ねがわくば コロリ観音 虫の声
「縁は異なもの味なもの」白爺とEmii、テニアン時代は無関心の二人が、親達がお付き合いしていたこともあったのでしょう、気がついたら家庭を持っておりました。
本来なら、正式な結婚式を挙げるべきでしょうが、引揚者で安サラリーマンの白爺は、金沢講習所の親友とその彼女立会いのもと、若狭高浜の氏神様境内で拍手をうって結婚式に代えました。
このことは、白爺の最高気がかり事になっていますが、メイファーズ。
テニアン島では、子供が出来ても孫が出来ても関係なく、チャンスがきた時に結婚式を行う風習?が見受けられますが、白爺たちはテニアンの風習を先取りしているのかもねー。
結婚式を挙げなくても、幸せな毎日が続きました。
家も高浜から小浜の寮に変わり、長女が生まれました。
この長女は、沖縄出身の大学同期生と結婚して、今沖縄でそれなりの会社を経営しています。
最近二人は、四国八十八ヶ所を全部歩いて回るといって出かけているので、我が家は、その都度留守番のために沖縄に行っています。
3年後には、次女も誕生。
この次女も鳥取出身の大学同期生と結婚し、清瀬市でイベント企画会社を経営しています。
小浜の勤務も10年経過しました。
父はじめ兄弟は全部東京に転居してしまったので、白爺も東京転勤を希望したところ、運よく希望が叶いました。
転勤してきた局は池袋だったのですが、3年後には大手町の管理部門に変わることになりました。
写真は「電気通信局運用部電信課」当時写したものです。
法律・規則・規程等‥今までは余り開いて読むことは無かったのですが、読んだり決めたりする仕事に変り、白爺は苦労しました。
それでも1年たてば、何がどこに書いてあり、どこに格納されているということまで把握することができるようになり、自分の担当ではお役人の端くれ位十分務まるようになりました。 努力!努力!
少し自慢してしまいゴメン
余談!
”努力という字は、女性が子供を産む時の力を言うのだそうです。”
(女の又には力あり)
それだけの力を入れて物事に当たれば、何事も出来るのだそうです。
深川扇橋の小さなアパートに間借りをしていたのですが、子供が大きくなったので寮を借りるよう申請しました。
しかし、東京では寮を借りることが無理だと分かり、思い切って家を建てることに決めました。
周りは全て草原なので、自分の買った土地を探すのに、苦労した思い出がありますが、今では池袋から急行で二つ目の駅、渋谷や新木場の駅へは直通で行けますし、なかなか手に入らない住宅地になってしまいました。
新築は、昭和36年のことでした。
その後、中央電報局へ転勤になりました。
写真は、NTTの副社長を案内して、説明をしているところです。
「目管反対(目標管理反対)・順法闘争(決められた仕事以外はしない)」等と叫ぶ一部の労働組合員を相手にしたり、民営化実施に対して苦労をしたりしましたが、楽しく仕事をさせてもらいました。
職場では、厳しい顔をしていましたが、家に帰れば良いお爺ちゃんです。
一緒に風呂に入ろうと、孫達によくせがまれていました。
一緒に風呂に入っていた孫も、今では○○省に奉職している者もいます。
この写真は、中国から来られた視察団に、日本の電報事業を説明している写真です。
国を代表していると自覚しているので、風呂の中の顔とは少し違うはずです。
この定期券が、リタイヤする時に使用していた定期券です。
白爺の宝として、大事にアルバムに保存してあります。
光陰矢の如く⇒気がついたら勤続40年の大台に乗っていました。
天下りはしないことにしたので、これだけ長く勤めることが出来ました。
新聞で、「天下り反対」と騒いでいる人には「それなら年金が手に入るまで勤めさせろ」とお役人の代弁をしておきたい気持ちになりました。
40年のガンバリに対して頂戴した感謝状です。
関係の無い人には、ただの紙切れですが、白爺にとっては宝物!
苦情マニアは、白爺が直接対応することにしていたので、夜の夜中に自宅で長時間やり取りした苦労も、この紙の中には隠されていますから。
白爺は、仕事をしている時には時間が無くて帰れなかったテニアン島にも、年に2回ずつ帰り、島の人たちとのお付き合いも多くなりました。
Emiiも南洋関係の団体役員を務めたり、それなりに二人は余生を楽しみつつ、平々凡々と月日を過ごしていきました。
ところが退職して17年目(2006.6)。
テニアン島に旅行するので、向こうで病院に入ることの無いように、白爺が健康診断をしてもらったところ、結腸癌が発見されてしまいました。
即刻入院を命ぜられたので、チケットのキャンセルやら大騒ぎをしながら、1ヶ月入院をして大手術。
癌は切除してもらいました。
あれから2年が過ぎました。
毎月行う精密検査は、今のところ転移もなく順調に回復し、旅行を楽しんでいます。
ただ、昨日のエコー検査で「6ミリの胆石が一つある。しかし、症状が出なければこのままでOK]といわれて来ました。
77年間掛けて、「銭を貯めずに石を貯めた」ようです。ヤレンなー!
国からは、もう「後期」の名前をもらっていますが、新聞では75歳以上の高齢者は1321万人いるそうです。
内訳は、男性498万人・女性823万人と報じているので、出来ることなら「Emiiより1週間前に、我が人生の幕を引いてほしい」と願っています。
さて、カテゴリー「自分史」でも、同じようなことを書いたかも?。
「歳をとると同じことを何回も言うようになる」と聞いています。
白爺も、そろそろアルツのハジマリですかねー??。
言われる前に、この辺で思い出を断ち切ります。 By
「縁は異なもの味なもの」白爺とEmii、テニアン時代は無関心の二人が、親達がお付き合いしていたこともあったのでしょう、気がついたら家庭を持っておりました。
本来なら、正式な結婚式を挙げるべきでしょうが、引揚者で安サラリーマンの白爺は、金沢講習所の親友とその彼女立会いのもと、若狭高浜の氏神様境内で拍手をうって結婚式に代えました。
このことは、白爺の最高気がかり事になっていますが、メイファーズ。
テニアン島では、子供が出来ても孫が出来ても関係なく、チャンスがきた時に結婚式を行う風習?が見受けられますが、白爺たちはテニアンの風習を先取りしているのかもねー。
結婚式を挙げなくても、幸せな毎日が続きました。
家も高浜から小浜の寮に変わり、長女が生まれました。
この長女は、沖縄出身の大学同期生と結婚して、今沖縄でそれなりの会社を経営しています。
最近二人は、四国八十八ヶ所を全部歩いて回るといって出かけているので、我が家は、その都度留守番のために沖縄に行っています。
3年後には、次女も誕生。
この次女も鳥取出身の大学同期生と結婚し、清瀬市でイベント企画会社を経営しています。
小浜の勤務も10年経過しました。
父はじめ兄弟は全部東京に転居してしまったので、白爺も東京転勤を希望したところ、運よく希望が叶いました。
転勤してきた局は池袋だったのですが、3年後には大手町の管理部門に変わることになりました。
写真は「電気通信局運用部電信課」当時写したものです。
法律・規則・規程等‥今までは余り開いて読むことは無かったのですが、読んだり決めたりする仕事に変り、白爺は苦労しました。
それでも1年たてば、何がどこに書いてあり、どこに格納されているということまで把握することができるようになり、自分の担当ではお役人の端くれ位十分務まるようになりました。 努力!努力!
少し自慢してしまいゴメン
余談!
”努力という字は、女性が子供を産む時の力を言うのだそうです。”
(女の又には力あり)
それだけの力を入れて物事に当たれば、何事も出来るのだそうです。
深川扇橋の小さなアパートに間借りをしていたのですが、子供が大きくなったので寮を借りるよう申請しました。
しかし、東京では寮を借りることが無理だと分かり、思い切って家を建てることに決めました。
周りは全て草原なので、自分の買った土地を探すのに、苦労した思い出がありますが、今では池袋から急行で二つ目の駅、渋谷や新木場の駅へは直通で行けますし、なかなか手に入らない住宅地になってしまいました。
新築は、昭和36年のことでした。
その後、中央電報局へ転勤になりました。
写真は、NTTの副社長を案内して、説明をしているところです。
「目管反対(目標管理反対)・順法闘争(決められた仕事以外はしない)」等と叫ぶ一部の労働組合員を相手にしたり、民営化実施に対して苦労をしたりしましたが、楽しく仕事をさせてもらいました。
職場では、厳しい顔をしていましたが、家に帰れば良いお爺ちゃんです。
一緒に風呂に入ろうと、孫達によくせがまれていました。
一緒に風呂に入っていた孫も、今では○○省に奉職している者もいます。
この写真は、中国から来られた視察団に、日本の電報事業を説明している写真です。
国を代表していると自覚しているので、風呂の中の顔とは少し違うはずです。
この定期券が、リタイヤする時に使用していた定期券です。
白爺の宝として、大事にアルバムに保存してあります。
光陰矢の如く⇒気がついたら勤続40年の大台に乗っていました。
天下りはしないことにしたので、これだけ長く勤めることが出来ました。
新聞で、「天下り反対」と騒いでいる人には「それなら年金が手に入るまで勤めさせろ」とお役人の代弁をしておきたい気持ちになりました。
40年のガンバリに対して頂戴した感謝状です。
関係の無い人には、ただの紙切れですが、白爺にとっては宝物!
苦情マニアは、白爺が直接対応することにしていたので、夜の夜中に自宅で長時間やり取りした苦労も、この紙の中には隠されていますから。
白爺は、仕事をしている時には時間が無くて帰れなかったテニアン島にも、年に2回ずつ帰り、島の人たちとのお付き合いも多くなりました。
Emiiも南洋関係の団体役員を務めたり、それなりに二人は余生を楽しみつつ、平々凡々と月日を過ごしていきました。
ところが退職して17年目(2006.6)。
テニアン島に旅行するので、向こうで病院に入ることの無いように、白爺が健康診断をしてもらったところ、結腸癌が発見されてしまいました。
即刻入院を命ぜられたので、チケットのキャンセルやら大騒ぎをしながら、1ヶ月入院をして大手術。
癌は切除してもらいました。
あれから2年が過ぎました。
毎月行う精密検査は、今のところ転移もなく順調に回復し、旅行を楽しんでいます。
ただ、昨日のエコー検査で「6ミリの胆石が一つある。しかし、症状が出なければこのままでOK]といわれて来ました。
77年間掛けて、「銭を貯めずに石を貯めた」ようです。ヤレンなー!
国からは、もう「後期」の名前をもらっていますが、新聞では75歳以上の高齢者は1321万人いるそうです。
内訳は、男性498万人・女性823万人と報じているので、出来ることなら「Emiiより1週間前に、我が人生の幕を引いてほしい」と願っています。
さて、カテゴリー「自分史」でも、同じようなことを書いたかも?。
「歳をとると同じことを何回も言うようになる」と聞いています。
白爺も、そろそろアルツのハジマリですかねー??。
言われる前に、この辺で思い出を断ち切ります。 By
奥様との出会いもご紹介いただき、御馳走様です!!(笑)
白爺さんは私が入社した頃は二託にいらしたんでしょうか!?
私は初めから受配で蔵前でも配達とは縁がきれませんでした。(苦笑)
それも、今では懐かしくいい思い出になっています。
大病をなさって、健康のありがたさが一番身にしみたのではないでしょうか。。。
私も場所こそ違え癌に犯され術後もう少しで5年になり健康のありがたさを痛感しております。
今朝もちょっと寒かったですが、これから布団が恋しい季節に入りますね。
そろそろ1年分の写真でも整理しましょうか!?
とは言っても、なかなか重い腰があがりません。。。(苦笑)
もう少しで無罪放免ですねー。羨ましい!
白爺は後3年。まあ歳には不足が無いのですが。
HITおじさんの新入社員当時は、「加入電信部」
にいたのでしょう。
表計算に初めて興味を覚えたのも、おじさんのお蔭です。有難うございました。
奥様とのご結婚から今までの貴重なお写真とコメント、お仕事も精一杯、ご家族も大切にされてこられ、ご病気ともしっかり向き合われるご様子がリアルに伝わってまいりました。「激動の昭和の時代」を支えられてこられたのですね。
お勤めされていた頃の似顔絵のお上手なこと、寄せ書きにも親しみがこもっていますね。数々のお写真や当時の定期券など、その時々の思い出をとても大切にされ、ご自分を振り返られるのって、素敵だと思います。
私も(今更遅いですが)何事も大切に、いつか胸を張ってきちんと自分を省みることのできる人間になれるように心掛けたいと思います。
白爺さまのブログはいつも楽しくて、とてもお勉強になります
遠慮して投稿したのに、過分なコメント頂き有難うございます。
寒くなってきたので、家の中に篭り勝ちになりそうです。
投稿のネタがなくなりそう・・。
エミちゃんとの出逢いはテニアンで別れた後もこうして又めぐり合えたのは、やはり赤い糸のご縁があったということでしょう。これもまた、私にとって教科書にしないといけない部分ですな。