和紙の町・小川町
・・・ 細川紙 -ユネスコ無形文化遺産に登録世界遺産認定
・小川和紙の起源は古く、一説には約千三百年前、当時の武蔵国に渡米した高句麗人により伝えられたのが始まりとされています。昭和61年より優良県産品に認定され和紙のやわらかさと色合いが好評です・
== 現在の小川町で漉かれている紙が「細川紙」と呼ばれ始めたのは江戸時代中期といわれ、それまでは「武蔵紙」と言われていました。
・・・ 和紙民芸品製造・鷹野製紙所 ・・・
・・・ 埼玉伝統工芸会館 ・・・
・・・ 和紙製造元・窪田紙業有限会社 ・・・ 小川和紙センター
・・・ 小川町和紙体験学習センター ・・・
・・・ 紙すき場 町に15軒ある生産者 ・・・
小川町の”小川”の由来 ・・・
・・・ 槻川の支川であることから、兜川は「小川」と呼ばれていたことがあり、 それが小川町の名前の由来になったとも言われている。 ・・ 小川町を中心とする比企郡の和紙産業を支えたのは、兜川と槻川の清流だった ・・
和紙の製造には、どうやら”清流”が必要だったようで、小川町の兜川と槻川は、さらに”佳き酒”も生み出したようだ。 ・・小川町は、県内の「酒どころ」としても有名。"帝松"の造り酒屋に、何回か寄って、その都度日本酒を求めることがある。
なお槻川上流は、東秩父村になり、小川町と同様に”細川和紙"の産地として、ユネスコ無形文化遺産に登録された。
小川和紙の歴史 ・・
・・・ 小川和紙の起源は610年に高麗の僧「雲徴」が製紙技術を伝えたのが最初といわれ、正倉院の古文書には八世紀に ... 小川町で手漉き和紙が盛んになったのは原料の楮が自生していたこと、恵まれた槻川の清流、ときがわ町の慈光寺など多くの寺で、盛んに写経が行なわれたため、これが小川和紙の発祥と関連がある ・・・と言われています。
・・・ 小川町和紙体験学習センター ・・・
和紙体験センター 入り口
レトロな建物 駅付近の細い道
道の駅にある・伝統工芸館
紙漉の道具
カラフルな和紙
細川紙の作業工程
すかしに花や葉が・・こんなのも
和紙で作ったファッション衣料・雨で濡れたら ??
・・・ 和紙民芸品製造・鷹野製紙所 ・・・
・・・ 小川和紙センター
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東秩父村の細川・和紙については、こちらをどうぞ ↓
東秩父村「和紙の里」紙漉き農家
和紙の歴史
1:紙の歴史
紀元より前のころ、文字が発明されて、その頃から"紙"は使用されていたらしい。しかし、文字の記録が、一挙に紙になったわけでもなさそうだ。
中国の文献に寄れば、植物繊維の紙の前に、絹で作った紙が存在し、それが文字の記録に使われていたようだ。
エジプトでは、パピルスに文字は書かれた。初期の聖書はパピルスに書かれていたようで、この『パピルス』が”paper”の語源になったことはよく知られている。
文明の開化の時代、中国の絹の紙も、エジプトのパピルスも、かなり貴重なものとされ、製法は秘密であった。文明の発展というものは、記憶を記録するところから始まり、文字の記録は、さらに必要になっていく。エジプトでは、羊飼いが盛んであった。羊が食用とされた後、残るのが羊の皮である。これを工夫して、文字が書けるようにしたのが、羊皮紙である。羊皮紙は、パピルスよりも格段に書きやすかった。イスラム教の教典も、キリスト教のバイブルも、ヒンズー教の教典も、この世界宗教の発展とともに羊皮紙は、莫大な成長を遂げた。
エジプトから印度までの、獣皮による紙・羊皮紙が発展しているのと同時期、中国では、麻を使った和紙の原型の、植物の繊維の紙が発明されている。後漢の時代、紀元より少し前の事だ。ただ、この麻の紙は、繊維質が粗くて、文字書きには適さず、もっぱら銅鏡などが傷つくことを防ぐ、包装用に使用されていたらしい。
中国の麻紙は、やがて絹を採る蚕の餌の桑科の植物に移行していく。桑科の植物を、細かく砕くことにより、繊細な繊維筋になり、漸く文字が書けるような和紙の原型が出来上がっていく。
この桑科の紙は、中国からの仏教の伝来とともに、紙漉の技術も伝来したと見てよい。同時に、桑と絹の製法も伝わったのではないかと思う。
ちなみに、和紙で使う”楮”は桑科の植物である。楮は、山間の斜面に自生するが、水を好み、水辺の方が成長が早い。河原で挿し木によって栽培することが出来る。
2:和紙の歴史
さて、ここまでが紙の発明に関する外国の模様である。
日本で、紙のことが歴史に登場するのは、西暦700年代、の「正倉院文書」によってである。
・・・ 『正倉院文書』天平勝宝四年(753年)には植物で染色された、五色紙・彩色紙・浅黄紙などの十数種類の色紙と、金銀をさまざまにあしらった、金薄紫紙・金薄敷緑紙・銀薄敷紅紙などの十数種類の加工紙の名がある。 ・・ この他に『正倉院文書』には多くの紙の名が見える。・・ 原料名を示す麻紙・斐紙・穀紙などの他に、紙屋紙・上野紙・美濃紙などの産地名や固有名詞を冠するもの、加工法を表す打紙・継紙(端継紙)、形と質を表す長紙・短紙・半紙・上紙・中紙、他に用途を示す料紙・写紙・表紙・障子料紙(明かり障子ではなく間仕切り総称としての障子にはるもの)、染料の名を示すもの、色相を示すものなど実に多くの紙の名が見える。
図書寮が置かれ、官庁の紙の需要増大に対応して、年間の造紙量を二万張(幅二尺二寸長さ一尺二寸)と規定し、さまざまの造紙の工夫がなされるようになった。官営紙漉き場である図書寮とその付属の山城国の五十戸の紙戸が指導的立場で、写経用紙をはじめ夥しい色紙、染紙、手の込んだ加工紙などが抄造され、華麗な天平文化の一翼を担った。 ・・・”図書”は官名で、「トショ・・と読むのではなく”ヅショ”」と読みます。蔵書を目的とする役職ですが、発給する”御教書”などが法に適合しているのか、の検証の役目・・現在の大手企業の文書課の役割と、制度発足当時は、和紙の製造・運搬・販売・貯蔵までとその染料の管理までを役割の範囲にしていたのが見て取れます。役割は、やがてシュリンクして蔵書のみになり、官名詐称の道具に成り下がったようです。
・・・ すでにこの頃、小川郷が紙の産地であったことが確認されている。
・・・ 注目すべきは、既にこの頃から障子料紙としての用途の拡大が記録されている。奈良、平安の時代、和紙は建具の障子に使われていたことが確認出来るのだ。しかし、これは現代の障子ではなく、不透明な間仕切りの襖的なものを意味するようだ。
明かり取りの機能を持った障子が普及し始めるのは、室町時代からで、江戸時代に、爆発的に一般に普及する。
文明としての文字の記録は、文明の発展とともに、紙の普及を促していく。さらに時代を経ると、用途・目的の拡大があり、写経、和歌・俳句、寺子屋、藩校、帳簿、傘、提灯、草紙、そして何よりも障子紙などなど・・・爆発的に需要は伸びていく。このうちの、障子紙の建具への転用は、小川郷の近郷に新たな産業を生み出す。都幾川・明覚の建具産業がそれである。
この歴史の流れを鑑みるとき、細川紙は、江戸時代までは、不況知らずの右肩上がりの産業ではなかったのではないかと想像できる。
3:税の中心の紙
・・・ 平安時代に、和紙はかなり貴重なもので、納税の品目に”紙”が見受けられます。男衾三郎(寄居町の豪族)の逸話に、子息たちが後に苦労しないため、納税を前納したことが記録に残っています。その品目の中に、和紙が入っています。この和紙は、男衾との地理的近接で、小川和紙と比定できそうです。 ・・・男衾三郎や吉見二郎は、どうやら実在の人物ではなさそうですが、壬生一族の子息をモデルにした、架空の絵巻物として作られた、と言うことでしょうか。子息が、分割された地に赴いたとき、その地名を”冠”にして、例えば”男衾殿”と呼ばれることが多かったようです。
この頃の、納税の品目は、遠方では、馬や絹織物や地方名産品の他、”和紙”が多く見受けられます。和紙は、かなり貴重なものだったようです。
また、御厨で、伊勢神宮に貢ぐものの品目に、「神鳳鈔」などで確認すると、、鮭と鮭の子、麻の布、和紙、馬が記載されています。埼玉県の御厨は、二カ所が確認されています。大川戸(古利根岸・松伏町)と児玉町飯倉(荒川岸・本庄市)がそれに当たります。御厨の位置を確認すると、なぜか海岸、川岸がほとんどです。このことは、想像を逞しくします。
しかし、明治維新以後、木材パルプで作った洋紙が廉価で出回り、ガラスが障子に取って代わり始めると、和紙の産業は、一気に”斜陽”に転換していく。