天皇陛下が今日パラオのペリリュー島に慰霊のため渡られるそうです。
白爺はペリリュー島と聞くと終戦後 父が話していた言葉を思い出します。
父は当時パラオの南洋庁に勤めていました。
サイパン・テニアンが玉砕して戦局が厳しくなり、丙種のため兵隊にゆかなくて良い父にも現地召集の命令が下ったそうです。
入隊したのは「照第7768部隊」だそうです。
この部隊は歩兵第15連隊で西南戦争後群馬県高崎市に創設された連隊で、1944年(昭和19年)4月に満州チチハルからパラオ島に派遣されたそうです。
「フリー百科事典」で調べました。
写真は父が陸軍1等兵として俸給を貰っていた時の「俸給支払證票」です。
昭和19年9月分からとなっているので、この時に入隊したのでしょう。
父の話によると、入隊してからの毎日は爆弾を抱えて戦車の下に飛び込む訓練ばかりだったそうです。
そして一部の部隊がペリリューに渡ったが、米軍が上陸してしまったので父たちの隊は本島の守備になってしまったそうです。
俸給票には昭和20年8月復員、俸給支給停止の記録が残っています。
フリー百科事典」を見ると、
1940年(昭和15年)8月 - 師団とともに満洲移駐となり、チチハルに駐屯
1944年(昭和19年)2月 - 南方派遣令
- 4月24日 - パラオに到着、第3大隊(大隊長千明(ちぎら)大尉)のみペリリュー島の歩兵第2連隊に分遣
1945年(昭和20年)8月31日- 軍旗奉焼。
と書かれていました。
父は陸軍に入るまでは南洋庁に勤務していました。
テニアン島からパラオに渡って和服裁縫をしていたのですが、戦争で仕事がなくなったため南洋庁で臨時雇いの仕事をしていたそうです。
そして、入隊する1か月前にようやく「雇員」になったようです。
白爺達は、昭和19年4月にテニアン島から福井県へ引揚てきましたが、父の給与は毎月引揚先に送られて来ました。
裏書を見ると、本俸が35円ですが加俸38円臨時家族手当25円戦時勤勉手当3円等々で101円38銭の俸給を貰っていたようです。
このほかボーナスや〇〇手当などの名目で振り込まれてくるものもあり、母は随分助かっていたようです。
父は終戦後の南洋庁を、生き残った少ない人で始末し、昭和21年2月21日最後の引揚船「駆逐艦響」引き揚げてきました。
引き揚げ後厚生省から勤務の話が来たのですが、母が末期の結核を患っていたので断っていました。
その後1か月で母は亡くなりました。
白爺は、パラオやペリリューと聞くとこの頃のことを思い出します。
天皇陛下のお蔭で、久しぶりに父母のことを想い出しています。
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