川口市金山と砂鉄 ・・鋳物の街の源流
川口市金山町の歴史を辿ってみる。
金山神社
・・・川口の鎮守は川口神社であり、その主祭神は”金山彦命”と言われる。川口の祭りは、「たたら祭り」(=川口祭り)とも言われ、夏場、8月の始めに開催される。そして、そのメーンイベントは、花火とともに、 「たたら流し踊り」.
この踊りは・・・”土(粘土)でタタラを作り、砂鉄を水で選別するという鍛冶を行う際の手順を連想させるという” ・・・このことからも川口は、”たたら”を鍛冶の神や鋳物の神としても信仰している様子が伺える。 ・・・「金山彦神社」
この奉納桶は、鋳物?!
・・・たたらの炉を作るには、良質の粘土が必要とされます。この粘土は、川口で荒川と合流する"芝川”が運んできたようです。
川口神社 ・・・氷川神社
今でこそ、人口が40万を裕に超し、50万に届こうとしているこの都市は、”さいたま市”が大合併をする前は、埼玉県で最大の人口を誇る都市であった。だが、この人口密度の多さは、調べて見るとそれほど昔からではない。
・・・ *川口は、2014年現在人口が57万人を越したそうです。上記は筆者の過去覚えで、さいたま市が合併で出来る頃の記憶でした。
江戸時代に、広重の浮世絵に描かれいる、日光御成街道の川口宿は、”川口の渡し”で、対岸の岩淵宿とセットになり、一つの宿とされていた。 ・・・これは想像だが、荒川の東遷前の江戸以前の入間川の時代、川筋はもっと西の、今の赤羽駅辺りを流れていたのではないかとも思う。
広重の浮世絵の”川口の渡し"の時代に、”川口は金山町と本町におよそ300戸・・"と記され、周辺はのどかな田園が広がっていたという。"川口の渡し”の文字がきのところが”善光寺”、その手前の三軒見える小屋が、”砂鉄を採る小屋”、筏は、名栗から深川までの、建築資材と燃料でしょうか。名栗の"たたら山”で作った炭が筏で運ばれ、川口で荷下ろしされたことは、想像に難くありません。
その後の人口の急増は、「キューポラの街」鋳物産業の隆盛と、荒川で僅かに隔てたのみ、都内への近接という事での”ベッドタウン”としての利便性が後押ししたものと思われる。
では、何時の頃から、川口が"砂鉄"の街として栄えたのか?
かっての砂鉄採取場 ・・今は自動車教習所 遠景の橋は京浜東北・高崎・宇都宮JR各線 ・・・
・「川口宿金山町および善光寺(川口市)の下を流れて荒川に合流する芝川で、古代の秩父川(別名荒川)であり ・・ 鍛冶集団河越氏一族は良質の砂を求めてこの入間川のほとりの川口へ移住したのである」
かっては、身近に”善光寺参り"が出来るとあって、賑わった川口善光寺。火事で、改装したため”昔の面影”無し。
・「鍛冶師の葛西氏 隅田川流域は古代より砂鉄を採取していた土師族の居住地なり。沙石集に「故河西ノ壹岐ノ前司(清重)と云しは、秩父のすえにて、弓箭の道ゆりたりし人なり」と見ゆ。葛西氏が秩父氏の一門を称していたのは、東国の鍛冶統領秩父氏の配下であって、川越氏、稲毛氏、江戸氏、豊島氏等と同じく鍛冶集団である」
・・・沙石集・しゃせきしゅう・は、鎌倉時代中期、仮名まじり文で書かれた仏教説話集。十巻、説話の数は約150。無住道暁が編纂。弘安二年(1279)に起筆、同六年(1283)成立。・・日本古典文学大系(岩波)85、に収録
・葛西氏の名は、★源平盛衰記に「武蔵国住人葛西三郎重俊」と。★吾妻鑑卷一に「治承四年十一月十日、武蔵国丸子庄をもって葛西三郎清重に賜ふ」
・名栗地方の木材を西の川で流す。西の川は、名栗川(入間川)を意味し、この川の下流流域に川西族とも称して存在した。やがて、彼等は”河西”になり"葛西"に転じた。 ・・・豪族"葛西氏”は、秩父氏の末裔支族と言われる。
上記の文献の寄せ集めを、沙石集成立の1283年を起点とし、家康の江戸入府までを、時系列に整理し直して、再構築すると以下のようになる。
*名栗川(=入間川)流域にいた、桓武平氏の末流秩父平氏の支族が、鍛治氏の拠って立つ砂鉄鉱床を求めて、入間川下流域に展開した。その場所は、入間川(=墨田川)と江戸川(=古利根川)の間の地帯と思われる。 ・・・葛西一帯、葛飾とも呼ばれる。
*鎌倉幕府成立期に、葛西氏は、頼朝に与して戦功を上げ、奥羽の太守として移封する。
その時、鍛治氏の職業集団は、残ったのか移封に付き添ったのかは不明。川口が、葛西氏の領分だったのかも不明。
*移封に伴って、空白になった葛西の領土は、桓武平氏の同族・千葉氏(平良文系流)が領分する。
*この頃、桓武平氏の系流・秩父平氏の氏族の河越氏(=畠山氏と分流)が、川口・金山に砂鉄を求めて移住する。・・・恐らく一族の一部、”たたら”を生業とする集団。
この集団は、”たたら”の技術と鉄鍛冶の技術は優れていたのであろう。
この”たたら”河越氏は、川口に移住前は、砂鉄の川、入間川、小畦川、越辺川流域に展開していたと思われる。
*広重の浮世絵”川口の渡し”の所に、渡し船は一艘、他多数の筏流しが描かれている。川沿いに、善光寺が見えるが、信州まで行かなくても、"善光寺参り”が出来ると言うことでたいそうな人気であったという記述があり、その善光寺前に、砂鉄取りの小屋が何軒も軒を連ねていたという。
この砂鉄の採取は、江戸時代の荒川の東遷以降、水流が増して思わしくなかったのではないだろうか。 ・・・大正時代の川口の鋳物の製造には、「出雲より砂鉄を取り寄せた・・・」の記述が見受けられる。