甘えてばかりでいいものかどうか、そのくらいの事は考えていた。
なので、瞬時に決めたのである。
そして父親に「おやっさん、これで東京行くわ」と。
しかし、それを今振り返るに、果たしてそれは、大学合格が決定した後なのか、それともそれ以前なのかが判然としない。
私が明治大学法学部の合格通知を受け取ったのは、もう3月に入ってからではなかったか?
これも厳密には、大学からの通知以前に、受験の帰途申し込んだ、在校生のバイトの様な『合否結果電話通知』という有料の仕組みによって、先にそれを知ることになる。
当時(1975年)は、当然ネット環境などあろうはずもなく、大学からの通知を待つか、発表時に現地に出向いて確認するしか方法がなかった。
そこで出来た仕組みが、依頼を受けた代理人が合否を確認した上で電話で知らせるというもの。
希望者は、受験番号と電話番号、そして代金を支払って契約成立となる。
当時、一体いくら支払ったか?
多分、500円程度?いや1000円?それはもう記憶にない。
いずれにしても、そんなものを申し込んだのには、【手応え】があったからだろうと思う。
ただ、それにしても、3月に入っていたのではないだろうか?
とすれば、もう『高三コース』を読むことはなかった筈。
では?
『受かったら』という前提で申し込んだものだろうか?
待てよ、受験日は2月のごく早い時期だったから、合否発表は2月内か?
とすれば、最後の『高三コース』で知ったのだろうか?
いずれにしても、そんな経緯で、私の東京生活は新聞配達青年から始まる。
ということは、一般の大学生の様に4月直前の上京では間に合わない。
なので、少なくともそれより半月くらいは先の旅立ちではなかったか。
大学生として花の東京へ出ていくのだからと、母が「背広くらいこうていけ」とある程度の金をくれた。
そこで私は、当時新居浜にもあった『VANショップ』で求めたジャケットと革靴を身に着けて新居浜駅のホームに立つ。
同級生の中では一番早い旅立ちなので、ごく仲の良かった友人たちが見送りに来てくれた。
その中には当時のガールフレンドもいる。
彼女は尾道の短期大学に入学が決まっていた。
従って、そこから遠距離恋愛が始まる。
つい湿っぽくなりそうなところを、気のいい仲間たちのお陰で陽気に別れることができた。
そして、仲間の列の後方では、駅まで車で送ってくれた父親が見守ってくれていた。
よく見れば、泣いているような。
後年、本人曰く、戦時中に出征する自身の長兄を見送った時を思い出したのだそうだ。
いよいよ列車が来て、それに乗り込む。
やがて列車が発車する。
段々とみんなの姿が遠くなる。
それと同時に私の、それまでの余所行き顔が消えてゆく。
ついに仲間と離れた。
もうじゃらじゃら言い合う高校生ではなくなった。
単純に寂しいというのではない。
敢えて例えるなら『よし!』という感覚か。
当時は、まだ国鉄と呼んだ時代。
橋はまだ掛かってない。
高松駅を降りたら、長い通路を歩いて高松港に着岸している宇高連絡船に乗る。
1時間ほどで宇野港に着く。
宇野線に乗り換えて、やはり1時間ほどで岡山駅に着く。
そこから新幹線に乗れば、後は東京駅だ。
学生の分際で指定席は贅沢だと考える質なので、当然自由席。
案の定、空席はなく、3時間ほどはずっと通路に立ったまま。
そう、当時は、新居浜駅から東京駅まで8時間ほど掛かった。
大仰に言えば、一日仕事だ。
だから、帰省する度、当分は東京に戻りたくないと思ったものだ。
風のように過ぎ去ってゆく窓外の景色を眺めながら、私は心の中で『星雲の志』という言葉を何度も呟いていた・・・
続く
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