ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

お年取り魚  ・・・ 鰤、鮭

2014-12-25 10:57:21 | グルメ

お年取り魚    ・・・ 鰤、鮭


○年取り魚とは?・・ 大晦日の夜,越年に吉例として用いられる魚。サケ・ブリなど。  ・・Weblio辞書

田舎から出て、東京近郊に住み着き、早三十年を少し越してきました。
食事には、普段余り拘らない方ですが、晦日の夜の食事には多少違和感を覚えておりました。・・・というのは、田舎の大晦日の夜の食事は、鰤の塩焼きか照り焼きに決まっており、関東流の”年越しの蕎麦”の風習は、何故か馴染めません。
田舎は、信州の伊那谷です。

 

天竜川・遠景の橋は・水神橋・(南原橋から)

雑学
そこで、雑学的に、晦日の”鰤”のことを調べて見ました。
すると、”お年取り魚”のことが出ています。魚の種類は、鰤と鮭です。両方とも縁起の良い魚のようです。
○鰤は ・・稚魚から成魚までの魚の成長に応じて異なる名前で呼ばれる。 ... ワカシ:イナダ: ワラサ: ブリ ・・この名前の変遷で出世魚と呼ばれます。
○鮭は ・・海から山、山から海を行き来するその生態から、 歳神の使い、とされる縁起魚だそうです。
晦日の年取り魚の実例は、どう言うわけか信州に多く見られます。一般的に信州は、鮭文化と鰤文化があり、境界は、 北信は鮭、中、南信は鰤を”年取り魚”としているようです。
 ・・・以上の食文化は、なにも信州に限った事ではなく、全国でも見られます。しかし、こういう食文化の伝承は、全国では、そんなに色濃くは残っていないようです。
 ・・・ここで長野県と言わず、あえて信州というのは、つまらない”こだわり”からですが、その経緯は ・・・昔県庁所在地が松本であったとき、県庁が焼けてしまい、やむなく臨時的に県庁が長野へ移りました。県の中央は松本の方ですから、松本や伊那の住民は、長野市へ移った長野県庁を・「火事場泥棒」と呼び、松本に県庁が戻ることを希望します。北信東信の住民は、せっかく県庁が長野へ来たので、そのままにしようと希望します。県庁の綱引きの対立です。この県の呼称が信州だったら、そんなに感情的な対立も起こりません。そんなわけで、県民は南も北も、地元を信州と呼びます。地元の国立大学も”信州大学”です。・・ちょっと脱線の雑学。

鮭文化


奈良時代頃から戦国時代まで、鮭の水揚げは、日本海側の方が、圧倒的に多かったそうです。残された文献での記載も多いが、これは海水温度と海流に関係するのだそうです。
太平洋側で鮭の遡上が確認される限界は多摩川や相模川ですが、漁猟としてはもっとずっと北になるそうです。
日本海側では、鮭の遡上は、島根や鳥取まで確認され、漁猟としては、新潟県や富山県には、大量の鮭の水揚げの記録が残るそうです。特に、新潟県の三面川が、鮭漁が盛んで、恐らくここが随一と目されていたようです。三面川の沿岸の民家に、干し鮭が軒に吊り下がる様は、冬の風物詩で、北海道の”新巻鮭”の原型とされているようです。
北海道が鮭の本場産地と思い込んでいた自分には、目から鱗が落ちる思いの風景でした。
この新潟県から日本海へそそぐ大河に信濃川があります。この信濃川と上流の千曲川・犀川も大量の鮭遡上の川でした。千曲川・犀川の沿岸とその支流に、伊勢神宮の荘園・御厨が存在しています。御厨から伊勢神宮への貢ぎ物の中に、鮭といくらが記載されています。鮭の文化は、平安期から戦国期まで、北信濃に広がっていたのが確認出来そうです。

鰤文化


○岡田冠者の話
松本の高台・岡田地区に、豪族で”岡田冠者”が住んでいました。鎌倉時代の前後の頃の話です。
◆岡田冠者親義の話・・・
木曽義仲の挙兵に際して、最初から義仲軍に参加し活躍した源氏の武将に、岡田冠者親義があり、親義の終生の居館跡が、松本市岡田伊深にあったといわれています。今では、居館跡は住宅地に呑み込まれて、跡かたも無いが、居館近在に、一族が尊崇した式内社・岡田神社が建つ小高い丘が 、岡田親義の住居だと言われています。いまだ往古の雰囲気が残っています。近くにある伊深城は親義一族が築いた山城だとの説もあります。・・・*冠者は成人男子のこと、若武者と言う意味か。

 

岡田親義が活躍した倶梨伽羅峠の戦い・・・
                          ・倶梨伽羅峠・・石川県河北郡津幡町倶利伽羅と富山県小矢部市石坂との境。
◆倶梨伽羅峠の戦い・・平安末期の寿永(1183)2年5月11日に、越中・加賀の国境にある砺波山の倶利伽羅峠で、源(木曽)義仲の源氏軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。・・

ここが有名になったのは、牛の角に松明をくくりつけた「火牛の計」の戦いを描いた絵巻があるからだそうです。
この倶利伽羅峠の合戦には、義仲軍は「火牛の計」という戦法を取った。・・火牛の計・・「数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つ・・『源平盛衰記』、これは”絵巻”にも描かれているが、しかし ・・・後年の創作の疑いもあるそうです。
 ・・・・・岡田冠者は、この戦いで戦功を上げたが戦死し、戦役に同行していた息子たちが故郷へ戻った。その際、倶利伽羅峠のある地方から、鰤と鰤の料理法を持ち帰ったと言われています。

小笠原流礼式

 

信州に於ける晦日の鰤の食習慣は、室町幕府時代から戦国にかけての小笠原守護家の統治地域と奇妙に重なる。

信州の、松本(昔は府中)と伊賀良(飯田は除く・飯田は郊戸と呼ばれ、郊戸は小笠原家庶流の坂西家)を二つの拠点とする小笠原家は、武家の棟梁であるとともに、武家の棟梁のたしなみの”礼式”の宗家でもあった。その流儀は、”弓馬の礼”を基本としながら、武家屋敷の日常の生活様式にまで及び、今でも茶道・華道を含めての「小笠原流」として広く伝搬している。


その小笠原流の正月の節分(=おせち)に関する部分を拾い上げてみると、
・床の間の飾りを床飾りと呼び、小笠原流の伝書には次のように記されています。
・・「正月の飾りには裏白を敷きて その上に餅ふたつ置きて 昆布 柑子 俵物を餅の上に置き 末広の扇子を紙にて包み水引にて中を結び 熨斗を添えて飾るなり」
・・「屠蘇の「蘇」は悪鬼を表し、悪鬼を屠るというのが、屠蘇の字義」なり。
・・「おせち料理は、正月に火を使わない風習」
・・「おせち料理はめでたいことを重ねるという願いを込めて重箱に詰め ・・ 基本は四段重ねで、上から順に、一の重、二の重、三の重、与の重、と呼び・・
一の重…黒豆、数の子、ごまめ(田作り)などの祝い肴〔ざかな〕
二の重…伊達巻やきんとんのような甘いもの中心
三の重…魚や海老の焼き物など海の幸
与の重…野菜類の煮物などの山の幸


その意味は ・・・
黒豆…一年中「まめ」に働き「まめ」に暮らせるようにとの願いが込められ・・
数の子…たくさんの卵があるというところから、子孫繁栄の願いが込められ・・
田作り…稲の豊作を願う気持ち、五穀豊穣の願いが込められ・・
海老…腰が曲がるまで丈夫という長寿の願いが込められ、海老の赤色は魔よけの色・・
昆布巻き…「よろこぶ」 の語呂合わせ・・
きんとん…「金団」と書き、その色から財産、富を得る縁起物・・
紅白なます…紅白のめでたい色は水引を表し、紅白の組み合わせは平和を願う縁起物・・
*三の重の焼き物に”鰤”が入ります。現在では、京都も鮭の入手がたやすくなったので、現代風には、鰤と鮭と両方とも入るみたいです。

残念ながら、晦日の鰤の項目は見つけられなかったが、小笠原流の地元・信州とともに、小笠原流の中心であった京の食文化は、北陸の海産物に支えられていたと言われており、室町時代の京都の食文化と無関係ではなさそうです。

伊那地方の食文化は、愛知県・三河とかなり似通っていると言われています。
鰤に限らず、山国・信州の海産物は、塩とともに三州街道を通って三河から運ばれてきたものと思われます。鰤は、富山・氷見が有名ですが、北陸に限定されたものでもなさそうで、事実三河湾の漁港でも水揚げされています。
根拠のない推論ですが、伊那地方の晦日の鰤は、北信の鮭よりも、三河の方が身近で馴染みやすく、鰤の方が入手しやすかったのではないだろうか、と・・・。事実、三河と飯伊地方(下伊那)は、陸運の繋がりのみ成らず、三河との姻戚関係のある旧家が散在します。

三河湾の漁港は波静かな海に面しています

そういえば、田舎の正月に、毎年”三河漫才”がやって来て、軒先で舞を舞ったのを思い出しました。そんな訳で、三河は、昔からかなり親近の情があるように思います。

 

○ やまざとは まんざい遅し 梅の花  ・・芭蕉


コメント (2)
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