本来、ここ「宝島のチュー太郎」ブログでは、その一人称を「私」としておりますが、この文章は広くチラシとして配布するつもりの原文として作成しますので、そこでの「僕」として投稿いたします。
昨年の暮れも押し詰まった或る日、たっくんが「チュー太郎」にやってきて、「やっちゃん〇mくぁぺけくたななm・・・」と宣います。
すみません、たっくんはちゃんともの言うたんですが、早とちりの僕は「やっちゃん、次の区長をしてもらえんやろか」と解釈したのです。
とうのも、区長、組長は順繰りに回ってくる仕組みで、その役目を長く老母に任せてきた僕は、「次は自分が出ていかなあかんやろな」と覚悟していたので、コッテリ(しんちゃん風)そう受け止めてしまったのですが、どうやらそれは、区長ではなく、役員の一本釣りだったのです。
「まあ、順番なんやろけん、やらなしゃあないわいな」と言えば、たっくん「役員が〇ぺけやっちゃばどうのこうの・・・」すみません、これも一人合点の僕が「ん?区長は役員のひも付き人事なんか?」と。
するとたっくん「うん、やっちゃばsぜんりゃくおふくろsめほprなl」みたいな、よぉわからん言葉の羅列。
ここで、ちゃんとたっくんの説明をしとかなあきまへんな、すぐ近所の5歳くらい年少のガキ仲間。
今では立派な社長さんですし、浮島太鼓台にはなくてはならん人材に成長した頼もしい後輩ですが、その幼馴染の関係から、「やっちゃん、たっくん」の仲なんです。
そんなこんなで、ちょっとした誤解から再開した久しぶりの自治会活動。
実は、いま63歳の僕が30歳そこそこでいきなり総務部長を引き受けたことがありまして、実に30年ぶりの自治会活動です。
当時、役員だった人達は皆、親の年代で、既に鬼籍に入られています。
片や今の自治会長、副会長さんら3名とも、異例とも思える若さで(勿論、僕より年少)、会議もシステムも実にスマートでスピーディー、感心しきりです。
ここまでが前段、自治会活動をしなければ嵌まり込まなかった自身の葛藤をこれから吐露いたします。
そも、青年部のある子から「やすおくん、かかんでええけん太鼓に出てきてん」と何度も言われていたのです。
こいつ、小癪にも、親のようなおじいを捕まえて「やすおくん」と呼びます。
「オレはジャニーズか」
この後、結構な「面白い文章」を打ち込んだのですが、哀しいかな、定休日の自室でのモバイルwifiのせいか、それらが空中に飛んで消えてしまいました。
これは、その環境と、不慣れなPCの使い勝手の悪さのせいです。
片仮名を打つにも不便なミニノート、まあ、慣れるしかない訳ですが。
なので、これからは、メモパッドに打ち込み、コピペすることにします。
どこまででしたっけ?
あ、小癪なガキの要請の続きです。
「他所の太鼓台はしゃんとした年寄りがおるのに、浮島だけはそれがおらん」と。
「やかましい、ほないなこと、おまえらで勝手になんとかせえ」と突っぱねたのですが、実は心の底に淀みが生じました。
数年前からその噂は耳にしていました。
ただ、僕はもう太鼓台から離れて20年近くになります。
今更、何をすればいいのですか?
ここで、ハナシはもっと遡ります。
僕が当地に転入してきたのは、昭和38(1963)年、小学一年生の夏です。
当時、自治会には「愛護班」という組織がありました。
幼い僕は「あいごはん、そうか、愛あるご飯を食わせてくれるんか」と思っていました。
そうです、ただのアホでした。
そこに、今は亡き、岡田学さんというおいやんがいました。
今では存在しない自治会館管理人をしていた岡田のおいやんは、ことあるごとにこんなアホウな僕たちを導いてくれました。
初めて、小学生のソフトボールチームを作ったり、大島にキャンプに行ったり、クリスマス会をしたり・・・
商売家の息子は、まず、どこにも遊びに連れて行って貰えません。
ですから、岡田のおいやんがおらんかったら、あんなに楽しい小学校生活は無かったと思います。
その義弟の佐々木節夫さんは、それらのフォローをしてくれましたし、義兄の亡き佐々木繁明(漢字が違ってたらすみません)さんはそのバックボーンでした。
僕は、その恩を忘れません。
結句、お返しすべきは、浮島自治会に対してです。
その後、5年ほど東京で遊んだ後、当地に舞い戻ってきました。
その訳を知りたければ、「チュー太郎」においでください。
こと細かくご説明いたします。
それからは、浮島壮青年部活動です。
浮島ソフトボールチームにも所属しました。
町太鼓台もかいとりました。
そうです、僕が30半ばまでは、町太鼓台のかき夫だったんです。
小学校の頃「町のタイヤはヒコーキ車やけん早いんや」などという訳のわからん自慢をしおうたもんです。
こわかいしになって、ようやっと法被に袖通して、憧れの町太鼓台をかいとったんです。
せやから、僕の半分はまだ町太鼓台です。
それから、「やっぱり浮島も太鼓台作ろ」ということになったのが20数年前ですか?
創建の年、「どこから湧いてきたんや?」というほどの数のかき夫が来ました。
「町太鼓台はなじめんけど、浮島なら」という人たちが多かったのだろうと解釈しました。
そんときの軽かったこと。
八幡さんの境内を一周した後、差し上げが何度も何度も。
そんとき、なんと、自分の手からかき棒が30センチは上がったと記憶してます。
「ああ、太鼓台の醍醐味はこれや!」と思うたもんです。
その浮島太鼓台を芯になって作った人が実谷さんや稲見さんです。
僕?
正直言います、逃げました。
まだ、「おれは町太鼓台や」という気持ちが捨てられんかったんです、すみません。
その実谷さんが、総会で太鼓台について意見を言ったことに対して、反論はいいとして、突き飛ばす奴がおったんです。
「ああ、これか」と思いました。
先に言うたように、どっかおかしな方向に青年部がいっとる噂はきいとりました。
せやけど、太鼓もかかん、自治会にも顔出さん僕には「対岸の火事」でしかなかったんです。
それが、目の前でこれやられて、特に問題ない体で会が進む状況は「普通やない」と思うたんです。
これで、肚決めました。
あかんもんはあかんやろ!
それを止めることができんのはおかしいやろ!!
岡田のおいやんに恩返しするんはこれやろ?
じゃあ、具体的に何する?
闇討ちは汚いし、刺したら臭い飯食わなあかんし・・・
いや、基本的に僕は好戦的な男ではありません。
まあ、鶴田浩二と池部良は好きですが。
ほたら、取り敢えずは出ていこかと。
その代わり、朝と晩だけです。
つぶれかけの酒屋の親父としては、商売ほったらかすわけにはいかんので、それ以外の時間帯にかき棒にまがりに行きます。
そこで何が起こるかつぶさに見てみたいと思うております。
「63にもなって、なにしとん、おまえ」と、正直、思わんでもないです。
ほら、気分的にもしんどいもん。
どっちにもええ顔ふっとるほうが楽やもん。
せやけど、「ええ人」よりなにより「どっちでもええ人」にはなりとうないんです。
本音を言います。
僕に何かが起こったらその時、何かが動くと思うとります。
実は、芯になって浮島太鼓台を運営してきた善良な後輩たちがどんどん離れていっとんです。
それはアカンやろ?!
先輩、ご同輩、また、善良で良識ある浮島自治会員のみなさま、今年こそ、創建の年の如く出てきてください。
かき棒まがるのさえも大変なくらい出てきてください。
いつでも脇棒譲ります。
僕は中棒で結構です。
ま、冗談はさておき、ここまで書いた先のことは十分想定済みです。
まず、「浮島自治会の恥を晒してなにしとん、即刻削除してくれ」と言われるでしょう。
そのメンツも頭に浮かびます。
恥?
恥というなら、一昨年のあのぶさいくな喧嘩にはかなわんでしょう、ふはわるい。
おせげえにせんでえんです。
喧嘩の弱い浮島太鼓台で結構。
その分、タイヤなしでも、しゃんと肩入れて、腰で房割るかき方しょうや。
内部を統制できん方がなんぼかふはわるいわ!
浮島が垣生からえせらわれとんのも知っとります。
義父の関係から、親しくもの言うてくれる本郷のたけにいちゃんはこう言いました。
「やすおくん、浮島は昔、寄留地いうて言われよったんや」
そうです、昔は砂地で狸しかおらんかったらしいですわ。
おもろいやないですか。
50年もこの地におってください。
ほんなもん、屁でもないなりますわ。
嫁は垣生から貰いましたし、今では、みんなええお客さんです。
もいっぺん、言います。
大したことないないんじゃけん、おせげえにせんでえんです。
そのうち溶け込みます。
とはいえ、きかん奴らもおります。
ここまで大見得を切る以上、それは覚悟の上です。
喧嘩したら、多分このロートルは負けるでしょう。
そこはそれ、ロートルなりの培ってきた知恵と人脈があります。
このブログ発信もその一環です。
こいつをSNSにもリンクします。
そして、何かあったら(されたら)今度は、伏せとる実名と動画を流します。
各所にカメラも設置しました。
今の時代、数万円で簡単に素人が一括監視及び録画が出来るんです、便利になりました。
それと、武道にに秀でたごく親しい友人の武道繋がり人脈を辿って警察にも相談します。
これまで、一人でなんとかしようとして嫌になって離れていった後輩くんたち。
「祭りは旅行に出る」なんて言うなよ。
一緒に、浮島太鼓台を、手の先から30セン浮かしてみよや・・・
追記
お世話になった方々の名は実名とさせていただきました。
それと、コメントは受け付けますが、ここを討論の場としたくはありませんので、お返事はいたしません。
悪しからずご了解ください。
浮島自治会の不都合な真実 その2
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