醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  618号  裸にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐哉(芭蕉)  白井一道

2018-01-12 12:58:39 | 日記

 裸にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐哉  芭蕉

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「裸にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐哉」。芭蕉45歳の時の句。『笈の小文』に「伊勢山田」と前詞を書き「何の木の花とはしらず匂哉」の句の後に載せられている句。
華女 芭蕉が何を詠っているのか、全然分からないわ。また「衣更着(きさらぎ)」とは何なのかしら。
句郎 如月(きさらぎ)のことを「「衣更着(きさらぎ)」と表現してみたんじゃないのかな。
華女 もう一枚上着を着ても寒いという意味を表現しようとしたのかしら。これは悪戯と言ってもいいようなことね。
句郎 談林俳諧の影響があるということなのかもしれないな。蕉風俳諧に開眼したといってもまだまだ前時代の俳諧の影響が色濃く残っているということだと思う。
華女 二月に吹く強風は寒いと言っているだけの句ということなの。
句郎 「なにの木の花とはしらずにほひ哉」の句の前詞が「西行のなみだ、増賀の名利、みなまことのいたる處なりれらし」だったでしょ。西行のなみだとは、「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」の歌を意味していた。この歌を芭蕉は俳句にした。その俳句が「なにの木の」の句だった。「増賀の名利」を俳句にしたのが「裸にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐哉」だった。
華女 「増賀の名利」とは、何なのかしら。
句郎 、芭蕉は西行が書いたと言われていた仏教の説話集『撰集抄(せんじゅうしょう)』を読んでいた。この説話集に「増賀の名利」という説話があるんだ。その説話とは次のようなものなんだ。「昔、増賀聖人といふ人がおられました。大変純真な方でで、求道心深く、天台山の根本中堂に千夜こもり、祈り給ひけれども、なほ、まことの心を得ることができませんでした。ある時、ただ一人、伊勢大神宮に詣でて、祈請し給ひけるに、夢にみました。「道心を発(おこ)さんと思はば、この身を身とな思ひそ」と示現を蒙り給ひけり。うちおどろきて思すやう、「『名利を捨てよ』とにこそ、侍るなれ。さらば捨よ」とて、着給へりける小袖・衣、みな乞食どもに脱ぎくれて、一重なるものをだにも身にかけ給はず、赤裸にて下向し給ひけり。」このような話を芭蕉は俳句に詠んだ。春の嵐に裸じゃ耐えられないよと笑ったんだ。増賀聖人さん、本当に二月の強い風の中、裸で伊勢神宮の森の中を帰ったんですかね、と。
華女 芭蕉のこの句を味わうには『撰集抄』の増賀聖人の説話を知っていなければ分からないわけね。元禄時代の俳諧を楽しんだ人々は皆『撰集抄』の説話を知っていたのかしら。
句郎 芭蕉がこの句を詠んだということは、この句を分かってもらえると思ってこの句を詠んでいると考えているんだけれど。
華女 現代の俳人と言われている人々だって皆が『撰集抄』を詠んでいるとは思えないわ。
句郎 多分、そうだと思うよ。だから今、生きる人々と当時の人々の常識というか、教養が違っているから理解できなくなる。そのような句は次第に人々から忘れられていくということなんじゃないのかな。

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