殺生石
禅の恩師仏頂和尚山居の跡を訪ねた後、芭蕉は殺生石に行く。恩師はどのようなところで禅の修業をしたのか、芭蕉は訪ねたかったに違いない。その気持ち、分かります。しかし殺生石になぜ芭蕉が行くのか、その理由が「奥の細道」を読むかぎりでは分からない。読者の想像に任せている。
当時、東海道には観光案内書のようなものがあったが、那須野は観光案内書がでまわるような名所にはなっていない。それにもかかわらず芭蕉は旅立つ前に殺生石には行こうと決めていたに違いない。殺生石についての情報を事前に芭蕉は得ていたのだ。その情報によって芭蕉は殺生石に行きたいという気持ちになった。
その情報とは何かというと、それが謡曲「殺生石」である。きっと能舞台を見たことがあったのであろう。この謡曲「殺生石」に芭蕉は感銘した。殺生石とはどんなところなのだろう。殺生石とはどのような石なのだろう。生き物を殺す石とは、好奇心に燃えていた。
当時那須野は徳川の勢力範囲の辺境にあった。少し行くと白川関である。この白川関は「奥の細道」に書
いてあるように三関の一つである。この三関とは平安時代のものであるから芭蕉が生きた徳川・元禄時代にはその役割を終えていた。平安時代の役割とは蝦夷は来る勿(なか)れ、大和民族が異民族・蝦夷の侵入を防ぐために設けられたものである。勿来関(なこそせき)とは読んで字のごとく、蝦夷の侵入を防ぐ意味を表している。勿来関は太平洋岸、白川関は東北道、鼠ヶ関(念珠関)は日本海岸、それぞれ侵入のしやすい所に設置された。
坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、八世紀末、蝦夷との激闘をした場所の一つが那須野の原であった。そこは戦場に散った兵士たちの幽鬼が往生出来ずにさまよい出るところであった。
那須野の原がそのような場所であったが故に生き物を殺す石は兵士たちの怨念ではないかという物語を紡ぎだした。
十二世紀初め、鳥羽上皇の寵愛を受けた妃に氏素性のはっきりしない玉(たま)藻(も)の前がいた。眉目秀麗な玉(たま)藻(も)の
前は妬(ねた)みの対象になった。その妬みが玉藻の前の本性
を暴く。玉藻の前は金毛と九つの尾を持つ狐だと化けの皮をはがす。本性が暴かれた玉藻の前は宮廷から逃れ、那須野に逃げ延び、都人への怨念(執心)が石となった。玉藻の前が逃げ延びた所がなぜ那須野だったのかというと、そこは死んだ兵士たちの幽鬼がさまよいでるところであったからだ。怨念に苦しむこの石に玄翁和尚が念仏を唱えると殺生石は割れ、玉藻の前の怨念は消え、極楽への往生を遂げる。このような物語が謡となり、元禄時代の人々の心を癒した。
那須岳の噴火で吐き出された溶岩が固まり、硫化水素や亜硫酸ガスをだし、生き物を殺すという認識を当時は得ることができなかったので、このような物語ができた。
芭蕉は謡「殺生石」を胸に抱き、怖れながら石に近づき、怨念のもつ恐ろしさを、恨みに執心する恐ろしさを感じた。きっと芭蕉は殺生石に手を合わせ、念仏を唱え、極楽への往生を願い殺生石を拝んだことであろう。
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