薬呑ムさらでも霜のまくらかな 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「薬呑ムさらでも霜のまくらかな」。「翁、心ちあしくて、欄木起倒子へ薬の事いひつかはすとて」と前詞がある。
華女 「欄木起倒子」とは、人の名前なのかしらね。
句郎 「らんぎきとうし」は、熱田の医師だったようだ。
華女 「霜の枕」とは、冷たい枕ということかしら。
句郎 嫌、冬の旅寝のことを意味しているらしい。
華女 「さらでも」とは、どんな意味
句郎 「それでなくとも冬の旅は辛く、寂しく、心細いのに」というような意味なのじゃないのかな。
華女 体の具合が悪くなって、薬を飲まざるを得ないということなのね。
句郎、省略の利いた句なんだと思う。
華女 「霜のまくら」という言葉に鬼気迫る気配があるように思うわ。
句郎 道に死ぬ覚悟はできていたんだとは思うけどね。
華女 当時の冬の旅は、死と隣り合わせにあったのよね。
句郎 凄い緊張感の中の旅だったということは言えると思うな。
華女 鬼気迫ると言ったでしょ。鬼気迫る句を思い出したわ。
句郎 どんな句があるの。
華女 鬼気の俳人というと富田木歩(もっぽ)でしょ。
句郎 「我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮」という句だったかな。
華女 関東大震災の大火の中で焼け死んだと言われている薄幸な俳人よ。
句郎 足に障害があり、歩くことが困難だったようだから、逃げ切れなかったんだろうね。
華女 この句「我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮」、病を得て寝ているのよね。天井から釣り下がってきた蜘蛛の糸が微かな風に揺れ肩に付き、弛みが無くなった。身じろぎもせず、木歩は蜘蛛の糸を見ているのよね。
句郎 自分の死を見ている緊張感がピンと張られた蜘蛛の糸に表現されているように感じるな。
華女 死を見る緊張感という点では、芭蕉を木歩は超えているように感じるわ。
句郎 私もそのように感じるな。
華女 小学校にも行けなかった木歩はいろはかるたやめんこで文字を覚えたというじゃない。芭蕉も木歩と同じように字を学ぶ教育を受けたわけじゃなかったんでしょ。
句郎 伊賀藤堂藩の嫡子に仕え、芭蕉は字を覚える喜びを知り、和歌を覚え、先人の俳諧を学んだのではないかと思う。
華女 木歩のこの句は芭蕉の「薬呑ムさらでも霜の枕かな」を超えているようにも感じるわ。
句郎 芭蕉も木歩も死を見つめ、戦っているこの緊張感が芭蕉より木歩の方が強いように感じるからかな。
華女 「さらでも」という言葉には主観があるからなんじゃないかしらね。
句郎 主観を表現する言葉には力がないのかもしれないな。
華女 人に訴える力がないのよ。木歩の句には主観的な言葉がないのよ。
句郎 客観的具体的言葉で主観が表現されたときに句は力を発揮するのかもしれないな。
華女 そうなんじゃないかしら。音、音楽よ。人間のいろいろな感情を表現し、訴える力は場合によっては言葉より強い力を持つことがあるのよ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます